天王橋から善福寺川は大きく曲がり南に流れていく。少し先で、東側の白幡の台地から下ってきた五日市街道が、尾崎橋を渡って、西側の台地に上がっている。尾崎の七曲りと呼ばれる難路であったという。明治時代、台地の上には尾崎や白幡の集落があるほかは、畑地と雑木林が主であった。川沿いには水田が続き、右側の台地の裾には灌漑用の用水も流れていた。善福寺川が左に曲がり、白山神社に渡る橋を過ぎると、川は大宮八幡の下の崖地に沿って流れるようになる。明治時代、川の北側は台地の裾まで水田になっていて、台地の上は、南側の大宮八幡の森から一直線に東に延びる参詣道の周辺には人家が集まっていたものの、それ以外は、所々に集落が見られる程度であった。
善福寺川緑地公園から和田堀公園までは緑地が続いている。現在の緑地は水田だった場所の跡である。和田堀公園は低地で、すぐに氾濫して池が出来るような場所だったそうだが、今はそのような事は無いようで、和田堀池も作られた池である。ついでにいうと、和田堀とは、和田村と堀ノ内村が合併してできた地名に由来するという。和田の地名については和田義盛が巡視したからとか、海田郡に由来するとか、ワタツミから和田の名がでたとか、地形に由来するとか言われているが、はっきりした事は分からない。和田村は、源頼朝が奥州を攻めた時に、先陣をつとめた畠山重忠が宿陣した場所といわれている。二日目の宿営地ということになるだろうか。堀ノ内という地名は城か館があった事を暗示しているが、その主が誰なのかは分かっていない。
和田堀公園から八幡橋を渡って南側の大宮八幡に行く。この神社の由緒では、源頼義が安倍氏を制圧すべく奥州に向かう途中、この地において源氏の白旗のような雲を見て喜び、奥州から凱旋した時に、この神社を創建したとしている。この話は白幡や尾崎の地名由来話にもなっている。また、源義家が後三年役のあと、松の苗千本を寄進したともいう。千本はともかく、数本の松苗を植えたという伝承はあるようだ。大宮八幡から東に延びる参詣道の途中には、江戸名所図会にも取り上げられた鞍懸の松という形の面白い松があったが、今は代替わりしたため、形の面白さは失われてしまっている。この松には、八幡太郎義家が鞍を掛けたという話があるが、よくある類の話である。
ところで、和田堀公園の近辺には、弥生時代から古墳時代にかけての遺跡が集中しており、大きな集落があったと考えられている。また、大宮八幡の敷地からは、族長のものと思われる方形周溝墓が発見されており、神社の西側には円墳が多数あったと言われている。大宮八幡のある場所は古くからの祭祀跡という事になるが、この地が聖なる場所である事を認識したうえで、大宮八幡を創建したのだろうか。
大宮八幡の付近は、東京の中心にあたるというわけで、東京のへそと称し、へそ福餅まで売り出している。東京のへその場所については異論もあるようだが、大宮八幡の場所が古くからの交通の要衝であったことは確かなようである。大宮八幡から西に行く道は武蔵国府であった府中に出る道、南西に行く道は神田川を鎌倉橋で渡り多摩川に出る道、東に行く道は鍋屋横丁を経て板橋に出る道、北に行く道は阿佐ヶ谷、練馬、赤塚を経て荒川に出る道で、何れも古道と呼べる道である。特に重要なのは府中に出る道である。この道は鎌倉街道と呼ばれていた道だが、古代に遡るという説がある。武蔵国府から大宮八幡まで直線道路を引いたとすると、その距離は古代官道の駅間距離に相当している。善福寺川沿いは稲作が可能な場所であり、古代の駅としての機能を十分果たしうる場所でもある。この地は宿営地または休憩地としても適地といえるが、源頼義がここを通ったとすると、この地を休憩地として軍勢を留めたのだろう。
大宮八幡から少し歩くと、杉並区立郷土博物館に出る。長屋門から入ると展示室のある本館があり、その裏手では、古民家を屋外展示している。屋根の上に銅が葺かれているのは少々興ざめだが、防火上の理由からという。茅葺屋根の民家を展示している場所は都内各所にあるが、カラスが茅を持っていってしまうのが悩みだという。
善福寺川は、台地を回り込むようにして南に流れていく。少し先で、大宮八幡の参詣道入口からの道が台地を下り、本村橋で善福寺川を渡っている。この道は鍋屋横丁に向かう道だが、熊野神社の先で別の道が北に分かれている。その向こうは妙法寺の森である。明治時代、善福寺川はここから二つに分かれ、蛇行しながら左に曲がっていた。神田川と合流するのはその先で、一帯は台地の裾まで一面の水田になっていた。合流点の写真は、神田川橋めぐりを行った際に写しているので、今回は省略である。