1.5 不忍池
「江戸名所記」は、忍岡(上野の山)に続く不忍池について、もとは、しのばずが池と言ったが今は篠輪津池と呼ぶと書き、池の大きさを五町四方としている。不忍池を琵琶湖に見立て、池の中の小島を竹生島になぞらえたのは天海僧正だったのだろう。その意を受けたであろう水谷伊勢守によって中之島が築かれ、小島との間に橋が架けられる。初め、竹生島の弁財天は小島に勧請されたが、寛文より前に中之島に移されている。ただ、中之島には、竹生島と同様、船で渡るようになっていて、「江戸名所記」の挿絵も、陸地とはつながっていない中之島と小島を描いている。
中之島は寛文年間に陸続きになっている。寛文11年の「新板江戸大絵図」には、東側の岸から中之島までの道と橋、中之島の弁天堂が書かれており、北側の小島には、役の行者、摩利支天、稲荷が記されている。また、南側に新たに造られた島には、経堂と記されている。薬の販売で財をなした勧学屋大助が、買い集めた書籍を納めたのはこの経堂かも知れない。南側の島は、天和の頃(1681-1683)に壊されたが、勧学屋は書籍を全て寛永寺に納めるとともに、書籍を納める経蔵を建て、また学僧の為に寮を建てたという。
天保の頃の「江戸名所図会」には、中之島の弁天堂のほか、北側の小島に聖天が書かれている。ただし、聖天が寛文の頃から小島にあったかどうかは定かではない。「江戸名所図会」には、役の行者、摩利支天、稲荷についての記載はないが、天保の頃には無くなっていた可能性もある。
江戸時代は生池院が弁天堂の別当をつとめていたが、今は寛永寺の弁天堂になっている。現在の弁天堂は戦後の再建だが、手前の手水舎は江戸時代からのものである。ただ、屋根などは改修されているようである。北側の小島は聖天島の名で現存しており、鳥居付きの聖天が祭られている。島の入り口は閉鎖されているが、「台東区史跡散歩」によると、役の行者像、鳥居清忠の鶏図の碑、清水浜臣の碑、般若心経の碑が置かれているという。
1.6 牛天神
牛天神と言うのは五條天神のことである。天神と言っても菅原道真の事ではなく、大己命と少彦名命の医薬祖神の称である。堯恵法師は「北国紀行」に、文明19年(1487)の1月末、武蔵野の東の境の忍岡に遊んだ時のことを、“鎮座社は五條天神と申しはべり。折節、枯れたる茅原を焼はべり”と書いており、古くから忍岡に鎮座していた事が分かる。草創の時期は不明だが、京都の五條天神をうつし祭ったという。もとの五條天神は、天神山またの名を摺鉢山と呼ばれた山の上にあったが、明暦3年(1657)に黒門の右前に移される。「江戸名所記」に書かれているのは、この頃の五條天神であり、「新板江戸大絵図」にも黒門の南に牛天神と記されている。
五條天神は、何時の頃からか、牛天神と呼ばれるようになるが、一説に医師天神から転じたともいう。ところが、小石川の金杉天神も牛天神と呼ばれていたため、混同される事があったらしく、「江戸名所記」も、金杉天神の縁起を五條天神の縁起と取り違えている。寛永時代の末の頃だが、五條天神に菅原道真の像を奉安するという事があった。連歌の守護の為に菅原道真を祭ったという事なのだが、天神と言えば菅原道真という世間の考え方に配慮したのかも知れない。
五條天神の別当を兼ねていた連歌師の瀬川家は、もとは天神山の下に居住していたが、明暦3年の五條天神の移設の際、黒門近くの拝領屋敷に移住している。明暦大火以降に各所に設けられた火除け地の一つが現在の上野駅の南側にあり、上野山下と呼ばれていたが、瀬川家が拝領した屋敷は、上野山下の少し南側にあった。元禄時代、黒門の前の五條天神を移すよう命ぜられたが、適当な場所が見つからなかったため、瀬川家の屋敷内に五條天神を祭ることにした。「江戸名所図会」に取り上げられている五條天神は、瀬川屋敷に祭られた後の五條天神だが、茶屋や見世物で賑わう上野山下の広場に通じる道沿いにあった。
五條天神は昭和になって、旧地の天神山にも近い、花園稲荷下の現在地(上野公園4)に移転している。
1.7 忍岡稲荷
忍岡稲荷とは、現在の花園稲荷のことである。忍岡稲荷は、東叡山の開創時に天海により建立されたという伝承があるが、「江戸名所記」では、太田道灌が勧請したという説をとっている。その文章と挿絵からすると、当時の稲荷社は、洞の内を本社とし、洞の上に祠を建て、社の前に穴を掘り抜いた石を建て、その前の左右に白狐の像を置いていたようである。また、神木は榎で、糸桜が美しく、石段の下には池があり、西には不忍池が見えて、捨てがたい景色と書いている。
天和・貞享(1681-1687)頃の上野の図(還魂紙料)によると、入口は不忍池の側にあって、池を渡って石段を上がったところに拝殿があった。この図には、弥左衛門きつねと書かれているが、別に祠があったかどうかは分からない。
「江戸名所図会」の挿絵によると、石段の下の池は既に無いものの、全体は天和貞享の頃とあまり変わっていないように見える。なお、忍岡稲荷は穴の上にあったため、俗に穴稲荷と呼ばれていたと記している。
忍岡稲荷は、明治になって花園稲荷と改称し、昭和になって五條天神が移ってくると、南向きに新たな社殿を造営している。旧社殿の跡は、お穴様と呼ばれている場所である。
