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文政五年八月三日(1822年9月7日)。この日、嘉陵は、小奈木川(小名木川)から利根川(旧江戸川)に抜ける水路を通って海を見に出掛けている。利根川(旧江戸川)から船堀、中川、小奈木川を経て隅田川に出る水路は、行徳の塩を江戸に運ぶために開かれ、その後は江戸時代を通じて物資流通の大動脈となった水路である。今は、小名木川の水運の役割も終わってしまったが、隅田川と中川の間の水路は現在も残っている。写真の手前は旧中川で、奥に見えるのが小名木川である。ところで、川の水は利根川から西に向かって流れていたが、この日は、上流で雨が降ったせいか、水量が多く水が逆巻くように流れていた。そこで、江戸から利根川に行く場合は、大小にかかわらず舟を引く必要があり、利根川に出てから帆を揚げて走ったとある。また、大平舵の舟の場合は、連尺(肩に当たる所を幅広く組んだ荷縄)をかけて数人で引いたと書いている。
中川から船堀(新川)に入ったところに、北から小松川が流入していて、その川口に一つ家の渡しがあった。女はこの渡しを渡って北に行き逆井の渡しを渡って江戸に出るということであった。小奈木川と中川の合流点にあった中川船番所(跡地は江東区大島9)の目を避けるためなのだろう。また、利根川の手前に、三方に渡ることから名が付いた三角の渡しというのがあった。ここに、元利根の掘割という堀があった。元は利根川に通じていた堀なのだが、入口で舟を損傷する事が多かったため、利根川に直線的に出る新掘を開削し、元利根の掘割は行き止まりの堀になっていた。現在は、船堀と新堀を合わせて新川という名になっており、その川沿いには遊歩道が作られている。三角の渡しは、この川に架かる三角橋(江戸川区北葛西5)付近にあったとされる。また、元利根の掘割は古川親水公園(江戸川区江戸川6)として残されている。
中川から船堀(新川)に入ったところに、北から小松川が流入していて、その川口に一つ家の渡しがあった。女はこの渡しを渡って北に行き逆井の渡しを渡って江戸に出るということであった。小奈木川と中川の合流点にあった中川船番所(跡地は江東区大島9)の目を避けるためなのだろう。また、利根川の手前に、三方に渡ることから名が付いた三角の渡しというのがあった。ここに、元利根の掘割という堀があった。元は利根川に通じていた堀なのだが、入口で舟を損傷する事が多かったため、利根川に直線的に出る新掘を開削し、元利根の掘割は行き止まりの堀になっていた。現在は、船堀と新堀を合わせて新川という名になっており、その川沿いには遊歩道が作られている。三角の渡しは、この川に架かる三角橋(江戸川区北葛西5)付近にあったとされる。また、元利根の掘割は古川親水公園(江戸川区江戸川6)として残されている。