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市川への道を行くと、国分寺、手古奈、弘法寺への道標がある。ここを北に行くと、手古奈の社(手児奈霊堂。写真。市川市真間4)に出る。嘉陵は、十四、五歳の時に、父に誘われて来たのが、この社を訪れた最初であった。その時には、社の場所が分からず、案内の人に聞いて訪ねたのだが、葦と荻が生い茂った中に、茅葺の小さな祠があるだけで、鳥居も無かった。真間の井というのも、山際の窪地に水が垂れているだけであった。寛政四年(1792)の春に詣でた時には、社は昔の面影のままであったが、鳥居が建っていた。文化四年(1807)の春に訪ねた時には、祠は取り払われ、二間ほどの社に造り替えられ、真間の井も場所を移して普通の井戸になってしまい、板葺きの庵が出来ていた。いままた(1834)来て見ると、社殿は広さ五間ほど、太い欅柱に瓦葺、白壁造りに造り替えられ、鳥居も大きなものが建て並べられ、昔の面影はどこにもなかった。
石段を上がり真間山弘法寺に行く。祖師堂の前に二葉の楓が二本あった。以前来た時には一本が枯れて若木を添えていたのが、この楓である。その横に以前は無かった枝垂桜があった。遍覧亭にも行ってみるが、無用の者入るべからずと書き付けてあり、煩わしいので、黙って通り過ぎた。総寧寺にも行ってみたが、昔と違って美々しく磨き上げて、近寄りがたい雰囲気であった。
裏手の門を出て、矢切の渡しに出た。日もすでに暮れようとして、辺りはもの寂しく、流れる水の音だけが響いていた。渡り終えて、柴又の帝釈天を通り抜け、新宿に出た後、熟知の道を戻った。恐らくは、亀有から曳舟で四つ木に出て、吾妻橋で墨田川を渡り、三番町の家に戻ったのだろう。舟の区間を除いて、歩いた距離は30kmほどであった。
嘉陵が書いた紀行文は、これが最後にあたる。嘉陵は、その紀行文を、自らにおくる文として、大略、次のように締めくくっている。
子供の頃に真間に来たことがあったが、それから、もう60年になる。寛政の年に、再びこの地に遊んでからも、すでに40年過ぎている。顧みると、その時に同行した者は、もう誰も居ない。しかし、その事を悲しみ嘆くべきではない。昔の人が言うように、人生せいぜい百年である。この一日を安易に過ごした事の方を、惜しむべきなのだ。幸いにして生き延びたのであれば、生きる事の楽しみを知らずに過ごすべきではない。虚しく生きたとすれば、その事を憂うべきである。嘉陵、今年、75歳。虚しく生きたことを嘆いて、長溜息をつくような事は、しないようにしたい。
石段を上がり真間山弘法寺に行く。祖師堂の前に二葉の楓が二本あった。以前来た時には一本が枯れて若木を添えていたのが、この楓である。その横に以前は無かった枝垂桜があった。遍覧亭にも行ってみるが、無用の者入るべからずと書き付けてあり、煩わしいので、黙って通り過ぎた。総寧寺にも行ってみたが、昔と違って美々しく磨き上げて、近寄りがたい雰囲気であった。
裏手の門を出て、矢切の渡しに出た。日もすでに暮れようとして、辺りはもの寂しく、流れる水の音だけが響いていた。渡り終えて、柴又の帝釈天を通り抜け、新宿に出た後、熟知の道を戻った。恐らくは、亀有から曳舟で四つ木に出て、吾妻橋で墨田川を渡り、三番町の家に戻ったのだろう。舟の区間を除いて、歩いた距離は30kmほどであった。
嘉陵が書いた紀行文は、これが最後にあたる。嘉陵は、その紀行文を、自らにおくる文として、大略、次のように締めくくっている。
子供の頃に真間に来たことがあったが、それから、もう60年になる。寛政の年に、再びこの地に遊んでからも、すでに40年過ぎている。顧みると、その時に同行した者は、もう誰も居ない。しかし、その事を悲しみ嘆くべきではない。昔の人が言うように、人生せいぜい百年である。この一日を安易に過ごした事の方を、惜しむべきなのだ。幸いにして生き延びたのであれば、生きる事の楽しみを知らずに過ごすべきではない。虚しく生きたとすれば、その事を憂うべきである。嘉陵、今年、75歳。虚しく生きたことを嘆いて、長溜息をつくような事は、しないようにしたい。
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