夢七雑録

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江戸名所記見て歩き(9)

2012-12-16 09:48:28 | 江戸名所記
<巻7>

7.1 小石川 伝通院
 無量山寿経寺伝通院は、応永年間に、了誉上人が小石川の地に草庵を結んだことに始まる。慶長7年に徳川家康の生母が死去すると、この地が埋葬地となり、法名に従って伝通院となる。「江戸名所記」は、この寺が浄土宗の一派で、談林すなわち学問所であると記している。

 「江戸名所図会」の挿絵には、広大な伝通院の敷地が描かれているが、明治になると徳川家の庇護を失い子院も独立して伝通院の規模は縮小される。伝通院の堂宇は戦災で焼失しており、現在のものは後の再建である。現在地は、文京区小石川3。最寄駅は地下鉄後楽園駅で、富坂を上がった少し先、右手に入り口がある。

 
7.2 渋谷 金王桜
 「江戸名所記」は、金王丸と金王桜について、次のように記している。金王丸は源義朝に仕え、度々手柄をたてていた。平治元年(1159)、源義朝は藤原信頼と組んで謀反を起こしたが、待賢門での戦いに負けて東国に落ち、尾張の野間内海の長田庄司忠宗のもとに身を寄せた。しかし、長田庄司の裏切りにあって討たれてしまう(平治の乱)。金王丸はこの事を口惜しく思い、手向かう者を切り伏せた後、都に上がって、源義朝の妾の常盤御前に事の仔細を話した。その後、金王丸は出家して諸国を修行して回り、源義朝の菩提を弔った。その途中、故郷の渋谷に帰って植えた桜が金王桜である(源頼朝が金王丸を偲んで桜を植えさせたという説もあり)。一説に、源頼朝の命令で義経を討つべく、堀川御所に夜討ちをかけた時の大将・土佐坊は金王丸であるという。金王桜は古木で、花が咲いてもちらほらと少なく、枝付きもまばらである。花の色は白である。

 「紫の一本」には、金王桜が枯れたとき、元の桜の種から生じた木を他から移して植えたという話が載っているが、現在の金王桜は、このような実生によって植え継いできたと言われている。これが確かなら、現在の金王桜は元の桜の子孫ということにはなるが、同じ特徴を示すとは限らない。「遊歴雑記」によると、花の見頃は他の桜より遅く、立春から75日目頃(4月20日頃)という事だが、現在の金王桜は4月初め頃に満開となる。一方、花の色は、「江戸名所記」や「江戸鹿子」では白としており、今も花の色は白で同じである。現在の金王桜の特徴の一つは、巻6で取り上げた右衛門桜と同じく、一重と八重が混じって咲くことだが、本来の金王桜と同じ特徴なのかどうかは分からない。「江戸名所図会」の挿絵には、境内の中ほど、鐘楼の脇に金王桜が描かれているが、現在の金王桜は、金王八幡の社殿寄りに移されている。一説に、幕末の頃、境内に多数あった桜が明治になって伐採され、そのうち一本だけ残った桜が、現在の金王桜ともいう。なお、金王桜は、長州緋桜の一種として渋谷区の天然記念物に指定されている。金王桜のある金王八幡宮の現在地は渋谷区渋谷3。最寄駅は渋谷駅で、明治通りを南に行き、並木橋交差点を左へ、金王神社前の信号を左へ入る。


