荻窪が閑静な住宅地として注目されるようになったのは、大正から昭和にかけてのことである。そうした邸宅の一つ、大田黒元雄の旧邸が、今は大田黒公園として公開されている。大田黒元雄は音楽評論家で、NHKのラジオ番組、話の泉にも出ていたから、年配の人はご存知かもしれない。この公園でまず目を引くのは、入口から続く銀杏並木だろう。傾斜地を利用した流れと池のある庭もなかなかのものである。園内には、大田黒元雄の仕事場も記念館として保存されている。
この公園からさほど遠くない場所に、角川文庫創業者の角川源義の旧邸が、すぎなみ詩歌館として公開されている。大田黒公園を見た眼からすると庭は広いとは言えないが、日当たりの良い庭で、片隅には水琴窟が設えられたりする。建物は戦後の建築で古くはないが、趣のある和風建築である。すぎなみ詩歌館のある場所は台地の端で、その南側の、荻窪団地のある一帯は、かつて一面の水田になっていた。この水田には北からの流れが入り込んでいたが、大田黒公園の西側と、中央図書館裏手の読書の森公園の近くが、その源流域と思われる。
春日橋の先で、善福寺川は左に右にと曲がり、南に流れていく。かつて、ここから一つの水路が分流され、今の荻窪団地の場所にあった水田を横切って東に流れ、台地の裾に沿って流れてきた水路と合流し、トンネルを通って成宗弁財天の弁天池に流れ込んでいた。天保12年に開設された新堀用水が、それである。この用水の分流点より少し下流から分流する水路もあって、水田を斜めに横切って今の田端神社の方向に流れ、さらに、台地の裾に沿って流れていた。天保11年の新堀用水で使われた水路である。
神通橋を過ぎると、五日市街道が通る台地に遮られ、善福寺川は北東に大きく向きを変えていく。ここからは善福寺川緑地公園になり、散歩するには気分の良い道になる。明治の頃には、この辺りに三つの水路が流れていた。南側の台地の裾を流れる善福寺川の分流と、水田の中を蛇行して流れる善福寺川の本流、それと、北側の台地に沿って流れる天保11年の新堀用水である。新堀用水の水路は台地の先端近くから屋倉橋付近までがトンネルで、そのあと台地に沿って流れていた。
天王橋に出て左に行くと須賀神社の前に出る。その西側に成宗五色弁財天の社があって、新堀用水の跡もあるが、弁天池はすでに無い。新堀用水は、善福寺川の水を桃園川流域に供給しようというものである。天保11年、矢倉台地の先端を回り込んで弁天池に流したあと、青梅街道の下を潜る用水路が完成したが、途中の水路が崩れたため、天保12年に、弁天池までを最短ルートの水路トンネルとする経路に変更している。この時の新堀用水の延長は2270m、トンネル部分は650m、水路の傾斜は1000分の1であった。設計施工監督を担当した中嶋銀蔵に用水路工事の経験があったかどうかは不明だが、水盛大工であったので、水平測量の経験はあったのだろう。江戸時代の水路トンネルには、箱根の深良用水や金沢の辰巳用水などの事例があり、規模の小さなものは各地にあったようだが、そう簡単に掘れるものではなかっただろう。新堀用水の工法は、胎内掘、掘抜(ほっこぬき)、たぬき掘とも呼ばれた素掘りで一人が通るくらいの横穴を掘るものだそうだが、経済的で工期も短かったためか、玉川上水の分水路などでも用いられている。昭和に入ると、桃園川流域の宅地化が進んだため、新堀用水の本来の役目は終わってしまうが、善福寺川流域では用水としての利用が続いていたようである。