天保二年八月十九日(1831年9月24日)、仕事を終えての昼過ぎ、嘉陵は高田近辺の散歩に出掛けている。最初に立ち寄ったのは高田天満宮の別当寺である真定院(廃寺。跡地は新宿区西早稲田2)である。嘉陵は八月五日にも、この寺を訪れて院主に会っているが、この日も丁度、院主が居て、大橋長左衛門が書いた三十六歌仙の額を詳しく見せてもらう。また、大橋龍慶が彫刻した菅原道真尊像と、龍慶が家光から拝領した尊像を拝謁。ほかに源実朝の持仏という金銅観自在菩薩立像も見る。院主の話では大橋龍慶の宅地が小日向に移されたあと、跡地に穴八幡を勧請し、その時に土中から出現した像などを八幡宮に納めたという。高田天満宮は、当初、早稲田天神町にあり、後に尾張藩戸山屋敷に移され、さらに高田(旧地は新宿区西早稲田2)に移された。周辺に住人も居ない僻地で、土地は広いが日陰地で菜園にならず、檀家も少ないという事であった。嘉陵は、ここの院主について、詩をよくし、歌を詠み、衣破れ食乏しくとも気にせず、人にものを乞うこともなく、世間に学識をひけらかすでもなく、七十余歳にしてなお健康であると書いている。嘉陵は、この人物に引かれる所があったのだろう、後に人づてに詩を贈っている。
嘉陵自筆本表紙の注記によると、天保十年(1839年)冬に、自火のため天満宮の社も坊も焼失し、一物も留めず烏有となったという事である。なお、現在の高田天満宮(北野天神。写真。新宿区西早稲田3)は、近くの水稲荷の裏手にひっそりと祀られている。
高田天満宮の参詣を終えた嘉陵は、午後2時過ぎに門を出て、高田馬場(跡地は新宿区西早稲田2)から、砂利場(面影橋の北側)を通り、藤稲荷(新宿区下落合2)に詣でている。面影橋を渡り南蔵院から西に行く道を辿ったのであろう。そのあと、氷川神社(新宿区下落合2)を左に見て、薬王院(新宿区下落合4)の前を通り、伊草の用水路(妙正寺川)に架かる橋を渡り、上落合の石地蔵の所から上って、曲がりくねった本道に出る。村絵図から、西橋(西ノ橋。新宿区上落合1)を渡って墓所の場所から右に入り、光徳寺に向かう道をたどり、その先を南に行ったと思われる。嘉陵は、この本道について、高田馬場から西に行く下戸塚の橋通りで、青梅街道の裏通りにあたり、西に行くと天沼、伊草に至り、さらに行けば遅野井八幡の前に出る道であると記している。また、この本道の道筋の家は農と商を兼ね、相応の蔵もあり、漬物の樽を積み重ねた家もあって、貧しい家は見当たらないと書いている。この本道は、地元では牛込通りと呼ばれていた道だが、現在の道で言えば、早稲田通りに該当する道筋である。
嘉陵は本道の北側にある浅間塚を訪れている。塚は土を盛り上げて、石像の浅間大菩薩を建てたもので、台石は2mほど、周囲は杉が生い茂っていたと記す。また、北側に稲荷社があり、浅間の祠、石塔婆もあって、全体の高さは6mほどと記している。この浅間塚は、落合村絵図にも記載されている。嘉陵は、浅間塚から南に、雑木の茂みを分け入ったところに伊勢皇大神宮の祠があったと記しているが、落合村絵図及び嘉陵の書いた略図から、南というのは誤りで、伊勢皇大神宮の祠は浅間塚の東にあたる。浅間塚のあった場所は、現在の早稲田通りと山手通りの交差点(新宿区上落合2)付近とされ、大塚という古墳を利用して築かれたと伝えられている。浅間塚は昭和2年の道路工事の際に取り壊され、塚の岩石は月見ケ岡八幡(旧地は八幡公園)に移されたとされる。さらに昭和37年に八幡宮が現在地(新宿区上落合1)に移されるに伴い、現在の八幡宮境内に浅間塚(富士塚)が造られ、現在に至っている。なお、最勝寺(新宿区上落合3)の「十一面観音立像」は、浅間塚から移したと伝えられており、確認はしていないが、刻まれた文面からすると、嘉陵が図に残した浅間塚の石像である可能性がある。