「江戸名所記」では、明神(忍岡稲荷)の霊夢により建てられてとして、護国院を取り上げ、松桜竹の林があり鳥居の中に茶屋があると書いている。護国院は寛永の初めに寛永寺の子院として建てられ、根本中堂造営以前に本堂として使われた釈迦堂の別当寺となっている。当初は本坊(跡地は国立博物館)の北東にあったが、その後は何度か移転し、寛文の頃は本坊の北西に位置していた。宝永6年(1709)に現在地に移転。「江戸名所図会」の挿絵には正月の大黒講の賑わいが描かれている。現在の敷地(上野公園10)はかなり縮小されているが、現存する釈迦堂を本堂として使用し、谷中七福神の一、大黒天を祭っている。
1.8 神田広小路薬師
上野の黒門の南、不忍池から流れ出て東流する忍川の南側は、下谷広小路(上野広小路)と呼ばれ、明暦の大火以降に各所に設けられた火除け地のひとつであった。「新板江戸大絵図」には、この広小路の西側に神田広小路薬師・東福寺が記されている。「江戸名所記」は、神田広小路薬師の本尊について、伝教大師が刻んだ七仏薬師のうちの一体で、慈覚大師により伝えられ、太田道灌が城内に祭っていたが、後に神田に移り、さらに広小路に移ったと記している。
天和2年(1682)に東福寺は焼失し、本尊の薬師如来や十二神像は麻布薬園に移される。貞享元年(1684)、麻布本村町の薬園坂東側に東福寺が再建される。「江戸名所図会」に七仏薬師として取り上げられているのは、麻布本村町に移ったあとの東福寺七仏薬師である。
明治になって東福寺は廃寺となり、薬師像などは安養院に移されたが、戦災で焼失している。東福寺の土蔵造りの本堂(薬師堂)は、明称寺(港区南麻布3)に引き継がれて現存しているが、瓦に葵の紋があり、本堂の格天井に薬草の絵が描かれていることから、もとは麻布薬園にあった薬師堂ではないかとする説がある(港区史)。寛永時代に設けられた麻布薬園は、「新板江戸大絵図」によると、本村町から四の橋に下る坂(薬園坂)の西側にあった。東福寺の薬師如来像は、麻布薬園内の栄草寺薬師堂に納められていたと思われるが、貞享元年(1684)、白銀御殿拡張のため麻布薬園が廃止された時、栄草寺薬師堂が東福寺の本堂に転用され、明治になって東福寺が廃寺になると、この本堂(薬師堂)が明称寺に売却されたという事になるのだろうか。多少の高低差がある点は気になるが、それでも、土蔵造りの本堂を曳屋により移動させたのであろう。
1.9 湯嶋天神
「江戸名所記」によると、太田道灌は文明10年(1478)の夏に北野天神を江戸城内に勧請していたが、その年の秋、太田道灌が菅原道真の夢を見た翌日に道真の自画像を持参して来た人が居たため、これを奇特な事と思い、江戸城の北に社を建てて梅を植え、社領を寄進して崇め祭ったとし、これが湯島天神(湯島天満宮)で、次第に繁盛して景勝の地になったとしている。別の説に、社を建てて梅を植えたのは湯島ではなく、江戸城内であったとし、この社が後に移転したのが麹町の平河天神であるとする。「江戸名所図会」では後者の説をとり、平河天神が道真真筆と称する自画像を伝えていることをあげている。堯恵法師の「北国紀行」によると、文明19年(1487)に武蔵野を訪れ時の記述に、“忍岡の並びに湯島という所あり。古松遥かにめぐりて注連の中に武蔵野の遠望をかけたるに、寒村の道すがら野梅盛に薫ず。これ北野の御神と聞きしかば”とあるので、当時から湯島に菅原道真を祭る社があったのは確かである。一説に、湯島には古くから天之手力雄命を祭る戸隠神社があったが、正平10年(文和4年(1355))に土地の人が菅原道真を祭ったということがあり、これが湯島天神の始まりともいう。
文明の頃の湯島はまだ寒村で、不忍池の周辺は茅原であったようだが、江戸時代になると茅原が埋め立てられて町が作られ、湯島もまた賑わいを増すようになる。「江戸名所図屏風」や「江戸図屏風」には湯島天神を参詣する老若男女や、参詣客相手の店が描かれている。「江戸図屏風」には、境内で弓の練習をする武士の姿も描かれている。
江戸時代も後期になると、湯島天神は庶民の娯楽場へと変貌する。「江戸名所図会」を見ると、境内には茶屋が設けられ、鳥居の内側には芝居小屋や楊弓の遊戯場がつくられる。表通りには料理茶屋も並んでいる。
現在の湯島天満宮は娯楽場としての性格が薄れ、学業の神という本来の姿になっており、合格祈願の参詣者が多く訪れている。
1.10 神田明神
神田明神は、天平2年(730)、武蔵国豊島郡江戸芝崎(現在の千代田区大手町1付近)に創建されたと伝えられ、伊勢神宮の田(神田)を鎮める社ゆえ神田の宮と称したという。神田明神の祭神は大己貴命であったが、延慶2年(1309)、近くにあった平将門の首塚の祠を遊行僧が修復した際に、平将門命も合祀するという事があった。神田明神は、慶長8年(1603)、駿河台に移り、さらに、元和2年(1616)には現在地に遷座して、江戸総鎮守として崇敬されるようになるのだが、平将門を合祀してからは、一般に平将門を祭る神社と思われていたらしい。「江戸名所記」では、神田明神を平将門の霊とし、藤原秀郷に討たれた平将門の首がこの地に落ちたので、京都に送って獄門にかけたものの、祟りをしたため、ある人が歌を詠んだところ祟りが無くなった。そこで、この地に首を送り、託宣により神社を建てたと書いている。
