夢七雑録

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江戸名所記見て歩き(5)

2012-09-08 18:01:44 | 江戸名所記
<巻3>

3.1 神田 天沢寺
 寛文11年(1671)頃の「新板江戸大絵図」の上で、不忍池から湯島天神の裏手を通る道(現在の春日通り)を西に向かうと、右手に天沢寺がある。天沢寺は、寛永元年(1624)頃、春日の局の隠棲所として現在地(文京区湯島4)に建てられており、寛永11年(1634)には、改称して麟祥院となっている。「江戸名所記」によると、万治元年(1658)、隠元禅師が江戸に来た時は、この寺に70余日の間逗留したが、貴賎を問わず僧も俗人も参拝に訪れて市のようになったという。春日の局は寛永20年(1643)に没したが、家光は忌日に無遮の大会を開いて供養し、一周忌に稲葉美濃守が一切経を寄進したという。

 天保の頃に刊行された「江戸名所図会」によると、家光が命じて生前の春日の局を写させた像が影堂に置かれており、忌日には参詣を許していたという(画像は現存している)。なお、明治20年には、井上円了が、麟祥院内に東洋大学の前身となる哲学館を開設している。


3.2 浅草町・西福寺


 東光山良雲院松平西福寺と称し、松平の呼称は家康から与えられたという。「新板江戸大絵図」で、東本願寺の西側を流れている新堀川沿いに南に行く(現在の道では、浅草通りの菊屋橋交差点から新堀通りを南に行く)と、東側にあるのが西福寺である。開山は心蓮社貞誉(真蓮社貞誉)上人であり、「江戸名所記」では、西福寺は、もと駿府にあったが後に江戸に移ったとする。「江戸名所図会」では、もと三河にあり、後に江戸駿河台に移り、寛永15年(1638)に現在地に移ったとする。本尊は安阿弥作の弥陀如来で、鎮守として弁財天(江の島の弁財天)を祭っていた。「江戸名所記」の挿絵には、屋根付きの鐘楼が描かれているが、実は屋根が無かったようで、鐘の竜頭に藤が巻きついていたと記している。

 新堀通りから東に少し入ったところに精華公園があるが、その近くに現在の西福寺がある(台東区蔵前4)。江戸時代に比べると、敷地はかなり縮小されている。

3.3 森田町・大六天

 「新板江戸大絵図」では、大六天の位置は判然としないが、「元禄江戸図」では、西福寺の南側に大六天が記載されている。西福寺から東に行き、浅草御蔵の前を通る奥州街道(現在の江戸通り)に出て南に折れると、右側に森田町(台東区蔵前4)がある。大六天はここから入った。「江戸名所記」は大六天について、古老の言い伝えでは開基以来800年に及ぶとし、2月9日が神事であると記している。また、縁起は分からないとしながらも、大六天はマケイシュラ王の尊像だろうとし、欲界第六の他化自在天の主としている。仏教では世界を欲界・色界・無色界に分け、欲界の天を六つに分けるが、欲界の最上位の天である他化自在天の主(大六天魔王)に対する、民間信仰に由来すると思われる。

 大六天は鳥越神社の境内社であったが、正保2年(1645)頃に森田町に移っている。さらに、享保4年(1719)頃、火災により浅草橋近く(台東区柳橋1)に移る。「江戸名所記」から170年ほど後の「江戸名所図会」は浅草橋近くに移った後の社を、第六天神社として取り上げるが、祭神は、神代七代のうち六代目にあたる男神・面足尊(オモタルノミコト)と女神・惶根尊(カシコネノミコト)に代わっており、祭礼も6月5日になっていた。

 明治6年、この神社は榊神社に改称する。祭神は面足尊と惶根尊である。昭和3年には、江戸時代の浅草御蔵の跡地である現在地(台東区蔵前1)に移転する。江戸通りの須賀橋交番交差点を東に入ったところに、現在の榊神社がある。

3.4 浅草・閻魔堂、付 十王

 「新板江戸大絵図」で、奥州街道(現在の江戸通り)を南に行き、新堀川と合流した鳥越川の下流を鳥越橋で渡ると、その先の右側に閻魔堂があり、その隣に十王堂がある。「江戸名所記」は、本堂は宝形造りで、本尊は閻魔大王、左に地蔵、右に三途の川の老婆があり、本堂の左側に不動堂があると記している。「江戸名所記」の作者・浅井了意は、いつ頃に誰が建てたのか、寺の留守居に聞いたようだが、相手は知らん顔をきめこんでいた。了意は趣旨を話して重ねて尋ねたらしいのだが、無作法な返事しか返ってこなかったため、よほど腹にすえかねたのか、非難の文言を書き連ねている。結局、「江戸名所記」には、閻魔堂ばかりか、隣の十王堂の縁起についても書かれない事になった。

