夢七雑録

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神田川支流・妙正寺川(3)

2011-05-20 19:16:28 | 神田川と支流

 妙正寺川は北から流れてきて、西武新宿線の下を潜りぬけてくる。上水車橋から川の左側の歩道を北に向かって歩くと、西武新宿線の下を抜けて向こう側に出られるようになっている。このあと、川に沿って歩き、上高田公園と西落合公園を過ぎると四村橋に出る。この橋の近くに旧鎌倉街道中道の西回り道が通っていたという説がある。橋から少し北に行くと、葛ケ谷御霊神社がある。今の由緒では、源義家の軍勢に従って奥州に向かった一族が、帰途この地に留まり八幡神社を勧請したのに始まるとしている。

 妙正寺川は、四村橋の上流で哲学堂の下を流れている。哲学堂は、東洋大学を創始した井上円了によって明治37年に創立された精神修養の場で、現在は運動施設を含めた中野区立の公園になっている。ただ、園内を見て回っただけで精神修養に役立つというわけではなさそうである。最近、ハンガリー出身のナンドールの作品「哲学の庭」が、哲学堂に寄贈された。この作品は、異なった文化を象徴する宗教の祖の人物像による第一の輪、異なる文化や時代において悟りの境地に達し実践した人物像による第二の輪、異なる時代において法を作った人物像による第三の輪からなっている。確かに哲学堂には相応しい作品とは思うが、一見しただけで、その意味を汲み取る事は難しい。

 哲学堂のある場所は和田山と呼ばれ、言い伝えでは、衣笠城に居た和田義盛が各地に設けた陣屋の一つがあったという。また、子孫が当地で帰農したともいう。和田義盛は、源頼朝に仕えた御家人の中で勇猛第一とされ、侍所別当になった人物である。本拠地は三浦半島の和田といい、鶴岡八幡宮近くに屋敷があった。また、房総半島に所領があったとする説もある。和田という地名は各地にあり、地名だけで和田義盛と関連付けることは出来ない。また、和田義盛が陣屋を設けたという証拠らしきものもない。曲がった地形という意味のワダから和田という地名が生じたという説もある。近くに名主の名に由来する対馬山という地名もあり、和田義盛の子孫と称する和田某の土地だった可能性は、無いとはいえないが、その事を示すものがあるわけではない。以前、哲学堂公園の一部ではあったが、遺跡発掘調査が行われた事があり、縄文土器と江戸から明治にかけての道路跡が見つかっているが、中世の遺構は発見されていない。今のところ、陣屋跡という説は、伝説の域を出ないという事である。

 下田橋の少し上流に江古田公園があり、妙正寺川に江古田川の細流が流れ込んでいる。近辺の地形はやや複雑で、南側から流れてきた妙正寺川が、上高田から北に伸びてくる台地の先端の崖地を回り込んで向きを変え、ここに北から流れてきた江古田川が合流し、哲学堂のある台地との間を流れていく。江古田公園には、江古田原沼袋古戦場跡の碑が建っている。江古田から沼袋に至る一帯は太田道灌と豊島一族の合戦の場とされる。太田道灌はこの合戦に勝利し、その後、石神井城も落城させ、これにより名族の豊島氏は没落の道をたどることになる。江戸時代の末に幕府が地誌編纂のため現地調査を行った際、地元では合戦の場所を誰も知らなかったという話もあるが、道灌状からすると、合戦の場所が江古田原であった事は確かなようである。今は、戦死者を葬ったと思われる塚の位置からして、合戦の場所は、哲学堂のある東側の台地と、江古田川の合流点から西側の台地と考えられている。

 妙正寺川に合流する江古田川は、練馬駅からも近い学田公園付近を水源とし、千川上水からの分水を入れて南から東へ流れ、北流して江古田の森公園の台地を回り込むようにして南に流れている。その上流部は暗渠化されているが、下徳田橋から下流は開渠になっている。徳田は得した田だという話もあるが真偽のほどは不明である。江古田の森公園は、国立の療養所跡を公園としたもので、江古田川沿いの場所は縄文時代の遺跡である。また、公園の南側は中世の寺院、江古寺の跡という。

 江古田川との合流点から先、妙正寺川に沿って開放的な道を歩く。この先、川沿いの道は西武新宿線の線路で行き止まりになるので、右に折れて、沼袋の氷川神社に行く。神社の由緒では、太田道灌が豊島一族との合戦のとき、戦勝を祈願して杉を植えたとしている。また、神社の場所は道灌が陣を置いたところという。

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