(51)享保2年5月17日(1717年6月25日)、半晴。
この日は鶴岡から羽黒山を往復している。羽黒山は能除太子(蜂子皇子)により開かれた羽黒派修験道の霊場であるが、江戸時代は東叡山寛永寺の末寺の扱いになっていた。巡見使一行は、一の坂、二の坂、三の坂を上がって本社を参詣。休憩後、荒沢寺を訪れてから鶴岡に戻っている。上り下り八里の行程であった。ところで、古川古松軒によると、羽黒山の社領が故あって奪われたため衰退していた時期があり、将軍綱吉の時の巡見使にその旨訴えたところ、もとの社領千五百石に戻されたという。
(52)同年5月18日、晴。
巡見使一行は鶴岡を出立。温泉地の湯田川を通り、坂下から鬼峠を越え菅野代に出て休憩。途中、岩穴の中にある千体地蔵を見ている。その先、ぶなの木峠を越え、温海川、木の俣を通って、小国で泊まる。この日の行程は九里弱である。
(53)同年5月19日、晴。
番所のある小鍋から十四丁、越後出羽国境の堀切峠に上る。近くに二本岳(二本国山。現在名は「日本国」。555.4m)、芋沢峠が見え、南東の方角には朝日岳が見えている。小鍋(小名部)に戻り鼠ヶ関に出て休憩。弁財天に立ち寄る。ここからは海岸線に沿って西嶋、太郎島、平嶋を見ながら進む。唐松番屋からは、粟島や佐渡島を見ることが出来たという。温海から山側に入り、出湯のある湯温海で泊まる。行程は六里半である。
(54)同年5月20日、晴。
温海に戻り海岸沿いの道を通行。暮坪から塩竃のある五十川に出る。ここでは塩焼について説明を受けている。飛ケ坂を越えると、飛島や鳥海山が見えてくる。さらに進み、大波渡、片苔沢を過ぎて笠取峠を越えると三瀬。暮坪からここまで、櫛岩、獅子岩、立岩、鬼ケ掛橋、義経馬乗場など奇岩奇勝が続く道である。三瀬は義経が宿泊したという伝承があり、義経が通った薬師堂、弁慶の錫杖清水があったという。三瀬で休憩後、海岸線から離れ大山宿に向う。入口に高舘という武藤左京太夫義氏の古館ありと記す。この日は大山に泊まる。七里の行程であった。
(55)同年5月21日、晴。
大山を出立。馬町の椙尾大明神を参詣する。このあと、海岸に出て浜中で休憩する。海辺に干鰯あり、また塩焼処とも記す。宮ノ浦から最上川を船で渡り、酒田に入る。海際に公儀の御蔵が三つ建ち番人も居たと記している。酒田は大坂、江戸と結ぶ西回り海運の要であり、最上川舟運を利用した米の一大集散地でもあった。この日の行程は六里余、酒田に泊まる。なお、現存する本間家本邸は巡見使宿舎として建造されたとのことだが、享保の時はまだ存在していなかった。
この日は鶴岡から羽黒山を往復している。羽黒山は能除太子(蜂子皇子)により開かれた羽黒派修験道の霊場であるが、江戸時代は東叡山寛永寺の末寺の扱いになっていた。巡見使一行は、一の坂、二の坂、三の坂を上がって本社を参詣。休憩後、荒沢寺を訪れてから鶴岡に戻っている。上り下り八里の行程であった。ところで、古川古松軒によると、羽黒山の社領が故あって奪われたため衰退していた時期があり、将軍綱吉の時の巡見使にその旨訴えたところ、もとの社領千五百石に戻されたという。
(52)同年5月18日、晴。
巡見使一行は鶴岡を出立。温泉地の湯田川を通り、坂下から鬼峠を越え菅野代に出て休憩。途中、岩穴の中にある千体地蔵を見ている。その先、ぶなの木峠を越え、温海川、木の俣を通って、小国で泊まる。この日の行程は九里弱である。
(53)同年5月19日、晴。
番所のある小鍋から十四丁、越後出羽国境の堀切峠に上る。近くに二本岳(二本国山。現在名は「日本国」。555.4m)、芋沢峠が見え、南東の方角には朝日岳が見えている。小鍋(小名部)に戻り鼠ヶ関に出て休憩。弁財天に立ち寄る。ここからは海岸線に沿って西嶋、太郎島、平嶋を見ながら進む。唐松番屋からは、粟島や佐渡島を見ることが出来たという。温海から山側に入り、出湯のある湯温海で泊まる。行程は六里半である。
(54)同年5月20日、晴。
温海に戻り海岸沿いの道を通行。暮坪から塩竃のある五十川に出る。ここでは塩焼について説明を受けている。飛ケ坂を越えると、飛島や鳥海山が見えてくる。さらに進み、大波渡、片苔沢を過ぎて笠取峠を越えると三瀬。暮坪からここまで、櫛岩、獅子岩、立岩、鬼ケ掛橋、義経馬乗場など奇岩奇勝が続く道である。三瀬は義経が宿泊したという伝承があり、義経が通った薬師堂、弁慶の錫杖清水があったという。三瀬で休憩後、海岸線から離れ大山宿に向う。入口に高舘という武藤左京太夫義氏の古館ありと記す。この日は大山に泊まる。七里の行程であった。
(55)同年5月21日、晴。
大山を出立。馬町の椙尾大明神を参詣する。このあと、海岸に出て浜中で休憩する。海辺に干鰯あり、また塩焼処とも記す。宮ノ浦から最上川を船で渡り、酒田に入る。海際に公儀の御蔵が三つ建ち番人も居たと記している。酒田は大坂、江戸と結ぶ西回り海運の要であり、最上川舟運を利用した米の一大集散地でもあった。この日の行程は六里余、酒田に泊まる。なお、現存する本間家本邸は巡見使宿舎として建造されたとのことだが、享保の時はまだ存在していなかった。