夢七雑録

散歩、旅、紀行文、歴史 雑文 その他

29.三戸から花輪へ

2008-09-02 19:50:11 | 巡見使の旅
 江戸幕府が奥州方面に派遣した巡見使の旅を、連載形式で投稿しておりますが、ここからは、秋田県の鹿角地方へと向かいます。なお、江戸時代の鹿角は盛岡藩領でした。

(117)享保2年7月24日(1717年8月30日)。
 三戸を出立。この日は奥州街道から分かれ、鹿角への道をたどる。一行は田子川を渡り、とい川(豊川?)、とない(斗内)を経て田子で休憩。ここに信濃守俊直の古館ありと記す。この日の行程は六里弱。関に泊まる。

【参考】天明の巡見使の一人が灸をすえるため線香を頼んだところ、だいぶ待たされた揚句に僧侶が来たという笑い話が「東遊雑記」に掲載されている。この辺では、死者がでた時にのみ線香を使うという慣習の違いがあったわけだが、江戸時代の長旅では、途中で死亡者が出る可能性がある事も示唆している。事実、天保9年(1838)の巡見使の一人、中根伝七郎は三戸で病に倒れ、盛岡に直行する途中で死去し、盛岡に埋葬されている。

(118)同年7月25日。
 関からハヌキ峠、平ノ坂の難所を上る。途中、大深沢、小深沢を見る。また、下ハゲ峠山について大和大峯に続く山と聞く。来満山に入ると両側の木が枝を伸ばして頭上を覆い昼なお暗い道となる。宝暦の巡見随行者の日記には、湿地で蛇が多く生息しているため、巡見の二三日前に駆除していたと書かれている。この日の休憩地は山中坂を下ったところの山中。仮小屋の休所があったという。休憩後、尻くひ坂、麻つなき坂、大登坂、石名坂と難所を過ぎ、大芝(大柴)峠、小芝(小柴)峠を越える。覚書には是より銅山みゆると書かれているので、途中、駕籠を止めて尾去沢方面を眺めたのであろう。この先、茶屋場を設けた大明神を過ぎれば、大湯への下りとなる。この日の行程は五里。大湯に泊まる。出湯は四箇所あり、湯主は助兵衛と左伝治と記す。また、古館跡見ゆると記す。

【参考】天保九年の巡見に際して、道路普請などに徴発された総延人数は一万千五百六十六人に達したという。また、大湯の宿割人数からすると、巡見使一行のほかに、盛岡藩の役人と下役66人、医師と付添15人、持送方(長持、箪笥、荷物)18人、徒目付と同心20人、湯道具7、手水盥2、野雪隠1、衣服師2・衣服手伝洗物兼帯7、長持1、駕籠6挺に六尺39人、 先払同心12人、宿前番人18人、巡見使が雇った鑓持・挟箱持・合羽籠持46人、料理・給仕12人、作事奉行と棟梁8人。これに地元の先立古人を加えると400人近くが通行したことになる(安村二郎「(続)幕府巡見使」広報かづの)。

(119)同年7月26日、晴。
 大湯を出立。下濱田の右方に、今は櫻場壱助蔵屋敷になっている毛馬内の城ありと記す。その先、古川では錦木塚を見る。ここで、錦木を売る男と細布を織る姫の物語を聞く。また、巡見使各々に細布一反が献上されたため、代金として一分宛支払っている。古川を出て、八つの古館が存在する、かぶにた(冠田?)を通り、新田(神田?)に出て、米白川(米代川)を船で渡り、紀国坂を越えて松山で休憩する。松山からは山道となり、あま木沢(尼切沢)に出る。是より右方に秋田領南部領境山みゆる、と記されているので、駕籠を止めて遠望したのであろう。このあと、十文字長根を経て尾去沢に下り、金山銅山の見分を行う。この日の行程は六里半、花輪に泊まる。


コメント    この記事についてブログを書く
« 28.田名部から三戸へ | トップ | 30.花輪から盛岡へ »

巡見使の旅」カテゴリの最新記事