「江戸名所図屏風」には、神田明神境内で行われている神事能が描かれており、周りを筵で囲んでいるので、木戸銭を払って入るようになっていたらしい。「江戸名所記」の挿絵にも筵らしきものが見えるが、神事能を描いたのであろう。神事能は隔年ごとに行われていたが、享保の頃には断絶してしまったという。ところで、「江戸名所図屏風」や「江戸図屏風」には、神田明神の楼門を入って右側に三重塔が描かれているが、時代の下る「江戸絵図(屏風)」には見当たらない。江戸時代後期の「江戸名所図会」の挿絵には、神事能を行う舞台や三重塔は描かれていないが、その代わりに茶屋や楊弓場が境内に描かれている。隔年に行われる祭礼は、山王社の祭に次ぐ江戸の天下祭であり、「江戸名所図会」でも、庶民が桟敷で祭りを見物する様子が描かれている。
今の神殿は昭和初期の鉄骨鉄筋コンクリート造、随身門は昭和50年再建の総檜造りである。江戸三大祭りの一つ神田祭は、去年が自粛、今年は陰祭で少々寂しかったが、来年を期待したい。
1.11 谷中清水稲荷
「江戸名所記」には次のような話が記載されている。“昔、弘法大師がここを通った時、老女が水を運んでいるのを見てその水を所望した。すると老女は、この辺りには水が無いので遠くから運んでいると言い、子が一人居るが患っていると話をした。そこで、大師が独鈷で土を掘ると清水が湧きだした。この水で老女がその子を洗うと病が癒えた。大師は自ら稲荷を勧請した。”
この稲荷が清水稲荷である。池の端から上野高の横を上がって行くと護国院の前に出るが、この坂を清水坂と言い、護国院の前にあった寛永寺の門を清水門と呼んだ。当初の清水稲荷は、清水門近くの清水坂の西側にあったが、「江戸名所記」は、この頃の清水稲荷を取り上げている。
清水稲荷は元禄時代になって近くに場所を移している。さらに、宝永7年(1710)頃に浅草の駒形堂近くに移転しているが、「江戸名所図会」に取り上げられているのは、駒形堂近くに移った後の清水稲荷である。江戸切絵図で、駒形堂の近くに清水稲荷屋敷と書かれているのがそれで、その呼称は、清水稲荷ごと屋敷が移転してきたことによる。清水稲荷のご神体は弘法大師の如意宝珠だが、実際には自然石で、この石を移したと思われるが、移転後の氏子は無かったという。その後、清水稲荷屋敷は駒形町に吸収され、清水稲荷は榊神社の境内社になったという事なのだが、清水稲荷の名は失われてしまっている。
1.12 谷中法恩寺
法恩寺は、太田道灌が江戸城築城に際して日住上人を開山として建立した本住院に始まる寺であり、孫の資高の代になって法恩寺に改称している。法恩寺は、当初、平河にあったが、後に神田柳原に移り、さらに谷中清水町に移る。「江戸名所記」に取り上げられているのは、谷中清水町にあった時の法恩寺であり、次のように記している。大門を入ると左側に三十番神の社があり、拝殿の前には魂屋があった。鐘楼はあるが屋根は無い。本堂の両側には桜があった。
「江戸名所記」は法恩寺について、今は不受不施(日蓮宗以外からは施しを受けず施しもしない)の門流をくむと書いている。法恩寺は京都本国寺の触頭として、幕府の通達を傘下の寺院に伝達し、また各寺院からの願書を取り次ぐ役目を担っていたが、本国寺の住職に不受不施を主張した住職が居たことを指して、その門流をくむと書いたのだろうか。日蓮宗不受不施派は幕府の命令にも服さない事があり、幕府は後に禁制の宗派として弾圧する事になるのだが、「江戸名所記」の刊行当時はそれほどではなかったらしく、「江戸名所記」も好意的な記述をしている。
法恩寺は、元禄時代に現在地(墨田区大平1)に移る。「江戸名所図絵」は、この時代の法恩寺を扱っているが、当時の境内には、三十番神の社、鐘楼、平川清水稲荷の祠があった。
現在は、江戸時代に比べて寺域も縮小されているが、今なお大寺だった頃の面影を残している。三十番神は存在しないが、鐘楼は堂々たる三重塔となっており、平川清水稲荷の祠も境内にある。
1.13 谷中善光寺
善光寺は慶長6年(1601)、谷中に創建され、後に青山に移った尼寺である。「江戸名所記」が取り上げているのは谷中にあった頃の善光寺だが、当寺の本尊は秘仏で開帳がなく、両脇に善導と法然の絵像が掛っていた事。比丘尼寺である事。何れの時いかなる事で建てられたか定かには分からない事。門の内には両方に桜並木がある事を記している。善光寺は、「江戸図屏風」にも描かれているが、当時の格式の高さを物語っている。江戸の切絵図を見ると、上野の山内から根津方面に行く道沿いに善光寺前町と書かれているが、この町名も善光寺に由来する名であり、善光寺が青山に移った後も町名としては残っていた。現在の道でいうと、言問通りを根津方面に下る坂に善光寺坂の名があり、谷中善光寺の跡地は、この道の途中の北側ということになる。