7.3 金杉村 天神
 金杉村の天神については、次のような縁起が伝えられている。寿永元年(1182)、源頼朝が東国追討の際、この地の入江の松に船をつないで風待ちをした。その時、菅原道真が牛に乗って現れて二つの幸を告げるという夢を見た。目覚めて近くを見ると牛の形の石があった。その後、二つの幸が叶えられたことから、元歴元年(1184)に、源頼朝は天満宮を勧請したという。ただ、この縁起については、年代が合わないという指摘もあり、創建の時期については判然としないところがある。なお、江戸時代より前は、神社の下に小石川大沼があり平川で海に通じていたとされるので、これが縁起に反映されていると思われる。この縁起とは別に、北条氏康が関東を攻めた時、菅原道真が牛に乗って現れた夢を見て、北条氏康が天満宮を勧請したという話もある。巻1の牛天神(五條天神)の項で、金杉天神の縁起と混同していると書いたのは、この縁起のことである。ただし、北条氏康は、勧請したのではなく、再興したとする説もある。「江戸名所記」は、金杉村の天神(牛天神)を源頼朝の勧請とするとともに、社殿は5間と3間で、産土の人は忌み事として5間と3間の家は建てないとしている。また、社殿は山の上にあり、山の下に鳥居があって、神木は榎であると記している。

 「江戸名所図会」を見ると、牛天神(金杉天神)の表参道は南側にあり、上水堀を渡って石段を上がるようになっていた。山上には社殿のほか、茶屋や楊弓場があり、西側は裏門で石段があった。その北側の坂は牛坂で、坂の下には牛石があった。

 現在は、南側の表参道が無くなり、裏門からの石段が参道になっている。山上にあった茶屋や弓場はすでに無く、牛坂の下にあった牛石は、明治の頃には移されている。神社の呼称も、今は、牛天神という通称は残しながらも、公式には北野神社になっている。現在地は文京区春日1。最寄駅は地下鉄後楽園駅で、牛天神下の交差点で右の道を行き、次の信号を右へ入ると右手に入口がある。

7.4 白山町 白山権現 
 「江戸名所記」は次のように記している。白山権現は、加賀の霊神である。越の国の僧侶・泰澄が初めて白山に登った時、イザナギ(イザナミ)という天女が現れ、今は妙理大菩薩と名づくと告げ、たちまち十一面観音の姿となって、やがて姿を隠した。また、手に金の矢、肩に白銀の弓を横たえた小白山大行事という神に会ったが、たちまち聖観音の姿となり、やがて姿を隠した。次に大己貴尊という翁に会ったが、西方浄土の主(阿弥陀如来)と言い、やがて姿を隠した。このような事があったため、白山権現を崇めるようになった。佐羅早松神社の本地は不動明王、金剣宮は倶梨伽羅不動、白山権現は神代の昔には菊理姫尊であったという。この地に白山権現を勧請したのは元和元年(1615)のことである。当時の境内には名水の滝があったが、いつの頃か、右典厩公(徳川綱吉のこと)が、この社を移して、下屋敷に替えることがあり、滝を築いて山の前に落とそうとした。しかし、一滴の水も落ちなかったので、人々は、白山権現の威光で滝は落ちていたので、白山権現が住まなければ滝の水も絶えるとうわさした。しかし、水脈が変わるのは良くある事で、別に怪しい事ではないのだが。
(注)白山権現は、天歴年間に本郷の地に勧請し、元和年間に後の白山御殿の地(現在の小石川植物園)に移り、明暦の頃に現在地に移ったとする説がある。

 「江戸名所図会」の挿絵によると、白山権現(白山神社)の表参道は今と同じ東側にあり、南側の入口は裏門になっている。この挿絵には、裏門を入って石段を上がったところに旗桜が描かれている。「遊歴雑記」によると、この桜は、雄しべの先端(葯)が花弁のように変形して旗のような形になった桜(旗弁のある桜)で、その形から旗桜と名付けたとしている。また、旗桜の由来については、八幡太郎義家に結び付けた説など諸説あって、まちまちであると記している。なお、明治時代に立てられた旗桜記の碑には、出羽に赴く義家の通行を妨げた草賊を、石清水八幡に祈願をこめて桜に旗を掲げて退治したという伝説に因んで、名付けられたとする説が記されている。

