夢七雑録

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江戸名所記見て歩き(4)

2012-08-11 15:46:51 | 江戸名所記

<巻2>

2.1 駒込村吉祥寺

 太田道灌が江戸城を築城した際、掘った井戸から吉祥増上の金印(銅印)が出た事から、長禄2年(1458)に吉祥庵を建てたのが吉祥寺の始まりと伝えられている。諏訪山吉祥寺としての開創は大永年間(1521-1527)、開山は青巌周陽和尚(?-1542)という(文京区史跡散歩)。江戸城が北条氏に攻められ開城した後のことだろうか。その後、江戸城の城代となった遠山氏により、吉祥寺の寺領の安堵も行われている。当時の吉祥寺の位置は、現在の和田倉門の辺りとされるが、徳川家康が江戸に入った翌年、天正19年(1591)に、吉祥寺は神田の台に移る。「寛永江戸全図」や「江戸図屏風」には、現在の水道橋に相当する吉祥寺橋の近くに吉祥寺が描かれている。明暦の大火(1657)のあと、吉祥寺は、駒込の現在地(文京区本駒込3)に移るが、「江戸名所記」に取り上げられているのは、駒込に移ったあとの吉祥寺である。

 「江戸名所記」によると、吉祥寺が神田の台に移った時、住持の用山玄照和尚に対して、移転先は辺鄙な場所だが寺にとってはどうなのかと、ご下問があった。そこで玄照(元照)が答えて曰く、江戸の様子を見ると、これから大いに繁盛して市をなし人の住処も広まるだろうから、敷地を移された寺もまた他の場所に移るようになるのではと申し上げた。これを聞いた家康は感心して直ぐに寺領を寄付した。そして、同安洞察和尚が住持の時に吉祥寺は駒込に移る事になった。
 「江戸名所図会」の挿絵を見ると、何といっても学寮の多さが目につくが、これは、吉祥寺が曹洞宗の学問所であり、栴檀林と号していたことによる。学寮を設立したのは、用山元照と伝えられるが、駒込に移った後も、多くの学寮が建てられたという。

 吉祥寺は戦災により大半を焼失し、現存しているのは山門と経蔵だけである。吉祥寺の学問所としての機能は、現在、駒澤大学に引き継がれている。なお、武蔵野市吉祥寺は、吉祥寺門前町の住人が移住して開拓した土地ゆえ、吉祥寺と称したという。

2.2 駒込村富士社並びに不寝権現

 「新板江戸大絵図」で、吉祥寺から北に向かうと富士権現に出るが、この神社が駒込村富士社であり、現在の富士神社である。富士神社は、もとは本郷(加賀藩屋敷内、現在の東大構内)にあったが、後に駒込の現在地(文京区本駒込5)に移っている。
 「江戸名所記」は富士社について、次にように記している。この社は100年ほど前に本郷にあったが、山の上の大木のもとに6月1日(旧暦)に大雪が降った。近くに寄ると祟りがあったので、人々は恐れて小社を造り、富士権現を勧請した。それからは、6月1日に富士まいりとして貴賓上下が参詣するようになった。この場所は寛永の初めに加賀藩の屋敷になったが、今も社の跡が残っていて毎年6月1日に神事がある。山は富士の形で、その前に富士書院という書院がある。山上の社には今も6月1日に老若の群衆が集まっている。社の別当は真光寺昌泉院がつとめている。

 「新編武蔵風土記稿」は、寛文の頃の神社縁起をもとに、天正元年(1573)に村人が富士浅間神社を勧請したとしている。「社記」は、社殿造営の翌年(1574)6月1日に江戸に雪が降ったため、富士社を祭る霊場として参詣者が増えたとする。「江戸惣鹿子」は、100年ばかり前の6月に雪が積もり富士浅間を勧請したと記し、「兎園小説」は、慶長8年(1603)6月1日に雪が降り、その場所に浅間宮を造ったとする。また、慶長20年6月1日に雪が降ったという話もある。何れにしても、「日本の気象史料」、「日本災異通志」、「東京市史稿変災篇2」に該当する記事は見当たらない。ただ、ヒョウやアラレも雪とすれば、夏に雪が降る事はあり得ない話では無く、「日本の気象史料」には、夏(立夏から立秋前日、新暦で5月6日~8月7日頃)に雪が降った例として、慶長19年、元和3年、正保4年、安永8年、嘉永6年、文政元年の事例が記されている。なお、富士神社が駒込に移ったのは、加賀屋敷の造営が始まった頃とされるが、それより前に、本郷とは別に駒込にも富士社があったようである。

