嘉陵は九品仏への道を聞いて行禅寺を出るが、九品仏に行く前に二子の渡しに立ち寄っている。故宮(伏見宮貞建親王の子で清水家初代重好の妻となった田鶴宮貞子女王)が存命であった時に、嘉陵は、石坂直温、重沢清門、小川弁右衛門と一緒に、鮎を獲りに此処に来たことがあったが、それからもう24年も経っていた。あの時一緒に来た直温が今なお壮健で、要職に進んでいるのは目出度いことだが、清門と弁右衛門は先だって亡くなっている。今にして、同遊の者が二人も居ないのに、自分のみ生き残っているのは、恥じというべきか、それとも幸いというべきかと、嘉陵は思いを書き記している。
二子の河原で、嘉陵は石を幾つか拾って懐に入れている。河原には蓬が生えていたが、やつれて小さかった。また、翁草という、花も葉も真っ白な草があった。それは我が身のようでもあった。世の中には、「あの人は、まだ生きていて、よろよろと歩いている」などと陰口をたたく者も居る。それを黙って聞いているのも悔しいが、家に閉じ籠もる気にはなれない。すでに職を退いた身ゆえ、心のまま、時間の許すままに、山を越え、川を渡り、さまよい歩いているが、そんな自分を「老いぼれのくせに」と笑っている者も居るだろう。それでも、まだ見ていない場所はもとより、行ったことのある場所も、昔のことを偲びながら、せっかちに飽きることなく歩き回っているのだと、嘉陵は書いている。
河原をさまよっている内に、午後2時を過ぎてしまったため、もとの道に戻って九品仏に向かう。野良田村(世田谷区中町付近)を経て、衾村(目黒区八雲付近)を過ぎ、九品仏道を行く。農夫に道を尋ね田圃の中道を進むと、九品仏(写真。世田谷区奥沢7)の仁王門の前に出る。本堂があり、九品仏の堂宇が三宇ある。また、未完成の仏像を多数安置している堂があった。
帰りは、来た道を衾村まで戻り、東に行って坂を下る。大陽山の額のある寺(太陽山東光寺か。目黒区八雲1)を過ぎ、碑文谷村を経て、日が暮れる頃に祐天寺(目黒区中目黒5)の前を通る。ここから、目黒の元富士(目黒区上目黒1)の裾を過ぎ、渋谷八幡(金王八幡神社。渋谷区渋谷3)の下の橋を渡って、熟知の道を家路に着く。家に帰ったのは午後8時であった。この日、歩いた距離は35kmほど。嘉陵は72歳になっていた。
二子の河原で、嘉陵は石を幾つか拾って懐に入れている。河原には蓬が生えていたが、やつれて小さかった。また、翁草という、花も葉も真っ白な草があった。それは我が身のようでもあった。世の中には、「あの人は、まだ生きていて、よろよろと歩いている」などと陰口をたたく者も居る。それを黙って聞いているのも悔しいが、家に閉じ籠もる気にはなれない。すでに職を退いた身ゆえ、心のまま、時間の許すままに、山を越え、川を渡り、さまよい歩いているが、そんな自分を「老いぼれのくせに」と笑っている者も居るだろう。それでも、まだ見ていない場所はもとより、行ったことのある場所も、昔のことを偲びながら、せっかちに飽きることなく歩き回っているのだと、嘉陵は書いている。
河原をさまよっている内に、午後2時を過ぎてしまったため、もとの道に戻って九品仏に向かう。野良田村(世田谷区中町付近)を経て、衾村(目黒区八雲付近)を過ぎ、九品仏道を行く。農夫に道を尋ね田圃の中道を進むと、九品仏(写真。世田谷区奥沢7)の仁王門の前に出る。本堂があり、九品仏の堂宇が三宇ある。また、未完成の仏像を多数安置している堂があった。
帰りは、来た道を衾村まで戻り、東に行って坂を下る。大陽山の額のある寺(太陽山東光寺か。目黒区八雲1)を過ぎ、碑文谷村を経て、日が暮れる頃に祐天寺(目黒区中目黒5)の前を通る。ここから、目黒の元富士(目黒区上目黒1)の裾を過ぎ、渋谷八幡(金王八幡神社。渋谷区渋谷3)の下の橋を渡って、熟知の道を家路に着く。家に帰ったのは午後8時であった。この日、歩いた距離は35kmほど。嘉陵は72歳になっていた。