 白山神社の境内は明治24年に白山公園となるが、現在は、神社の裏手が白山公園になっている。「江戸名所図会」に描かれていた旗桜は既に枯れてしまったが、白山旗桜という桜の種類として今に伝えられており、いまも境内に残る白旗桜と称する桜は同種の桜であるらしい。「江戸名所図会」の挿絵には、社殿の右手奥に八幡の祠が描かれているが、その背後の林の中に富士塚があり、文政9年(1826)の浅間神社の祠があった。この社の祭礼は6月3,4日で参詣者が大変多かったという。現在は、6月に開催される、あじさい祭の時に富士塚も公開され、多くの人で賑わっている。白山神社の現在地は文京区白山5。地下鉄白山駅下車、すぐである。

7.5 橘樹郡 栄興寺
 「江戸名所記」は、武蔵国ではあるが江戸からやや遠い橘樹郡(現・川崎市、横浜市の一部)の栄興寺(影向寺)を、江戸の名所の一つとして取り上げている。江戸から栄興寺へは中原街道を利用したと思われるが、「中原街道絵図」によりその道をたどると、大崎で目黒川を渡り、桐ケ谷、戸越、中延を経て、馬込で千束池を過ぎ、鵜木を経て下沼部で多摩川を渡り、上丸子から、将軍家宿泊所の小杉御殿を過ぎ、川崎用水(二ケ領用水)を渡り、上小田中、下小田中、新城を経て、岩川、清沢に出る。ここは後の千歳村で、街道右手の台地に上がれば栄興寺に出る。「江戸名所記」による縁起は次のようになっている。天平11年(739)、聖武天皇の妃の橘皇后が病にかかった時、僧が忽然として天皇の前に現れ、武蔵の橘樹の里に霊石があり、その地に伽藍を建て薬師如来像を安置すれば、皇后の病は平癒すると告げて姿を消した。そこで、勅使を遣わし伽藍を建立することにした。行基も東国に下り、霊地を訪れたところ、皇后の病は平癒した。行基は薬師如来像を造り、勅使は七堂伽藍を建てたが、少し離れた小倉の里から夜ごとに燈明を供えにくるという事があった。このような事を記録して都に送ったところ、天皇と皇后は、ともに喜び橘樹郡をこの寺に寄付するということになった。それから長い時を経て、寺も衰微し堂塔も傾いた。文徳天皇の時、慈覚大師は武蔵橘樹郡の薬師の霊地を再興すべしとの夢を見て、これを奏上したところ、天安元年(857)に勅使が派遣されることになり、翌年には七堂伽藍が再興された。慈覚大師は自ら作った本尊の薬師如来像とともに東国に下ったが、途中で本尊が消え、栄興寺の大石の上に先回りするという事があった。そこで、この大石を影向石と名付けた。寺の百坊は昼夜交代で本堂の番を務め、三ケ寺九院は常に天下太平を祈念している。

  影向寺の創建は、縁起の年代より古く7世紀に遡るとされる。近くに橘樹郡の役所・郡衙の施設と見られる遺構も発見されていることから、この近辺が橘樹郡の中心部にあたると考えられており、影向寺の下の中原街道は古代東海道に相当し、小高の駅も近くにあったとする説がある。影向寺は、橘樹郡の郡寺であったと言われ、大寺であったと思われるが、時代とともに衰えたと思われる。「江戸名所図会」の挿絵には、稲毛薬師堂として、茅葺の本堂が描かれているだけで、門は無く、全体としては質素な造りになっている。右手の隅、垣をめぐらした中には影向石が置かれており、本文には、病に霊験ある医王水のことが記されている。

 元禄年間に建立された本堂は、屋根を銅板葺きに代えただけで、現存している。影向石も現存しており、今では塔の心礎と考えられている。影向寺の現在地は川崎市宮前区野川。バス停・影向寺下車。梶ヶ谷駅から“たちばなの散歩道”を歩くのも良いが、道が少々分かり難いところもある。道標を見落とさないように。

