天保二年九月三日(1831年10月8日)、朝食を済ませ、午前9時に家を出て、二子の渡し近くの行禅寺に向かう。この寺は、以前、寛量院が玉川(多摩川)に行かれた時に立ち寄った所である。寛量院は、嘉陵が仕えていた徳川清水家第四代の斉明のことだが、文政十年(1827年)に19歳の若さで亡くなっており、その跡を偲びつつ、書院の眺めが良いという行禅寺を訪ねてみようというのが、今回の目的である。
赤坂から青山百人町、宮益町を経て、渋谷川を渡り、道玄坂を上がって駒場への道と分かれ、世田谷二子道を行く。ここで、嘉陵は携帯した磁石を振って南南西に向かうことを確認している。行禅寺への経路は、嘉陵の略図からすると、大山街道(玉川通り)をたどったようである。三田用水を渡ると上目黒で、ここで氷川社(目黒区大橋2)を参詣する。このあと、流れ(目黒川)を渡り、池の尻(世田谷区池尻)に出る。説法があるという常光院に人が大勢集まっていたが、そのまま進み、三軒家(世田谷区三軒茶屋)に出る。ここで新町への道と分かれて二子道を行き、用賀を通って瀬田に出る。所々に民家があり、落ち栗を茹でて器に盛って道の傍らに置いてあり、一皿四文としてあったが、無人であった。
さらに行くと行禅寺(写真。世田谷区瀬田1)に出る。中に入ると右に薬師堂があり、東向きに本堂がある。書院は閉まっていたので、庭から眺めると、多摩川の流れが見え、富士、大山、秩父の山々が連なって良い眺めである。行禅寺は玉川八景の一つで、展望に恵まれていたため、将軍が遊覧の折に訪れた場所である。清水家第四代斉明も、この辺を訪れた時に休憩した場所でもあった。その事もあってか、しばらく佇んでいると、往時が偲ばれて粛然とすると、嘉陵は書いている。ちょうど昼時でもあり、寺に居た老人のすすめもあって、嘉陵は持ってきた飯を食べている。
赤坂から青山百人町、宮益町を経て、渋谷川を渡り、道玄坂を上がって駒場への道と分かれ、世田谷二子道を行く。ここで、嘉陵は携帯した磁石を振って南南西に向かうことを確認している。行禅寺への経路は、嘉陵の略図からすると、大山街道(玉川通り)をたどったようである。三田用水を渡ると上目黒で、ここで氷川社(目黒区大橋2)を参詣する。このあと、流れ(目黒川)を渡り、池の尻(世田谷区池尻)に出る。説法があるという常光院に人が大勢集まっていたが、そのまま進み、三軒家(世田谷区三軒茶屋)に出る。ここで新町への道と分かれて二子道を行き、用賀を通って瀬田に出る。所々に民家があり、落ち栗を茹でて器に盛って道の傍らに置いてあり、一皿四文としてあったが、無人であった。
さらに行くと行禅寺(写真。世田谷区瀬田1)に出る。中に入ると右に薬師堂があり、東向きに本堂がある。書院は閉まっていたので、庭から眺めると、多摩川の流れが見え、富士、大山、秩父の山々が連なって良い眺めである。行禅寺は玉川八景の一つで、展望に恵まれていたため、将軍が遊覧の折に訪れた場所である。清水家第四代斉明も、この辺を訪れた時に休憩した場所でもあった。その事もあってか、しばらく佇んでいると、往時が偲ばれて粛然とすると、嘉陵は書いている。ちょうど昼時でもあり、寺に居た老人のすすめもあって、嘉陵は持ってきた飯を食べている。