長野の善光寺は、天台宗の大勧進と、浄土宗の尼寺である大本願から成っている。大勧進の住職である貫主は僧侶の中から選ばれるが、大本願の住職である大本願上人は勅許による称号であり、宮家や公家が務めてきた。谷中の善光寺は、大本願上人の江戸における宿舎として建てられた格式のある尼寺であり、善導と法然の絵像が掛けられていたのは、浄土宗のゆえである。
谷中の善光寺は後に焼失し、宝永2年(1705)に青山の現在地(港区北青山3)に移っている。「江戸名所図会」は、青山に移ってからの善光寺を取り上げているが、その挿絵によると、仁王門を入った正面に阿弥陀如来を本尊とする本堂、その左手には観音堂があり、本堂裏手には客殿と庫裏があった。観音堂の本尊は聖観音で、谷中で火災に遭った時、自ら逃れて榎に飛びついたので、火除け観音とか榎観音と呼ばれていたという。
現在の善光寺は、表参道駅の近く、青山通りから少し入った、江戸時代と同じ場所にある。昨年は工事中だった仁王門と本堂は、すでに改修を終えたらしく、今は真新しく見える。繁華街が近い割に境内は静かで、参拝する人もちらほら。傍らには高野長英の碑がひっそりと建っている。
1.14 谷中感応寺
谷中感応寺は、現在の谷中の天王寺の前身となる寺である。感応寺は、14世紀末頃の草創と伝えられる古刹で、中興は日長上人という。「江戸名所記」は、当代に至るまで法華読誦の声が続いて絶える事が無いとし、10月13日の御忌には人々が集まって市をなすと記している。また、当寺には日蓮聖人自作の御影があり、常には開帳しないが、立願のことあれば草履一足を御影の前に掛けて祈ると願が成就すると書いている。その一方で、常日頃は信心する気も無いのに、難しい事があった時だけ祈願するというのは恐ろしい事だとも述べている。
「江戸図屏風」に谷中として描かれているのは、谷中感応寺と思われるが、当時から周辺に桜が多かったようである。「江戸名所記」の挿絵には、正保元年(1644)に建立された五重塔が描かれているが、景観年代が古い「江戸図屏風」には、五重塔は描かれていいない。この五重塔は明和9年(1772)に焼失し、寛政3年(1791)に再建されている。
谷中感応寺は古くから不受不施派に属していた。日蓮宗以外には施しを受けず施しもしないという不受不施派は後に幕府から禁制の宗派として扱われ、谷中感応寺も元禄11年(1698)に天台宗に改宗させられる。その後、谷中感応寺は毘沙門天を本尊とする天台宗の寺として存続し、元禄時代の末には富くじ興業も行われるようになる。天保4年(1833)になると、谷中感応寺の日蓮宗帰宗の願書が出され、幕府もその受け入れを検討するが、寛永寺の反対があったため、谷中感応寺は天王寺と改称して天台宗のままとし、別に日蓮宗の感応寺を立てる事で決着する。日蓮宗の感応寺は、天保7年(1836)に、雑司ヶ谷の外れの鼠山に建立されるが、天保12年(1841)には廃寺になっている。
「江戸名所図会」の感応寺に関する内容は、天王寺改称以前に記述されたと思われ、谷中感応寺を天台宗と記している。「江戸名所図会」の挿絵には、寛政3年(1791)に再建された五重塔が描かれている。また、九品仏と書かれた大仏も描かれているが、元禄3年(1690)頃に建立された銅造釈迦如来座像と思われる。
谷中の天王寺の大仏、銅造釈迦如来坐像は現存しているが、五重塔は昭和32年に焼失し、今は跡を残すのみである。
(注)鼠山の感応寺についての経緯は、当ブログの「夢まぼろしの鼠山感応寺」を参照のこと。
1.15 新堀七面明神
新堀七面明神は、万治3年(1660)に日長上人が身延の七面明神を勧請したと伝えられるが、家綱乳母の三沢局の建立という説もある。別当の延命院は、慶安時代(1648―1651)の開創、開山は日長上人という。「江戸名所記」には、次のような縁起が記されている。
身延に七つの峰からなる七面山という山がある。日蓮聖人が身延山で法華経を読経していた時、一人の美女が現れて七面山の神と名乗り、七つの峰の各々に面を向けて住んでいるが、今よりは守護神となると言い大蛇の姿を現した。日蓮聖人はこれを崇め身延山の守護神とした。延命院の住持であった日長上人は、妙見大菩薩と七面明神の何れを勧請すべきか迷っていたが、万治3年のうたたねの夢に老僧が現れ、七面明神を勧請せよと告げられたので、七面明神を勧請した。七面明神の本地は妙見大菩薩で、七面明神を崇めれば妙見菩薩もその間に籠るという事である。
「江戸名所図会」の挿絵を見ると、延命院の敷地は三段になっていて、上の段には七面の宮が敷地の西北側にあり、東南の入口から伸びる参道には、鳥居が建っていた。中段には延命院の方丈があり、下段の西南には門があった。延命院の下段は台地の裾を南北に通じる六阿弥陀道に接していた。延命院の南側には七面坂があり、六阿弥陀道に下っていた。
明治になって、仏教系の七面明神は延命院に吸収される。現在の延命院の場所(荒川区西日暮里3)は江戸時代と同じだが、敷地は縮小されて、上の段に延命院本堂、玄関、七面堂が並んで建っている。「江戸名所図会」の挿絵で入口近くに描かれていた椎の大木は、樹木の勢いは衰えたものの、今もまだ頑張って残っている。