7.6 日比谷 神明
 日比谷神明とは、現在の芝大神宮のことである。「江戸名所記」は、この神社の縁起について次のように記している。武州豊島郡飯倉日比谷村の神明は天照大神の宮である。寛弘2年(1005)、神幣と大牙が空から落ちてきたため、村人が集まってきた。すると、何処からか女の子が現れ、踊り狂いながら、“吾は伊勢の神なり。東国に戦いある故、常陸の鹿島に降臨し、兵を退治して帰る。この場所に跡を留めるべく下した2種の印を宮に収めよ。さすればこの地は栄える”と口走って姿を消した。村では小宮を作り弊と牙を納めた。建久4年(1193)、源頼朝が那須野に向かう途中で紛失した刀が、当宮の近くで発見される事があった。その刀は当宮の宝殿に収められ、頼朝からも寄進があって、それからは、この神社も賑わうようになった。明応3年(1494)、北条早雲が関東を従えた時、当宮の領地が削られたため、宮も衰えて参詣する人もいなくなった。天正年中、家康が関東を領地としてから、当宮にも寄進があり、社前も賑わうようになった。寛永11年(1634)、家光が当宮を再興し修造を行うと、人々が集まって市をなすようになった。

 日比谷神明は、もと飯倉の地にあったことから飯倉神明と称したが、芝神明とも呼ばれていた。また、関東のお伊勢様として、人々の崇敬を受けてきた神社でもある。「江戸名所図会」の挿絵によると、当時の境内は広く、茶屋や吹矢などのほか芝居小屋まであった。祭礼は9月16日だが、その前後11日から21日までが、だらだら祭で、名物の生姜や、藤を描いた檜の割籠(弁当箱)を“ちぎ”と称して売っている様子が、「江戸名所図会」の祭礼の挿絵に描かれている。

 現在の芝大神宮は社地が縮小され、社殿も人工の地盤の上に建てられているが、だらだら祭は今も存続しており、縁起物の生姜や、ちぎ(千木筥)も健在である。現在地は、港区芝大門1。最寄駅は地下鉄大門駅である。

7.7 王子 金輪寺
 江戸の郊外、王子村の金輪寺は、王子権現(現・王子神社)の別当をつとめた寺である。「江戸名所記」は、王子権現と金輪寺及び王子稲荷について、次のように記している。王子権現は、若一王子(熊野三山に祀られる五所王子の一)の宮で、熊野権現の別宮である。この神社を熊野から勧請したのは、元亀元年(1570)のことである(元亨年中(1321~)に豊島氏が勧請したとする説、文保2年(1318)以前に勧請したとする説がある)。この神社の中興は徳川家康で、社領200石を寄付している。寛永11年(1634)には家光が再興し、儒官羅浮氏道春(林羅山)に命じて王子権現の縁起(若一王子縁起)を作らせ納めさせている。金輪寺は万病に効く五香湯を出している。祭礼は7月13日で、寺中の12坊より踊り子を出すが、風流の踊りで見物客が多い。稲荷大明神は寺の内にあり、若一王子の社(王子権現)より1町ばかり先にある。この稲荷社は関東の所々に勧請されている稲荷明神の棟梁である。毎年12月晦日の夜に関八州の狐たちが、ここに集まって狐火をともす。人々はその燐火の様子で田畑の良否を知る。2月の初午は諸人参詣して祈るという。

 「江戸図屏風」には王子権現も描かれているが、祠が三か所描かれているだけで、「若一王子縁起」の絵巻に描かれた社殿とは異なる。絵師は再建された王子権現を見ていなかったのかも知れない。「若一王子縁起」絵巻には、神託により与えられた五香薬を僧が渡す場面が描かれている。また、この絵巻には、往古の境内で行われていた花鎮めの祭と、7月13日の祭礼で行われた田楽が描かれている。「江戸名所記」に、風流の踊りと書かれているのは、ビンササラで踊る、この田楽の事と思われる。絵巻を見ると、鎧兜の武者が舞台上で警戒にあたり、舞台の下では竹槍を持った一団が周りを取り囲んでいる。過去に何かあったかのような情景である。「江戸名所図会」の挿絵には田楽の様子が描かれているが、花鎮めの祭については既に途絶えていたため、挿絵は古図の模写によるとしている。