 「江戸名所図会」によると、閻魔を本尊とする長延寺は慈覚大師の草創で、昔は下野国にあったが、文永年中に武蔵国に移されたとし、霞が関から馬喰町に移り、後に今の地に移ったという説を紹介している。また、閻魔堂の隣にある祇園社について、この社の牛頭天王は天歴年中の鎮座で、別当は大円寺とし、境内の十王堂は慶長18年の建立で、地蔵菩薩の左右に冥途の十王を安置していると記している。

 閻魔を本尊とする長延寺は、後に華徳院と改称している。閻魔堂は他の堂宇とともに関東大震災で焼失し、今は閻魔堂跡の碑(台東区浅草橋2)が残るのみである。また、華徳院は新高円寺駅近くの五日市街道沿い(杉並区松ノ木3)に移転している。閻魔堂の隣の牛頭天王社(祇園社)は、須賀神社と改称して今に残るが(台東区浅草橋2)、十王堂は現存しない。現在の須賀神社は、須賀橋交番の交差点から江戸通りを南に行ったところにある。


3.5 浅草駒形堂

 「江戸名所記」は駒形堂について次のように書いている。駒形堂は浅草寺の門口にあり(総門があったと伝える)、馬頭観音を安置している。平公雅の建立である。人々はここで手水をとり口をすすぎ、心身を清めて浅草寺本堂を参拝する。駒形堂は、浅草川(隅田川)の船着き場で、吉原に行く者もここで船に乗る。駒形堂の前には茶屋がある。ここの名物は鯉で、その味は淀川の鯉に勝るという。鯉は川端で売っている。

 17世紀の「江戸名所記」の挿絵では、駒形堂は東向きで隅田川に面しているが、18世紀の「隅田川風物図巻」では、隅田川を背にした西向きになっている。19世紀の「江戸名所図会」の挿絵では南向きのようにも見えるが、現在の駒形堂は、西向きになっており、駒形橋の傍らにある。


3.6 浅草・文殊院

 文殊院は慶長5年(1600)駿府に開創。寛永4年(1627)浅草に移る。「新板江戸大絵図」で、駒形堂から南に行くと、右側に文殊院が記されている。文殊院について、「江戸名所記」は、高野山行人方の頭(触頭)で、堂は東向き、本尊は不動明王と記している。また、この寺には何故か公事訴訟が絶えないという事についても取り上げている。近世の高野山は学問を修める学侶方、寺の雑務を行う行人方、布教活動を行う聖の三派間でしばしば対立し、公事訴訟にまで発展する事があった。

 延宝元年(1673)、高野山学侶方の江戸在番所として芝二本榎に正覚院が建てられる。一方、文殊院は学侶方との論争に敗れて寺領を没収され、跡地には学侶方の寺を別当として石清水八幡が勧請される。元禄9年(1696)、文殊院は行人方江戸在番所として白金台に再興する。天保の頃の刊行である「江戸名所図会」に文殊院の記事は無いが、挿絵には正覚院と文殊院の両方が載せられている。現在、正覚院は高野山東京別院(港区高輪3)として残り、石清水八幡は蔵前神社(台東区蔵前3)として残っている。

 一方、文殊院は、大正9年に、現在地(杉並区和泉4)に移転している。最寄駅は地下鉄の方南町になるが、神田川に近い住宅地にあり、道は少し分かりにくい。

  
3.7 角田川

 角田川(隅田川)は、江戸時代の初期まで武蔵と下総の境であったので、「江戸名所記」でも、隅田川の東岸を下総の名所として取り上げ、隅田川について詠んだ歌を幾つか紹介している。在原業平の「伊勢物語」に、“名にし負はば・・・”と詠まれ都鳥は、“白き鳥の嘴と脚の赤き、鴨の大きさなる、水のうへに遊びつつ魚をくふ”と書かれているので、カモメ類のユリカモメを指していると考えられる。「江戸名所記」では、都鳥について、隅田川に限らずどこにでも居る鳥で、美しい鳥なので籠に入れて飼うと記している。また、蛤を餌にすると書いているので、ミヤコドリ類のミヤコドリを指しているのかも知れない。「江戸名所記」は、岸近くの梅若丸の墓(木母寺)も取り上げており、印の木は柳で、縁日は3月15日と記し、この寺に詣でた人々は、昔の事を聞き伝えて、みな哀れを催し、歌を詠み詩を作ると記している。また、付近は一興ある景地で、茶屋もあり、将軍家も折々遊覧すると書き、五智如来を造って寺の本堂に置いているとしている。
 