「江戸名所記」は、忍岡(上野の山)に続く不忍池について、もとは、しのばずが池と言ったが今は篠輪津池と呼ぶと書き、池の大きさを五町四方としている。不忍池を琵琶湖に見立て、池の中の小島を竹生島になぞらえたのは天海僧正だったのだろう。その意を受けたであろう水谷伊勢守によって中之島が築かれ、小島との間に橋が架けられる。初め、竹生島の弁財天は小島に勧請されたが、寛文より前に中之島に移されている。ただ、中之島には、竹生島と同様、船で渡るようになっていて、「江戸名所記」の挿絵も、陸地とはつながっていない中之島と小島を描いている。
中之島は寛文年間に陸続きになっている。寛文11年の「新板江戸大絵図」には、東側の岸から中之島までの道と橋、中之島の弁天堂が書かれており、北側の小島には、役の行者、摩利支天、稲荷が記されている。また、南側に新たに造られた島には、経堂と記されている。薬の販売で財をなした勧学屋大助が、買い集めた書籍を納めたのはこの経堂かも知れない。南側の島は、天和の頃(1681-1683)に壊されたが、勧学屋は書籍を全て寛永寺に納めるとともに、書籍を納める経蔵を建て、また学僧の為に寮を建てたという。
天保の頃の「江戸名所図会」には、中之島の弁天堂のほか、北側の小島に聖天が書かれている。ただし、聖天が寛文の頃から小島にあったかどうかは定かではない。「江戸名所図会」には、役の行者、摩利支天、稲荷についての記載はないが、天保の頃には無くなっていた可能性もある。
江戸時代は生池院が弁天堂の別当をつとめていたが、今は寛永寺の弁天堂になっている。現在の弁天堂は戦後の再建だが、手前の手水舎は江戸時代からのものである。ただ、屋根などは改修されているようである。北側の小島は聖天島の名で現存しており、鳥居付きの聖天が祭られている。島の入り口は閉鎖されているが、「台東区史跡散歩」によると、役の行者像、鳥居清忠の鶏図の碑、清水浜臣の碑、般若心経の碑が置かれているという。
1.6 牛天神
牛天神と言うのは五條天神のことである。天神と言っても菅原道真の事ではなく、大己命と少彦名命の医薬祖神の称である。堯恵法師は「北国紀行」に、文明19年(1487)の1月末、武蔵野の東の境の忍岡に遊んだ時のことを、“鎮座社は五條天神と申しはべり。折節、枯れたる茅原を焼はべり”と書いており、古くから忍岡に鎮座していた事が分かる。草創の時期は不明だが、京都の五條天神をうつし祭ったという。もとの五條天神は、天神山またの名を摺鉢山と呼ばれた山の上にあったが、明暦3年(1657)に黒門の右前に移される。「江戸名所記」に書かれているのは、この頃の五條天神であり、「新板江戸大絵図」にも黒門の南に牛天神と記されている。
五條天神は、何時の頃からか、牛天神と呼ばれるようになるが、一説に医師天神から転じたともいう。ところが、小石川の金杉天神も牛天神と呼ばれていたため、混同される事があったらしく、「江戸名所記」も、金杉天神の縁起を五條天神の縁起と取り違えている。寛永時代の末の頃だが、五條天神に菅原道真の像を奉安するという事があった。連歌の守護の為に菅原道真を祭ったという事なのだが、天神と言えば菅原道真という世間の考え方に配慮したのかも知れない。
五條天神の別当を兼ねていた連歌師の瀬川家は、もとは天神山の下に居住していたが、明暦3年の五條天神の移設の際、黒門近くの拝領屋敷に移住している。明暦大火以降に各所に設けられた火除け地の一つが現在の上野駅の南側にあり、上野山下と呼ばれていたが、瀬川家が拝領した屋敷は、上野山下の少し南側にあった。元禄時代、黒門の前の五條天神を移すよう命ぜられたが、適当な場所が見つからなかったため、瀬川家の屋敷内に五條天神を祭ることにした。「江戸名所図会」に取り上げられている五條天神は、瀬川屋敷に祭られた後の五條天神だが、茶屋や見世物で賑わう上野山下の広場に通じる道沿いにあった。
五條天神は昭和になって、旧地の天神山にも近い、花園稲荷下の現在地(上野公園4)に移転している。
1.7 忍岡稲荷
忍岡稲荷とは、現在の花園稲荷のことである。忍岡稲荷は、東叡山の開創時に天海により建立されたという伝承があるが、「江戸名所記」では、太田道灌が勧請したという説をとっている。その文章と挿絵からすると、当時の稲荷社は、洞の内を本社とし、洞の上に祠を建て、社の前に穴を掘り抜いた石を建て、その前の左右に白狐の像を置いていたようである。また、神木は榎で、糸桜が美しく、石段の下には池があり、西には不忍池が見えて、捨てがたい景色と書いている。
天和・貞享(1681-1687)頃の上野の図(還魂紙料)によると、入口は不忍池の側にあって、池を渡って石段を上がったところに拝殿があった。この図には、弥左衛門きつねと書かれているが、別に祠があったかどうかは分からない。
「江戸名所図会」の挿絵によると、石段の下の池は既に無いものの、全体は天和貞享の頃とあまり変わっていないように見える。なお、忍岡稲荷は穴の上にあったため、俗に穴稲荷と呼ばれていたと記している。
忍岡稲荷は、明治になって花園稲荷と改称し、昭和になって五條天神が移ってくると、南向きに新たな社殿を造営している。旧社殿の跡は、お穴様と呼ばれている場所である。