 「若一王子縁起」絵巻の下巻には、次のようなことが書かれている。“王子権現には末社の祠が数多くあるが、何時の頃からか稲荷明神を移し祭るようになった。すると、大晦日の夜に各地の狐が集まるようになり、狐の灯す火が連なるようになった。その様子で、来年が豊作か凶作かを知るのだという。”記述内容からすると、王子権現の霊験に狐火を加えるため、稲荷明神を王子権現の末社のように扱ったようにも思える。結局、稲荷明神の社殿の造営は幕府によって行われたが、稲荷の格式については気になるところであったろう。絵巻には、本文の後の下札(付箋)に、王子稲荷が関東三十三ケ国の総司と書かれているが、これが後になって問題となる。「御府内備考続編」の妻恋稲荷社の項によると、妻恋稲荷は、弘仁の年(810-)に関東総社・正一位を賜ったと伝えられ、古例に従い神階神霊を遷してきたが、万治年間(1658-)に妻恋稲荷が類焼したあと、王子稲荷が関東総社と唱えるようになり、「江戸砂子」も王子稲荷を関東総社と書くようになった。そこで幕府により、王子稲荷と妻恋稲荷に対して取り調べが行われる事になるのだが、寺社奉行から老中への進達文書によると、関東の惣司とする下札がいつ付けられたか分からず、本紙にもこの下札が無いことから、王子稲荷の主張は認められない事になった。しかし、世間の評価では、王子稲荷が関東の総司である事に代わりはなかったようである。狐に対する民間信仰は古くからあり、やがて稲荷信仰と結びつく。江戸の多くの人々にとって、王子の狐火は、王子稲荷が関東総司である印のように思えたのかも知れない。なお、前述の進達文書や若一王子縁起のほか、新編武蔵風土記稿や江戸名所図会にも記載されていないが、王子稲荷の社記には、源頼義が王子稲荷を関東の総司として崇めたと書かれているということである。

 金輪寺は明治になって廃寺となり、塔頭がその名を継いでいる(北区岸町1)。王子権現は王子神社と改称(北区王子本町1)。境内の殆どが戦災で焼失しているが再建されている。祭礼で行われていた田楽は一時途絶えていたが、今は古式のままに再興されている。

 王子稲荷(北区岸町1)は、江戸の稲荷番付で勧進元をつとめた稲荷であり、今でも人気のある稲荷である。特に、凧市の行われる初午の日は参詣者で大混雑する。金輪寺、王子神社および王子稲荷の最寄駅は王子駅である。


7.8 愛宕山
 愛宕山は、愛宕権現を祀る愛宕信仰の山であり、参詣の目的は戦勝祈願や火伏せなどであった。愛宕権現は太郎坊天狗の姿をとるとも言われているが、本地垂迹説によると、本地である勝軍地蔵が姿を変えて現れたとされる。「江戸名所記」は、京都の愛宕山について、役の行者と越の僧・泰澄が山に上がった時、日良、善界、太郎坊などの天狗が行法を妨げたので降伏させた事、慶俊僧都が愛宕山に引きこもり勝軍地蔵を安置した事を述べ、勝軍地蔵は闘争の憎しみをしずめ大平をもたらす守護神ゆえ、江戸に勧請したと記すとともに、別当寺(円福寺)は天台宗であったが、本山から難しい事を言われたため真言宗に変えたと書いている。