  木母寺は明治になって廃寺となるが、明治21年に再興する。昭和51年、防災団地の建設により現在の場所(墨田区堤通2・東白髭公園内)に移動している。最寄駅は東武伊勢崎線の鐘ヶ淵である。


3.8 西葛西・浄光寺薬師

 浄光寺薬師とは、当時、西葛西・木下川村にあった青竜山浄光寺薬王院の事である。「江戸名所記」によると、慈覚大師が青竜の棲む霊地としてこの地に仏殿を建てたのが浄光寺の始まりで、本尊は伝教大師作の薬師医王像であった。また、本堂は東向きで、東北に鐘楼があり、東方に山王権現が鎮座。東南方には弁財天、南方に白髭明神と稲荷があったとし、家康から朱印の田地を寄付されたとしている。

 「江戸名所記」には、浄光寺(木下川薬師)で毎月8日と正月に竜燈をあげると書かれているが、170年ほど後の「江戸名所図会」によると、この習わしは途絶えていたという。なお、同書では、木下をキゲと読んでいるが、地元ではキネと呼んでいたと記している(現在はキネ)。

 大正8年、木下川薬師・浄光寺は、荒川放水路工事に伴い、現在地(葛飾区東四つ木1)に移転している。最寄駅は京成押上線の四つ木駅である。

3.9 葛西郡・東照院若宮八幡

 「江戸名所記」によると、源頼朝が奥州征伐の途中、若宮八幡宮に立ち寄って戦勝祈願を行った際、榎のむちを地に差したが、これから生じた榎の木が今も残っているとし、鎧の裾を濡らさないよう竹林は低くなっているとしている。また、奥州征伐を終えて戻った源頼朝が建立した社殿も、長い年月の間に朽ちかけていたため、伊奈備前守が再興したと記している。なお、別当をつとめていた東照院は、後に善福院に改称している。

 170年ほど後の「江戸名所図会」によると、榎のむちから生じた木は既に枯れ、古松老杉も繁るにまかせ、もの寂しい境内になっていたという。

 大正元年、荒川放水路の工事により、若宮八幡の別当であった善福院は、現在地(葛飾区四つ木3)に移転する。若宮八幡は、この頃、隅田川神社(台東区堤通2・東白髭公園内)に合祀されたと思われる。隅田川神社は木母寺の近くにある。

 昭和7年、善福院の移転した地域が本田若宮町として独立するが、恐らく、地名の由来となった若宮八幡を再興しようとする動きが出てきたと思われる。昭和4年頃の地図には、当該地域に神社記号は見られないが、昭和12年の地図には、現在の若宮八幡(葛飾区四つ木3)に相当する位置に神社記号が見られる。神社の石標からすると、若宮八幡は昭和11年に建立されたと考えられる。ただし、昭和54年の「葛飾区神社調査報告」に当社の記載はない。最寄駅は京成押上線の四つ木駅である。


3.10 東葛西・善導寺

 「江戸名所記」に善導寺とあるのは善通寺のことである。同書によると、当寺には中将姫が織ったという弥陀の形像が一幅あり、地は蓮の糸で、如来は中将姫の黒髪で織ったと伝えられていたという。また、中将姫の忌日にあたる4月15日には、人々に拝ませていたと記している。むかし、泥棒がこれを盗んで逃げたが、外に出ることが出来ずに立ちすくんでいたため、取り返したという話も書かれている。なお、中将姫は、奈良当麻寺に伝わる曼荼羅を織ったという伝説上の女性だが、この伝説が各地に流布する過程で、種々の伝承が生み出されたと思われる。

 善通寺は、大正時代の荒川放水路工事のため、現在地(江戸川区平井1)に移転している。最寄駅は総武線の平井駅である。


3.11 牛島・業平塚

 「伊勢物語」には在原業平が東下りした話が載っているが、「江戸名所記」は、この事を取り上げて、「伊勢物語」には、東国から京に上がったという記述は無く、どこで死んだかも書かれていないとしている。その一方で、都に上がるために乗った舟が破損して在原業平が亡くなったため塚に埋めたという古老の話を紹介し、今も舟の形の塚が残っており、地名も業平村であると書いている。「江戸名所記」の挿絵に、田畑の中に描かれている塚のようなものが業平塚ということのようである。「新板江戸大絵図」で、横川(大横川)に架かる業平橋の西側にナリヒラ天神とあり、業平塚はその敷地内にあったと思われる。 

