夢七雑録

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22.大館から三厩へ

2008-07-26 07:33:29 | 巡見使の旅
 当ブログでは、江戸幕府が東北各地と北海道松前に派遣した巡見使の旅を、連載形式で投稿しておりますが、この旅も秋田県から青森県に入り、弘前を経て油川で奥州街道に合流し、蝦夷地に渡るため三厩へと向かいます。 

(73)享保2年6月9日(1717年7月17日)、雨天。
 大館川(長木川)を船で渡る。八幡に古館ありとし、坂内(釈迦内?)にも古館ありと記す。萩長森を右に見て進み、白沢で馬継(馬と人足の交代)となる。寺ノ沢からは女神山・男神山を左に見る。その先、長走で秋田藩番所を過ぎる。陣場からは峠道となり杉峠(矢立峠)を越える。その先の矢立杉が秋田と津軽の境界となっていた。ここから湯沢に下り、津軽藩の関所を過ぎ、碇ガ関で泊まる。四里半の行程であった。

(74)同年6月10日、曇。
 碇ケ関を出てほどなく、唐牛に碇石を見る。昔、この辺は海辺だったという話を聞く。平ケ坂を進み、福島の橋を渡る。碇石の方向には、あはら山が見えている。ここから出湯が三ヶ所ある蔵館に出る。村末に大日堂があり、桂(宝暦の時は桂に萩が寄生していたので萩桂と称していた)の神木ありと記す。この日は大鰐で休憩。八幡楯、石川、津軽藩御休所のある小栗山を通り、弘前にて泊まる。七里の行程であった。途中、蔵館、大鰐、八幡楯、石川に古館ありと記す。

(75)同年6月11日、雨天。
 弘前を出立。東長町に東照大権現社ありと記す。撫牛子を通り藤崎に出て休憩。雨天ではあったが、途中で岩城山(岩木山)が見えたという。ところで、岩木判官正氏の子、安寿と厨子王がかどわかされて、丹後の山椒太夫に売られたという伝説があり、岩木山に厨子王を祭るが故に、丹後の人が津軽に来ると災いが生ずるという伝承があった。そこで、享保2年の巡見使が来たとき雨だったのは、巡見使一行の中に丹後の人が含まれていた為という事になったらしい(「五所原年表」)。天明の巡見使に随行した古川古松軒によれば、江戸において津軽藩の使者が巡見使のもとを訪ね、御供の中に丹後の人を含めないよう要請があったという。古川古松軒は、この件について、妄説なれど是非もなきこと、と述べている。この日の行程は四里半、浪岡に泊まる。

(76)同年6月12日、雨天。
 浪岡を出立。青森への道を分け、柳久保から外浜を眺めつつ津軽坂を下る。古館のある新城で休憩。岡町を過ぎる時、右手に青森を見る。この日の行程は五里半。油川に泊る。

(77)同年6月13日、晴。
 油川で奥州街道と合流し、海辺の道を進む。浜松を過ぎ、蓬田で休憩。広瀬からは砂浜の道となる。この日は蟹田に泊まる。五里半の行程であった。

(78)同年6月14日、晴。
 蟹田から右方に南部の山を見つつ進む。塩釜のある岩目沢を通り、外浜の最北端にあたる平館に出る。この近くの湯沢に出湯ありと聞く。この日の行程は四里弱、平館に泊まる。

(79)同年6月15日、曇。
 平館を出立。この辺から松前が見えてくる。その先、宇田には蝦夷の家が二軒あったと記す。ここでは、おんこ(一位)の木で半弓を作り矢先に毒を塗って熊を射るという話や、襟に掛ける袈裟のようなものについて木の皮で織るという話を聞いている。宇田からは岩の多い難所を通る。途中、千手観音を祀る岩穴を見、犬くくりの岩を抜ける。その先に塩釜があったという。この辺り、保路附(母衣月)の浜を舎利浜といい、をとめ石ありと記す。ヨモナイ浜を通って、今別で馬継(馬と人足の交代)し、三馬屋(三厩)に出る。村内に義経の馬屋の岩穴、甲岩ありと記す。この日の行程六里半。三馬屋に泊まる。

【参考】天明の巡見使は7月18日に三厩に到着しているが、その一週間前に三厩に着いた紀行家の菅江真澄によると、宿々は巡見使を迎える準備で忙しく、泊まるどころではなかったという(菅江真澄全集1「そとがはまづたい」)。江戸幕府は宿舎の修繕は無用、畳替えも無用としていたが、藩の側は、額面どおりには受け取らなかったのであろう。なお、この日、菅江真澄は三厩より先の上宇鉄の浦に泊って風待ちをし、巡見使が到着する以前の7月13日夕刻に乗船して、翌朝、松前に着いている。


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