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三角の渡しを南に渡って少し行くと、東宇喜田の長島村と桑川村に出る。長島村の内には清光寺(江戸川区東葛西3)があり、その門の先は二ノ江村であった。南に畦道を行き、堤に上ると農家漁家が百戸ほどあるのが見えた。西宇喜田の中割村といかづち村である。この辺は田安家の御鷹場でもあった。堤に沿って多くの松が植えられていたが、堤から磯まで一里ほどあり、その間に芦萩が生い茂って海の方は見えなかった。ここから堤の上を東に行き、北に折れると、堀江の渡しに出た。
嘉陵はここで利根川を渡り、入堀を上って猫実(浦安市猫実)に出ている。入堀は現在の境川(浦安市堀江4)と思われるが、当時は利根川の水を分けて猫実の海に注ぐ流れの早い川であった。猫実の戸数は七八十戸、多くは漁家だが農家も混じっていた。南東には大神宮(豊受神社。浦安市猫実3)が鎮座し、橋を渡った先には薬師堂(東学寺。浦安市堀江2)があった。嘉陵の書いた略図によると、豊受神社の東側はすぐに海になっている。磯に芦が茂って展望を妨げていたとはいえ、海の方を望むことは出来たのだろう。嘉陵は、南東の方角に伊豆天城山らしき山が見えたが、他は曇って見えないと書いている。実をいうと、これは勘違いで、方角からすると、見えていたのは房総の山々の筈である。嘉陵は、海辺の眺めを見ようと、わざわざ此処まで来たのだったが、思い通りにはならなかったとも書いている。現在は埋め立てが進んで、海岸線は遥かに遠くなり、1km歩いても海辺に出ることは出来なくなっている。
嘉陵は、ここから北へと向かうが、所々に地引網が掛け並べられ、また草の間に広げて乾かしているのが見えた。入堀も幾つかあって、漁船を繋いでいたが、御成りがある時は、漁家に命じて地引網を引くということであった。庚申堂のある場所から用水に沿って畦道を2kmほど北に向かうと、戸数百戸ほどの新居村(市川市新井)に出た。なお行けば相の川村(市川市相之川)で、その北が行徳である。新居と相の川の間にある今井の渡し(今井橋付近。市川市広尾2)で、行徳からの舟を待って乗る。利根川(旧江戸川)、船堀(新川)は流れに従って進み、船頭も櫓を推すに及ばずであったが、小奈木川(小名木川)に入ると水勢も静かになり、船頭も櫓を動かすようになった。今井を出たのは午後4時頃。家に帰り着いたのは、火点し頃であった。
嘉陵はここで利根川を渡り、入堀を上って猫実(浦安市猫実)に出ている。入堀は現在の境川(浦安市堀江4)と思われるが、当時は利根川の水を分けて猫実の海に注ぐ流れの早い川であった。猫実の戸数は七八十戸、多くは漁家だが農家も混じっていた。南東には大神宮(豊受神社。浦安市猫実3)が鎮座し、橋を渡った先には薬師堂(東学寺。浦安市堀江2)があった。嘉陵の書いた略図によると、豊受神社の東側はすぐに海になっている。磯に芦が茂って展望を妨げていたとはいえ、海の方を望むことは出来たのだろう。嘉陵は、南東の方角に伊豆天城山らしき山が見えたが、他は曇って見えないと書いている。実をいうと、これは勘違いで、方角からすると、見えていたのは房総の山々の筈である。嘉陵は、海辺の眺めを見ようと、わざわざ此処まで来たのだったが、思い通りにはならなかったとも書いている。現在は埋め立てが進んで、海岸線は遥かに遠くなり、1km歩いても海辺に出ることは出来なくなっている。
嘉陵は、ここから北へと向かうが、所々に地引網が掛け並べられ、また草の間に広げて乾かしているのが見えた。入堀も幾つかあって、漁船を繋いでいたが、御成りがある時は、漁家に命じて地引網を引くということであった。庚申堂のある場所から用水に沿って畦道を2kmほど北に向かうと、戸数百戸ほどの新居村(市川市新井)に出た。なお行けば相の川村(市川市相之川)で、その北が行徳である。新居と相の川の間にある今井の渡し(今井橋付近。市川市広尾2)で、行徳からの舟を待って乗る。利根川(旧江戸川)、船堀(新川)は流れに従って進み、船頭も櫓を推すに及ばずであったが、小奈木川(小名木川)に入ると水勢も静かになり、船頭も櫓を動かすようになった。今井を出たのは午後4時頃。家に帰り着いたのは、火点し頃であった。