 「江戸名所図会」では、地名について、成平とする説や業衡とする説も紹介し、業平天神の由緒については諸説あって分からないとしている。また、在原業平の事は、「伊勢物語」を単なる物語とも知らずに、こじ付けたのではないかと書いている。

 「伊勢物語」は、在原業平の歌をもとにした物語で、業平の実像とは異なるという。東下りの話もフィクションという事になるだろうか。業平塚があった業平天神は南蔵院の境内にあったが、南蔵院が移転した際に廃止されている。いま、その跡地(墨田区吾妻橋3)に業平塚はない。現在の南蔵院(葛飾区東水元2)は、水元公園近くにある。最寄駅は常磐線の金町である。

3.12 西葛西・本所太神宮

 「江戸名所記」には次のような話が書かれている。寿永年中(1182-4)のことだが、本所の人々は、空をかけて飛ぶ伊勢大神宮の夢を見た。光輝く空のうちに、法華経寿量品を唱える声がし、我は伊勢の神明なりという声も聞こえた。誰もが同じ夢を見たので、不思議に思い伊勢大神宮を勧請した。

 「新板江戸大絵図」や「元禄江戸図」で、神明と記されているのが本所大神宮に相当すると思われる。「江戸名所図会」では牛島神明宮として取り上げているが、後に朝日神明とも称していたようである。現在は、旧地(墨田区東駒形2)から西に少し移動するとともに(隅田区東駒形1)、船江神社と改称している。最寄駅は本所吾妻橋駅である。


3.13 牛島・太子堂

 「江戸名所記」は、西葛西の牛島・中の郷にある太子堂について、慈覚大師が関東修行の時に建てた堂であり、聖徳太子自作の太子像を安置していると記している。また、堂のほとりに光り物が出るので掘ったところ文明2年の石塔を発掘したこと、天文の頃に火災にあったが太子の木像が堂の外に出て無事だったので堂を建てて安置したことが書かれている。ただ、事のほか荒れているのが悲しいとも書かれているので、寛文の頃には、かなり衰退していたらしい。「新板江戸大絵図」には、太子堂の別当であった如意輪寺は記載されているが、太子堂自体は記されていない。

 「元禄江戸図」には、如意輪寺と太子堂が記載されている。また、「江戸名所図会」には牛島太子堂として取り上げられており、その挿絵には、如意輪寺内に太子堂と鳥居が描かれている。現在、如意輪寺は存在しているが(墨田区吾妻橋1)、太子堂はすでに無い。最寄駅は本所吾妻橋駅である。


3.14 深川・泉養寺、付 神明

 「江戸名所記」には、医王山泉養寺は天台宗で薬師如来を本尊とし、慶長年中に秀順法印を開山として草創されたと記されている。また、寺から4町ばかり離れた松林の中の神明社は当寺の境内であり、祭礼は9月13日であるとしている。「新板江戸大絵図」に泉養寺の記載はないが、「元禄江戸図」には小名木川沿いに泉養寺が記されており、その北側に神明も記されている。寛文2年刊行の「江戸名所記」に取り上げられているのは、小名木川沿いの旧地(江東区常盤2)にあった頃の泉養寺である。

 元禄年間になって、泉養寺は猿江に移る。この時、神明社は移らなかったが、泉養寺が別当を引き続きつとめている。泉養寺の移転先は、天明元年の「本所深川割絵図」に、幕府の御木材蔵(跡地は現・猿江恩賜公園)の南側(江東区猿江2)に記されている。天保の刊行の「江戸名所図会」によると、猿江に移った後の泉養寺の池には、牡丹の形の蓮の花があり、開花期には訪れる人が少なくなかったという。同書には、この辺が原野だった頃から居住していた深川八郎右衛門が、その宅地内に伊勢神宮を勧請し、泉養寺開山の秀順法印に奉祀させたこと、および、徳川家康から、苗字の深川を地名に当てるよう命ぜられた事が記されている。

 現在、神明社は深川神明宮として深川発祥の地(江東区森下1)に祭られている。最寄駅は地下鉄森下駅である。泉養寺は昭和に入ってから、現在地(市川市国府台3)に移転している。寺紋は深川家の家紋である“いも洗い”を使用しているという。最寄駅は北総線矢切駅である。


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