「江戸名所記」では、明神(忍岡稲荷)の霊夢により建てられてとして、護国院を取り上げ、松桜竹の林があり鳥居の中に茶屋があると書いている。護国院は寛永の初めに寛永寺の子院として建てられ、根本中堂造営以前に本堂として使われた釈迦堂の別当寺となっている。当初は本坊(跡地は国立博物館)の北東にあったが、その後は何度か移転し、寛文の頃は本坊の北西に位置していた。宝永6年(1709)に現在地に移転。「江戸名所図会」の挿絵には正月の大黒講の賑わいが描かれている。現在の敷地(上野公園10)はかなり縮小されているが、現存する釈迦堂を本堂として使用し、谷中七福神の一、大黒天を祭っている。
1.8 神田広小路薬師
上野の黒門の南、不忍池から流れ出て東流する忍川の南側は、下谷広小路(上野広小路)と呼ばれ、明暦の大火以降に各所に設けられた火除け地のひとつであった。「新板江戸大絵図」には、この広小路の西側に神田広小路薬師・東福寺が記されている。「江戸名所記」は、神田広小路薬師の本尊について、伝教大師が刻んだ七仏薬師のうちの一体で、慈覚大師により伝えられ、太田道灌が城内に祭っていたが、後に神田に移り、さらに広小路に移ったと記している。
天和2年(1682)に東福寺は焼失し、本尊の薬師如来や十二神像は麻布薬園に移される。貞享元年(1684)、麻布本村町の薬園坂東側に東福寺が再建される。「江戸名所図会」に七仏薬師として取り上げられているのは、麻布本村町に移ったあとの東福寺七仏薬師である。
明治になって東福寺は廃寺となり、薬師像などは安養院に移されたが、戦災で焼失している。東福寺の土蔵造りの本堂(薬師堂)は、明称寺(港区南麻布3)に引き継がれて現存しているが、瓦に葵の紋があり、本堂の格天井に薬草の絵が描かれていることから、もとは麻布薬園にあった薬師堂ではないかとする説がある(港区史)。寛永時代に設けられた麻布薬園は、「新板江戸大絵図」によると、本村町から四の橋に下る坂(薬園坂)の西側にあった。東福寺の薬師如来像は、麻布薬園内の栄草寺薬師堂に納められていたと思われるが、貞享元年(1684)、白銀御殿拡張のため麻布薬園が廃止された時、栄草寺薬師堂が東福寺の本堂に転用され、明治になって東福寺が廃寺になると、この本堂(薬師堂)が明称寺に売却されたという事になるのだろうか。多少の高低差がある点は気になるが、それでも、土蔵造りの本堂を曳屋により移動させたのであろう。
1.9 湯嶋天神
「江戸名所記」によると、太田道灌は文明10年(1478)の夏に北野天神を江戸城内に勧請していたが、その年の秋、太田道灌が菅原道真の夢を見た翌日に道真の自画像を持参して来た人が居たため、これを奇特な事と思い、江戸城の北に社を建てて梅を植え、社領を寄進して崇め祭ったとし、これが湯島天神(湯島天満宮)で、次第に繁盛して景勝の地になったとしている。別の説に、社を建てて梅を植えたのは湯島ではなく、江戸城内であったとし、この社が後に移転したのが麹町の平河天神であるとする。「江戸名所図会」では後者の説をとり、平河天神が道真真筆と称する自画像を伝えていることをあげている。堯恵法師の「北国紀行」によると、文明19年(1487)に武蔵野を訪れ時の記述に、“忍岡の並びに湯島という所あり。古松遥かにめぐりて注連の中に武蔵野の遠望をかけたるに、寒村の道すがら野梅盛に薫ず。これ北野の御神と聞きしかば”とあるので、当時から湯島に菅原道真を祭る社があったのは確かである。一説に、湯島には古くから天之手力雄命を祭る戸隠神社があったが、正平10年(文和4年(1355))に土地の人が菅原道真を祭ったということがあり、これが湯島天神の始まりともいう。
文明の頃の湯島はまだ寒村で、不忍池の周辺は茅原であったようだが、江戸時代になると茅原が埋め立てられて町が作られ、湯島もまた賑わいを増すようになる。「江戸名所図屏風」や「江戸図屏風」には湯島天神を参詣する老若男女や、参詣客相手の店が描かれている。「江戸図屏風」には、境内で弓の練習をする武士の姿も描かれている。
江戸時代も後期になると、湯島天神は庶民の娯楽場へと変貌する。「江戸名所図会」を見ると、境内には茶屋が設けられ、鳥居の内側には芝居小屋や楊弓の遊戯場がつくられる。表通りには料理茶屋も並んでいる。
現在の湯島天満宮は娯楽場としての性格が薄れ、学業の神という本来の姿になっており、合格祈願の参詣者が多く訪れている。
1.10 神田明神
神田明神は、天平2年(730)、武蔵国豊島郡江戸芝崎(現在の千代田区大手町1付近)に創建されたと伝えられ、伊勢神宮の田(神田)を鎮める社ゆえ神田の宮と称したという。神田明神の祭神は大己貴命であったが、延慶2年(1309)、近くにあった平将門の首塚の祠を遊行僧が修復した際に、平将門命も合祀するという事があった。神田明神は、慶長8年(1603)、駿河台に移り、さらに、元和2年(1616)には現在地に遷座して、江戸総鎮守として崇敬されるようになるのだが、平将門を合祀してからは、一般に平将門を祭る神社と思われていたらしい。「江戸名所記」では、神田明神を平将門の霊とし、藤原秀郷に討たれた平将門の首がこの地に落ちたので、京都に送って獄門にかけたものの、祟りをしたため、ある人が歌を詠んだところ祟りが無くなった。そこで、この地に首を送り、託宣により神社を建てたと書いている。
