(68)享保2年6月4日(1717年7月12日)、曇。
久保田城下を出立。寺内の四王権現を参詣後、虻川に向かう。途中、中野と下刈の間に佐竹右京太夫の鷹場があり、北野原には天神宮の神馬が六十匹生息していると記す。一行は羽州街道を進み、景地の虻川で泊まる。五里半ほどの行程であった。途中の和泉(泉?)に白旗の城、川尾浄水古楯、岩舟?に新庄右衛門大輔の古館ありと記す。
(69)同年6月5日、曇。
虻川から和田妹川を通り大川で舟渡し、一日市で休憩後、鹿渡を通り森岡[森岳]で泊まる。行程は六里半ほど。途中、和田妹川に鷲尾館という古館、鹿渡にも古館ありと記す。
(70)同年6月6日、晴。
金光寺から羽州街道と分かれ、袖岡(外岡)を経て能代に向かう。途中、檜山城が見えたといい、城代は多賀谷彦太郎であると記す(檜山城は幕命で破却されていたので、居館に住んでいた)。この日の行程は四里半、大阪や江戸から船が出入りする能代で泊まる。
(71)同年6月7日、小雨。
能代で朝鮮唐船遠見番所を見分したあと、鶴形から羽州街道をたどる。せりガ沢(芹川?)の作り坂という坂について、能代川沿いの道が欠損したため、山越えの道を作ったという話を聞いている。飛根で休憩したあと、切石の馬坂を越え、藩主提供の船により能代川(米代川)を渡り、比井野[二ツ井町]で泊まる。行程は五里である。途中、鶴形に佐竹六郎の茶臼館、長者長根に安佐利(浅利)与一の古館ありと記す。
(72)同年6月8日、雨天。
荷揚場から船で十八丁、小綱木(小繋)に出て、七倉天神(七座神社)を参詣する。そのあと、芝子館のある今泉、高館のある棒沢(坊沢)を経て綴子で休憩する。ところで、巡見使は東南方に森吉山を望見し、その下の阿仁沢に銅山ありと記している。阿仁銅山は見分場所ではなかったが、その状況については案内者から話を聞いたようで、近年は山九つのうち、山五つは銅が出ず、残りの山四つから銅を出していると書き留めている。一行は、糠佐(糠沢?)、長坂、早口、岩瀬を通り、川口に出る。ここから、池田和泉守城址でもあった、たつこの森(達子森)が見えたという。また、麓の新田(二井田)に西木戸太郎塚ありと記す。西木戸太郎国衡は奥州藤原氏第四代・泰衡の兄で、阿津賀志山の合戦で源頼朝の軍勢と戦って敗れ、討ち死にしたとされる。一方、泰衡は平泉を脱出して二井田に逃れるが、郎党の裏切りにあって殺されたという。泰衡の塚のことを誤って西木戸太郎塚と称していたのだろうか。なお、泰衡の首級は頼朝のもとに届けられるが、後に中尊寺の僧により金色堂に収められている。さて、巡見使一行は、この先、持田(餅田)で大館川(長木川)を船で渡り、大館に出て泊まる。行程は八里であった。
【参考】天明の巡見使に随行した古川古松軒によれば、岩瀬に板場(伊多波)武助と称する豪家があったという。伊多波武助は伊勢の人で、この地で鉱山師として活躍し、晩年には功績を認められて武士に取り立てられている。享保の頃には、すでに阿仁鉱山で働いていた可能性もあるが、豪家を建てる程の身分ではなかったろう。
久保田城下を出立。寺内の四王権現を参詣後、虻川に向かう。途中、中野と下刈の間に佐竹右京太夫の鷹場があり、北野原には天神宮の神馬が六十匹生息していると記す。一行は羽州街道を進み、景地の虻川で泊まる。五里半ほどの行程であった。途中の和泉(泉?)に白旗の城、川尾浄水古楯、岩舟?に新庄右衛門大輔の古館ありと記す。
(69)同年6月5日、曇。
虻川から和田妹川を通り大川で舟渡し、一日市で休憩後、鹿渡を通り森岡[森岳]で泊まる。行程は六里半ほど。途中、和田妹川に鷲尾館という古館、鹿渡にも古館ありと記す。
(70)同年6月6日、晴。
金光寺から羽州街道と分かれ、袖岡(外岡)を経て能代に向かう。途中、檜山城が見えたといい、城代は多賀谷彦太郎であると記す(檜山城は幕命で破却されていたので、居館に住んでいた)。この日の行程は四里半、大阪や江戸から船が出入りする能代で泊まる。
(71)同年6月7日、小雨。
能代で朝鮮唐船遠見番所を見分したあと、鶴形から羽州街道をたどる。せりガ沢(芹川?)の作り坂という坂について、能代川沿いの道が欠損したため、山越えの道を作ったという話を聞いている。飛根で休憩したあと、切石の馬坂を越え、藩主提供の船により能代川(米代川)を渡り、比井野[二ツ井町]で泊まる。行程は五里である。途中、鶴形に佐竹六郎の茶臼館、長者長根に安佐利(浅利)与一の古館ありと記す。
(72)同年6月8日、雨天。
荷揚場から船で十八丁、小綱木(小繋)に出て、七倉天神(七座神社)を参詣する。そのあと、芝子館のある今泉、高館のある棒沢(坊沢)を経て綴子で休憩する。ところで、巡見使は東南方に森吉山を望見し、その下の阿仁沢に銅山ありと記している。阿仁銅山は見分場所ではなかったが、その状況については案内者から話を聞いたようで、近年は山九つのうち、山五つは銅が出ず、残りの山四つから銅を出していると書き留めている。一行は、糠佐(糠沢?)、長坂、早口、岩瀬を通り、川口に出る。ここから、池田和泉守城址でもあった、たつこの森(達子森)が見えたという。また、麓の新田(二井田)に西木戸太郎塚ありと記す。西木戸太郎国衡は奥州藤原氏第四代・泰衡の兄で、阿津賀志山の合戦で源頼朝の軍勢と戦って敗れ、討ち死にしたとされる。一方、泰衡は平泉を脱出して二井田に逃れるが、郎党の裏切りにあって殺されたという。泰衡の塚のことを誤って西木戸太郎塚と称していたのだろうか。なお、泰衡の首級は頼朝のもとに届けられるが、後に中尊寺の僧により金色堂に収められている。さて、巡見使一行は、この先、持田(餅田)で大館川(長木川)を船で渡り、大館に出て泊まる。行程は八里であった。
【参考】天明の巡見使に随行した古川古松軒によれば、岩瀬に板場(伊多波)武助と称する豪家があったという。伊多波武助は伊勢の人で、この地で鉱山師として活躍し、晩年には功績を認められて武士に取り立てられている。享保の頃には、すでに阿仁鉱山で働いていた可能性もあるが、豪家を建てる程の身分ではなかったろう。