当ブログでは、江戸幕府が東北各地と北海道松前に派遣した巡見使の旅について、連載形式で投稿しておりますが、その旅も山形県から秋田県へと入ります。一行は本荘、横手、久保田[秋田]、能代、大館とたどります。
(56)享保2年5月22日(1717年6月30日)、晴。
一行は小湊川を船で渡り、前方に鳥海山を仰ぎつつ進み、青塚[遊佐町比子]で休憩。吹浦川は舟で渡る。吹浦では大物忌大明神と月山大明神を祭る社を参詣し、祭礼の様子について話を聞いている。この日の行程は六里、吹浦に泊まる。
(57)同年5月23日(1717年7月1日)、晴。
女鹿の先、有耶無耶の関を通る。馬も通行できぬ難所で、巡見使も駕籠から下りて一里ほど歩く。勿論、荷物も馬から下ろし人手で運んでいる。大師坂先の慈覚大師堂で酒井左右衛門領分境界を過ぎ、小砂川に出て休憩。その後、塩越に出る。塩越は有名な名勝、象潟がある土地である。巡見使は、蚶満寺に立ち寄り、九十九島の景色を眺め、また、船に乗って網打ちに興じるなど、旅の無聊を慰める一時であった。この日は塩越[にかほ市象潟町]に宿泊。六里の行程であった。
(58)同年5月24日、雨天。
金浦で馬継(馬と人足の交代)を行い、平沢で休憩する。途中に高嶋潟沼と、雨が降れば池となる雨池があったと記す。また、両前寺には八幡太郎義家の古館という安部ガ館ありと記す。この日は本荘に泊まる。行程は六里であった。旅宿に本荘藩主の六郷伊賀守が御見舞のため訪れている。
(59)同年5月25日、嵐。
一行は小吉川を舟で渡り石野脇に出る。ここからは浜辺の道となる。塩釜のある親川を通り、本荘から三里の松ケ崎で休憩。しかし、嵐が静まりそうにないため、松ケ崎に泊る。巡見使の旅には休日が無いが、悪天候の場合は逗留することもあった。
(60)同年5月26日、晴。
松ケ崎で海岸線から離れて亀田に向い、ここから上虻田の井峠のうち、駒なかせ峠という難所を越えて新沢麓に出る。途中、亀田に赤尾津孫次郎の尼館という古館と、館岡豊前守の古館、新沢に大炊孫次郎の古館ありと記す。新沢麓迄三里二十三丁、ここに泊る。
(61)同年5月27日、晴。
新沢麓から須山に出て母長根坂を越え、小栗山から岩野目沢に出て休憩する。その後、滝長根坂、桜長根坂の難所を通る。領境の八森峠を越えれば、右手に鳥海山が見えてくる。この日の宿泊地は老方。六里半の行程であった。
(62)同年5月28日、晴。
老方を出て、赤坂、安台長根の難所を越える。坂下から大沢に出て休憩。そのあと、小野寺大内蔵の古館のある高寺新町を通り、西馬音内に出て泊まる。行程は六里弱である。
(63)同年5月29日、雨降。
西馬音内から杉宮に出て、三輪大明神を参詣。数々の宝物も見分する。また、小野寺左馬古館ありと記す。御物川を舟で渡り、柳田川は舟または徒歩で渡って羽州街道の湯沢に出る。湯沢は佐竹右京大輔の番城で、佐竹美濃守が城代であった。ここで馬継(馬と人足の交代)を行い、岩崎まで行って休憩。ここに岩城三郎、柴田大膳の古館ありとし、現在は八幡宮であると記す。岩崎から皆瀬川を舟または徒歩で渡り、横手に向かう。町入口には柳の大木の並木が続いていたという。横手の佐竹番城の城代は戸村大学で、古くは小野寺遠江守の居城であったことを記している。この日の行程は七里半、横手に泊まる。
(56)享保2年5月22日(1717年6月30日)、晴。
一行は小湊川を船で渡り、前方に鳥海山を仰ぎつつ進み、青塚[遊佐町比子]で休憩。吹浦川は舟で渡る。吹浦では大物忌大明神と月山大明神を祭る社を参詣し、祭礼の様子について話を聞いている。この日の行程は六里、吹浦に泊まる。
(57)同年5月23日(1717年7月1日)、晴。
女鹿の先、有耶無耶の関を通る。馬も通行できぬ難所で、巡見使も駕籠から下りて一里ほど歩く。勿論、荷物も馬から下ろし人手で運んでいる。大師坂先の慈覚大師堂で酒井左右衛門領分境界を過ぎ、小砂川に出て休憩。その後、塩越に出る。塩越は有名な名勝、象潟がある土地である。巡見使は、蚶満寺に立ち寄り、九十九島の景色を眺め、また、船に乗って網打ちに興じるなど、旅の無聊を慰める一時であった。この日は塩越[にかほ市象潟町]に宿泊。六里の行程であった。
(58)同年5月24日、雨天。
金浦で馬継(馬と人足の交代)を行い、平沢で休憩する。途中に高嶋潟沼と、雨が降れば池となる雨池があったと記す。また、両前寺には八幡太郎義家の古館という安部ガ館ありと記す。この日は本荘に泊まる。行程は六里であった。旅宿に本荘藩主の六郷伊賀守が御見舞のため訪れている。
(59)同年5月25日、嵐。
一行は小吉川を舟で渡り石野脇に出る。ここからは浜辺の道となる。塩釜のある親川を通り、本荘から三里の松ケ崎で休憩。しかし、嵐が静まりそうにないため、松ケ崎に泊る。巡見使の旅には休日が無いが、悪天候の場合は逗留することもあった。
(60)同年5月26日、晴。
松ケ崎で海岸線から離れて亀田に向い、ここから上虻田の井峠のうち、駒なかせ峠という難所を越えて新沢麓に出る。途中、亀田に赤尾津孫次郎の尼館という古館と、館岡豊前守の古館、新沢に大炊孫次郎の古館ありと記す。新沢麓迄三里二十三丁、ここに泊る。
(61)同年5月27日、晴。
新沢麓から須山に出て母長根坂を越え、小栗山から岩野目沢に出て休憩する。その後、滝長根坂、桜長根坂の難所を通る。領境の八森峠を越えれば、右手に鳥海山が見えてくる。この日の宿泊地は老方。六里半の行程であった。
(62)同年5月28日、晴。
老方を出て、赤坂、安台長根の難所を越える。坂下から大沢に出て休憩。そのあと、小野寺大内蔵の古館のある高寺新町を通り、西馬音内に出て泊まる。行程は六里弱である。
(63)同年5月29日、雨降。
西馬音内から杉宮に出て、三輪大明神を参詣。数々の宝物も見分する。また、小野寺左馬古館ありと記す。御物川を舟で渡り、柳田川は舟または徒歩で渡って羽州街道の湯沢に出る。湯沢は佐竹右京大輔の番城で、佐竹美濃守が城代であった。ここで馬継(馬と人足の交代)を行い、岩崎まで行って休憩。ここに岩城三郎、柴田大膳の古館ありとし、現在は八幡宮であると記す。岩崎から皆瀬川を舟または徒歩で渡り、横手に向かう。町入口には柳の大木の並木が続いていたという。横手の佐竹番城の城代は戸村大学で、古くは小野寺遠江守の居城であったことを記している。この日の行程は七里半、横手に泊まる。