「江戸名所図屏風」には、神田明神境内で行われている神事能が描かれており、周りを筵で囲んでいるので、木戸銭を払って入るようになっていたらしい。「江戸名所記」の挿絵にも筵らしきものが見えるが、神事能を描いたのであろう。神事能は隔年ごとに行われていたが、享保の頃には断絶してしまったという。ところで、「江戸名所図屏風」や「江戸図屏風」には、神田明神の楼門を入って右側に三重塔が描かれているが、時代の下る「江戸絵図(屏風)」には見当たらない。江戸時代後期の「江戸名所図会」の挿絵には、神事能を行う舞台や三重塔は描かれていないが、その代わりに茶屋や楊弓場が境内に描かれている。隔年に行われる祭礼は、山王社の祭に次ぐ江戸の天下祭であり、「江戸名所図会」でも、庶民が桟敷で祭りを見物する様子が描かれている。
今の神殿は昭和初期の鉄骨鉄筋コンクリート造、随身門は昭和50年再建の総檜造りである。江戸三大祭りの一つ神田祭は、去年が自粛、今年は陰祭で少々寂しかったが、来年を期待したい。
1.11 谷中清水稲荷
「江戸名所記」には次のような話が記載されている。“昔、弘法大師がここを通った時、老女が水を運んでいるのを見てその水を所望した。すると老女は、この辺りには水が無いので遠くから運んでいると言い、子が一人居るが患っていると話をした。そこで、大師が独鈷で土を掘ると清水が湧きだした。この水で老女がその子を洗うと病が癒えた。大師は自ら稲荷を勧請した。”
この稲荷が清水稲荷である。池の端から上野高の横を上がって行くと護国院の前に出るが、この坂を清水坂と言い、護国院の前にあった寛永寺の門を清水門と呼んだ。当初の清水稲荷は、清水門近くの清水坂の西側にあったが、「江戸名所記」は、この頃の清水稲荷を取り上げている。
清水稲荷は元禄時代になって近くに場所を移している。さらに、宝永7年(1710)頃に浅草の駒形堂近くに移転しているが、「江戸名所図会」に取り上げられているのは、駒形堂近くに移った後の清水稲荷である。江戸切絵図で、駒形堂の近くに清水稲荷屋敷と書かれているのがそれで、その呼称は、清水稲荷ごと屋敷が移転してきたことによる。清水稲荷のご神体は弘法大師の如意宝珠だが、実際には自然石で、この石を移したと思われるが、移転後の氏子は無かったという。その後、清水稲荷屋敷は駒形町に吸収され、清水稲荷は榊神社の境内社になったという事なのだが、清水稲荷の名は失われてしまっている。
1.12 谷中法恩寺
法恩寺は、太田道灌が江戸城築城に際して日住上人を開山として建立した本住院に始まる寺であり、孫の資高の代になって法恩寺に改称している。法恩寺は、当初、平河にあったが、後に神田柳原に移り、さらに谷中清水町に移る。「江戸名所記」に取り上げられているのは、谷中清水町にあった時の法恩寺であり、次のように記している。大門を入ると左側に三十番神の社があり、拝殿の前には魂屋があった。鐘楼はあるが屋根は無い。本堂の両側には桜があった。
「江戸名所記」は法恩寺について、今は不受不施(日蓮宗以外からは施しを受けず施しもしない)の門流をくむと書いている。法恩寺は京都本国寺の触頭として、幕府の通達を傘下の寺院に伝達し、また各寺院からの願書を取り次ぐ役目を担っていたが、本国寺の住職に不受不施を主張した住職が居たことを指して、その門流をくむと書いたのだろうか。日蓮宗不受不施派は幕府の命令にも服さない事があり、幕府は後に禁制の宗派として弾圧する事になるのだが、「江戸名所記」の刊行当時はそれほどではなかったらしく、「江戸名所記」も好意的な記述をしている。
法恩寺は、元禄時代に現在地(墨田区大平1)に移る。「江戸名所図絵」は、この時代の法恩寺を扱っているが、当時の境内には、三十番神の社、鐘楼、平川清水稲荷の祠があった。
現在は、江戸時代に比べて寺域も縮小されているが、今なお大寺だった頃の面影を残している。三十番神は存在しないが、鐘楼は堂々たる三重塔となっており、平川清水稲荷の祠も境内にある。
1.13 谷中善光寺
善光寺は慶長6年(1601)、谷中に創建され、後に青山に移った尼寺である。「江戸名所記」が取り上げているのは谷中にあった頃の善光寺だが、当寺の本尊は秘仏で開帳がなく、両脇に善導と法然の絵像が掛っていた事。比丘尼寺である事。何れの時いかなる事で建てられたか定かには分からない事。門の内には両方に桜並木がある事を記している。善光寺は、「江戸図屏風」にも描かれているが、当時の格式の高さを物語っている。江戸の切絵図を見ると、上野の山内から根津方面に行く道沿いに善光寺前町と書かれているが、この町名も善光寺に由来する名であり、善光寺が青山に移った後も町名としては残っていた。現在の道でいうと、言問通りを根津方面に下る坂に善光寺坂の名があり、谷中善光寺の跡地は、この道の途中の北側ということになる。