 本能寺の変のあと、家康は急いで三河に戻ったが、その途中、宿泊した多羅尾家から勝軍地蔵を献上されるという事があった。その後、家康はこの像を持仏としていたが、慶長8年(1603)、愛宕権現を勧請し、愛宕山に仮殿を建て、この持仏を安置した。これが江戸の愛宕権現の始まりという。「江戸名所図会」の愛宕権現社の挿絵によると、麓を流れる桜川を渡り総門を入ると、左手に別当寺(円福寺)があり、鳥居をくぐった先には男坂と女坂があって、男坂の上には二王門があった。この門は、「江戸図屏風」や「江戸名所図屏風」にも描かれている楼門である。二王門を入って、正面には社殿があり、左手には鐘楼があった。山上は東側の眺めが良く、崖沿いには茶屋が並んでいた。女坂の途中に勝軍地蔵堂が描かれているが、「御府内備考続編」によると、勝軍地蔵は愛宕山下の本地堂のほか、勝軍地蔵堂に2尺2寸の木像があり、ほかにも4尺8寸と3尺7寸の勝軍地蔵の像があったという。

 明治になると、愛宕権現は愛宕神社と改称し、火産霊命を主祭神とする神社となる。二王門や鐘楼や地蔵堂などは撤去され、別当寺(円福寺)は廃寺となったが、寺内では鏡照院が愛宕下に残ることになった。勝軍地蔵の行方だが、明治34年の真福寺の縁日の図から真福寺には大きめの勝軍地蔵像が移されていた事が分かるが、この像は後に焼失している。このほか、鏡照院には2体の小像が伝えられ、愛宕神社にも非公開ながら保存されている像があるという。愛宕権現の正月の行事としては、女坂上の茶店の主が扮した毘沙門天の使いによる強飯式があり、「江戸名所図会」のほか、広重の「名所江戸百景」にも取り上げられているが、明治以降は廃れてしまっている。男坂と言えば、曲垣平九郎が馬で上り下りした事でも知られるが、同じ事を試みた人物は、明治以降も含めて一人や二人ではないようだ。明治19年、愛宕神社の境内は愛宕公園となり、北側から上がってくる新坂も作られる。明治22年、浅草の十二階・凌雲閣に先立って、愛宕神社の南側に五階建ての愛宕塔が西洋料理店愛宕館と共に建てられる。明治30年の芝愛宕山公園之図を見ると、茶店はあらかた取り払われ、崖に面して柵が作られ、ベンチも置かれ、桜が多く植えられて、公園らしくなっている。愛宕塔は大正時代まで営業を続けるが、大正12年の関東大震災で倒壊する。

 現在、愛宕山に上がる道には、男坂、女坂、車道を兼ねる新坂のほか、北西側から新坂を経て折れ曲がりの道で女坂の上に出る道、昭和7年に開通した愛宕隧道の西側から上がる石段の道、それと、近年になってトンネル近くに設けられたエレベータと、青松寺につながる遊歩道とがある。男坂を上がると鳥居があり、正面には丹塗りの門と愛宕神社の社殿がある。男坂の上の右手には池がある。ここの神社と清和源氏の祖・源経基とでは時代が違うが、それはそれとして、山の麓に児盤水と呼ばれた湧水があったという伝承があり、それに因んで新たに池を掘って滝を落としたという事なのだろう。境内には食事処が2か所ある。男坂の上の左側、以前は茶店だった場所に開店した和食処が、今はイタリアンのTになっている。北側の一段下がった場所には中華料理店・菜根があるが、昭和12年の愛宕山の平面図で茶店があった場所に相当している。愛宕神社の南側は、NHK放送博物館の敷地で、大正14年に最初のラジオ本放送を行った東京放送局の跡地である。本放送当日の番組表によると、天気予報に始まり、最後は山田耕作が日本交響楽協会を指揮し、自作の行進曲「JOAK」などを演奏して締めくくっている。愛宕山は23区内の自然の山としては最も高い山である。明治の初め、愛宕山には位置の基準となる三角点と、高さの基準となる水準点とが置かれた。明治17年の5000分の1の測量図には、愛宕山の三角点は25.9mと記されているが、池が造られたため当時の三角点は水没し、現在は位置を移動して、標高は25.7mになっている。水準点の一つは拳法の碑の台座に記され、標高26.2mであったが、この碑も場所を移動している。ほかに、石段下の鳥居にも水準点があったとされ、標高6.1mであったというが、今はどうなっているか分からない。愛宕神社の現在地は港区愛宕1。最寄駅は御成門駅か神谷町駅である。