嘉陵は、この日、浅間塚を訪ねた理由として、過日、四家町(豊島区雑司が谷2、高田1,2)の末の富士見茶屋を訪れた際に、西北(西南の誤りか)の方に杉の梢が高く見える所があり、茶屋の嫗に聞いたところ、浅間塚の杉という事だったので、今日、思い立って詣でたのだと記している。富士見茶屋は、現在の学習院(豊島区目白1)内に、その場所があったとされる茶屋で、広重の富士三十六景にも「雑司がや不二見茶屋」として取り上げられている。この絵の中にも、富士の見える方角に二本の杉が高く聳える様子が描かれているので、目立つ存在ではあったのだろう。なお、広重の絵からすると、杉のある場所は月見ケ岡八幡宮の辺り(現在は八幡公園)になり、当時の浅間塚の場所ではない。描かれた風景と現実の風景は、必ずしも一致しないという事なのだろうか。
嘉陵自筆本表紙の注記によると、天保十年(1839年)冬に、自火のため天満宮の社も坊も焼失し、一物も留めず烏有となったという事である。なお、現在の高田天満宮(北野天神。写真。新宿区西早稲田3)は、近くの水稲荷の裏手にひっそりと祀られている。
高田天満宮の参詣を終えた嘉陵は、午後2時過ぎに門を出て、高田馬場(跡地は新宿区西早稲田2)から、砂利場(面影橋の北側)を通り、藤稲荷(新宿区下落合2)に詣でている。面影橋を渡り南蔵院から西に行く道を辿ったのであろう。そのあと、氷川神社(新宿区下落合2)を左に見て、薬王院(新宿区下落合4)の前を通り、伊草の用水路(妙正寺川)に架かる橋を渡り、上落合の石地蔵の所から上って、曲がりくねった本道に出る。村絵図から、西橋(西ノ橋。新宿区上落合1)を渡って墓所の場所から右に入り、光徳寺に向かう道をたどり、その先を南に行ったと思われる。嘉陵は、この本道について、高田馬場から西に行く下戸塚の橋通りで、青梅街道の裏通りにあたり、西に行くと天沼、伊草に至り、さらに行けば遅野井八幡の前に出る道であると記している。また、この本道の道筋の家は農と商を兼ね、相応の蔵もあり、漬物の樽を積み重ねた家もあって、貧しい家は見当たらないと書いている。この本道は、地元では牛込通りと呼ばれていた道だが、現在の道で言えば、早稲田通りに該当する道筋である。
嘉陵は本道の北側にある浅間塚を訪れている。塚は土を盛り上げて、石像の浅間大菩薩を建てたもので、台石は2mほど、周囲は杉が生い茂っていたと記す。また、北側に稲荷社があり、浅間の祠、石塔婆もあって、全体の高さは6mほどと記している。この浅間塚は、落合村絵図にも記載されている。嘉陵は、浅間塚から南に、雑木の茂みを分け入ったところに伊勢皇大神宮の祠があったと記しているが、落合村絵図及び嘉陵の書いた略図から、南というのは誤りで、伊勢皇大神宮の祠は浅間塚の東にあたる。浅間塚のあった場所は、現在の早稲田通りと山手通りの交差点(新宿区上落合2)付近とされ、大塚という古墳を利用して築かれたと伝えられている。浅間塚は昭和2年の道路工事の際に取り壊され、塚の岩石は月見ケ岡八幡(旧地は八幡公園)に移されたとされる。さらに昭和37年に八幡宮が現在地(新宿区上落合1)に移されるに伴い、現在の八幡宮境内に浅間塚(富士塚)が造られ、現在に至っている。なお、最勝寺(新宿区上落合3)の「十一面観音立像」は、浅間塚から移したと伝えられており、確認はしていないが、刻まれた文面からすると、嘉陵が図に残した浅間塚の石像である可能性がある。
嘉陵は、この日、浅間塚を訪ねた理由として、過日、四家町(豊島区雑司が谷2、高田1,2)の末の富士見茶屋を訪れた際に、西北(西南の誤りか)の方に杉の梢が高く見える所があり、茶屋の嫗に聞いたところ、浅間塚の杉という事だったので、今日、思い立って詣でたのだと記している。富士見茶屋は、現在の学習院(豊島区目白1)内に、その場所があったとされる茶屋で、広重の富士三十六景にも「雑司がや不二見茶屋」として取り上げられている。この絵の中にも、富士の見える方角に二本の杉が高く聳える様子が描かれているので、目立つ存在ではあったのだろう。なお、広重の絵からすると、杉のある場所は月見ケ岡八幡宮の辺り(現在は八幡公園)になり、当時の浅間塚の場所ではない。描かれた風景と現実の風景は、必ずしも一致しないという事なのだろうか。