長野の善光寺は、天台宗の大勧進と、浄土宗の尼寺である大本願から成っている。大勧進の住職である貫主は僧侶の中から選ばれるが、大本願の住職である大本願上人は勅許による称号であり、宮家や公家が務めてきた。谷中の善光寺は、大本願上人の江戸における宿舎として建てられた格式のある尼寺であり、善導と法然の絵像が掛けられていたのは、浄土宗のゆえである。
谷中の善光寺は後に焼失し、宝永2年(1705)に青山の現在地(港区北青山3)に移っている。「江戸名所図会」は、青山に移ってからの善光寺を取り上げているが、その挿絵によると、仁王門を入った正面に阿弥陀如来を本尊とする本堂、その左手には観音堂があり、本堂裏手には客殿と庫裏があった。観音堂の本尊は聖観音で、谷中で火災に遭った時、自ら逃れて榎に飛びついたので、火除け観音とか榎観音と呼ばれていたという。
現在の善光寺は、表参道駅の近く、青山通りから少し入った、江戸時代と同じ場所にある。昨年は工事中だった仁王門と本堂は、すでに改修を終えたらしく、今は真新しく見える。繁華街が近い割に境内は静かで、参拝する人もちらほら。傍らには高野長英の碑がひっそりと建っている。
1.14 谷中感応寺
谷中感応寺は、現在の谷中の天王寺の前身となる寺である。感応寺は、14世紀末頃の草創と伝えられる古刹で、中興は日長上人という。「江戸名所記」は、当代に至るまで法華読誦の声が続いて絶える事が無いとし、10月13日の御忌には人々が集まって市をなすと記している。また、当寺には日蓮聖人自作の御影があり、常には開帳しないが、立願のことあれば草履一足を御影の前に掛けて祈ると願が成就すると書いている。その一方で、常日頃は信心する気も無いのに、難しい事があった時だけ祈願するというのは恐ろしい事だとも述べている。
「江戸図屏風」に谷中として描かれているのは、谷中感応寺と思われるが、当時から周辺に桜が多かったようである。「江戸名所記」の挿絵には、正保元年(1644)に建立された五重塔が描かれているが、景観年代が古い「江戸図屏風」には、五重塔は描かれていいない。この五重塔は明和9年(1772)に焼失し、寛政3年(1791)に再建されている。
谷中感応寺は古くから不受不施派に属していた。日蓮宗以外には施しを受けず施しもしないという不受不施派は後に幕府から禁制の宗派として扱われ、谷中感応寺も元禄11年(1698)に天台宗に改宗させられる。その後、谷中感応寺は毘沙門天を本尊とする天台宗の寺として存続し、元禄時代の末には富くじ興業も行われるようになる。天保4年(1833)になると、谷中感応寺の日蓮宗帰宗の願書が出され、幕府もその受け入れを検討するが、寛永寺の反対があったため、谷中感応寺は天王寺と改称して天台宗のままとし、別に日蓮宗の感応寺を立てる事で決着する。日蓮宗の感応寺は、天保7年(1836)に、雑司ヶ谷の外れの鼠山に建立されるが、天保12年(1841)には廃寺になっている。
「江戸名所図会」の感応寺に関する内容は、天王寺改称以前に記述されたと思われ、谷中感応寺を天台宗と記している。「江戸名所図会」の挿絵には、寛政3年(1791)に再建された五重塔が描かれている。また、九品仏と書かれた大仏も描かれているが、元禄3年(1690)頃に建立された銅造釈迦如来座像と思われる。
谷中の天王寺の大仏、銅造釈迦如来坐像は現存しているが、五重塔は昭和32年に焼失し、今は跡を残すのみである。
(注)鼠山の感応寺についての経緯は、当ブログの「夢まぼろしの鼠山感応寺」を参照のこと。
1.15 新堀七面明神
新堀七面明神は、万治3年(1660)に日長上人が身延の七面明神を勧請したと伝えられるが、家綱乳母の三沢局の建立という説もある。別当の延命院は、慶安時代(1648―1651)の開創、開山は日長上人という。「江戸名所記」には、次のような縁起が記されている。
身延に七つの峰からなる七面山という山がある。日蓮聖人が身延山で法華経を読経していた時、一人の美女が現れて七面山の神と名乗り、七つの峰の各々に面を向けて住んでいるが、今よりは守護神となると言い大蛇の姿を現した。日蓮聖人はこれを崇め身延山の守護神とした。延命院の住持であった日長上人は、妙見大菩薩と七面明神の何れを勧請すべきか迷っていたが、万治3年のうたたねの夢に老僧が現れ、七面明神を勧請せよと告げられたので、七面明神を勧請した。七面明神の本地は妙見大菩薩で、七面明神を崇めれば妙見菩薩もその間に籠るという事である。
「江戸名所図会」の挿絵を見ると、延命院の敷地は三段になっていて、上の段には七面の宮が敷地の西北側にあり、東南の入口から伸びる参道には、鳥居が建っていた。中段には延命院の方丈があり、下段の西南には門があった。延命院の下段は台地の裾を南北に通じる六阿弥陀道に接していた。延命院の南側には七面坂があり、六阿弥陀道に下っていた。
明治になって、仏教系の七面明神は延命院に吸収される。現在の延命院の場所(荒川区西日暮里3)は江戸時代と同じだが、敷地は縮小されて、上の段に延命院本堂、玄関、七面堂が並んで建っている。「江戸名所図会」の挿絵で入口近くに描かれていた椎の大木は、樹木の勢いは衰えたものの、今もまだ頑張って残っている。