7.9 傾城町吉原
 「江戸名所記」は、明暦の大火の後に浅草の北に移ってきた遊郭・新吉原について、大道より8町ほどの堤(日本堤)を行くと北向きに門があり、入口は一か所だけで三方は堀になっていること、門内には、江戸町、二町目、すみ町、新町、京町、あげや町、の六町が向かい合っていることを述べ、そのあとに続けて、傾城(遊女)に心を迷わし、名を失い、身を滅ぼすのは何処も同じであるとし、老いの繰り言ではあるがと断りつつも、手きびしい忠告を長々と綴っている。

 「江戸名所図会」は、元吉原について記すとともに、新吉原の賑わいは弥生の花の頃と書いている。現在は、植え替えられた見返り柳が吉原の痕跡を示すのみである。現在地は台東区千束4。三ノ輪駅からは、土手通りを少々歩く。 


【参考資料】
 今回の投稿にあたり、参考にした主な資料は次の通りです。

「江戸名所記」「江戸名所図会」「東海道名所記」「新編武蔵風土記稿」「御府内備考続編」「江戸城が消えていく」「江戸時代図誌4」「図説・江戸図屏風をよむ」「江戸名所図屏風の世界」「江戸図屏風の謎を解く」「図解・江戸城をよむ」「城郭侍屋敷古図集成・江戸城1城郭」「上野寛永寺」「江戸の外国公使館」「日本気象史料」「日本災異通志」「東京市史稿変災篇2」「江戸のおいなりさん」「狐」「広重の大江戸名所百景散歩」「るるぶ情報版・なるほどご利益ランド」「古板江戸図集成」「元禄江戸図」「古代の道」「紫の一本(新編日本古典文学全集)」「武蔵国柏木右衛門桜物語(仮名草子集成)」「兎園小説(日本随筆大成)」「北国紀行(新日本古典文学大系)」「慶長見聞集(江戸叢書)」「遊歴雑記(江戸叢書)」「嘉稜紀行(江戸叢書)」「江戸惣鹿子名所大全(江戸叢書)」「江戸名所花暦」「幕末下級武士の記録」「嬉遊笑覧」「若一王子縁起・同解説」「江戸城・図録」「日本橋・図録」「日本橋(中央区郷土天文館)・資料」「鼠山感応寺・図録」「古代東海道と万葉の世界・図録、展示解説」「中原街道・図録」「江戸図の世界・図録」「愛宕山・図録」「東京名所図会・下谷区上野公園、麻布区、ほか」「台東区、荒川区、文京区ほか、史跡散歩」「台東区史、浅草区史、蔵前史、港区史、麻布区史、豊島区史ほか区史」「葛飾区神社/寺院調査報告書」「江戸城の様子を読む(講座教材)」「江戸城の焼失と再建(講座教材)」「江戸城(講座教材)」。

 上記のほか、インターネットで閲覧したものは次の通り。「新板江戸大絵図」「江戸絵図(国会図書館)」「武州豊島郡江戸庄図」「日本国名風土記」「水野家文書・東叡山絵図」「慈眼大師縁起絵巻」「新燕石十種2」「江戸砂子」「正保国絵図」「秩父武甲山に関する一考察」「養玉院如来寺の歴史」「秩父神社、善光寺、神田明神、泉養寺、その他の各社寺についてのHP」、その他、各種のホームページなど。



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