 「新板江戸大絵図」で、富士神社から東に向かい、天祖神社の先から、南に向かう道をたどると、千駄木坂(団子坂)の上に出る。団子坂の手前に子ズノゴンゲンと書かれているのが不寝権現に相当し、現在の根津神社の旧地にあたっている。もとの不寝権現は団子坂の南側にあったが、太田備中守の屋敷地になったため、団子坂の北側に移されたという。「江戸名所記」に取り上げられているのは、団子坂の北側に移ったあとの不寝権現である。同書では不寝権現について、栴檀の林の中の小社で、太田備中守が新たに社を作ったと記し、来歴については不明としながらも、不寝権現は番神なのだろうと述べている。「江戸惣鹿子」では、子ズノ権現の呼称からネズミに関係あるとして大黒天を祭ったのではないかとしている。縁起については他にも説があるが、何れも判然としない。不寝権現は千駄木の鎮守で、近くにあった甲府藩邸にとっては産土神であったため、甲府藩主の子で、後に五代将軍綱吉の養子となり六代将軍となった徳川家宣が、お宮参りをした神社でもあった。その縁で、この神社は後に甲府藩邸の場所に社地を移すことになり、宝永3年(1706)には幕府により社殿が造営される。「江戸名所図会」に取り上げられているのは、この時に造営された社殿であり、スサノオを祭神とする根津権現社である。

 現在、この神社は改称して根津神社(文京区根津1)となり、主祭神をスサノオとしている。宝永3年に造営された社殿は現存し、重要文化財に指定されている。現在の縁起によると、ヤマトタケルが千駄木に創祀したとされ、文明年間に太田道灌が社殿を奉建し、世継ぎが決まった時に五代将軍綱吉が社殿を奉建し遷座したとしている。

 
2.3 西新井惣持寺

 西新井惣持寺、すなわち總持寺(足立区西新井1)、通称・西新井大師は、千住宿の先にあり、江戸の郊外ということになる。しかし、歩いて日帰りできる場所でもあった。惣持寺の縁起について、「江戸名所記」は、弘法大師が行をしようとしたところ、閼伽の水が無かったので、地に向かって加持したところ、忽ち水が涌いたため新井と名付けたと記している。これとは別に、弘法大師が病魔退散のため加持祈祷を行い、像を井戸に投げ入れたという縁起も伝えられている。当時の惣持寺は真言宗の談林、すなわち学問所であり、修行僧が多く集まる寺であった。この寺が江戸の名所として、多くの参詣客を集めるようになるのは、江戸の後期になってからのようである。

 「江戸名所図会」は茅葺の惣持寺を挿絵としているが、茶屋も一軒描かれており、毎月の御開帳の際には参詣すこぶる多し、と記している。惣持寺が瓦葺になるのは天保年間になってからであり、三匝堂もこの頃に建てられている(明治時代に再建)。

 現在の西新井大師は、川崎大師と並ぶ関東の弘法大師霊場として、多くの参詣客を集めるようになった。江戸時代の建造物としては、江戸後期の仁王門が現存している。

2.4 浅草観音

 「江戸名所記」による浅草観音、すなわち浅草寺の縁起は、次のようなものである。推古天皇の36年、檜熊、浜成、竹成の兄弟が下ろした網に観音像がかかった。兄弟は驚き、家に帰ってから仲間を集めて相談したが、早く宮を作って観音を奉安すべきという事になった。翌日、兄弟が漁に出たところ多くの魚が獲れたので、これを売った儲けで観音堂を建てた。兄弟が亡くなったあと、子孫が三つの社を建て兄弟を祭った。これが三所の護法神である。また、夜毎に光を放つ観音を尊んだ十人の草刈が協力して観音堂を建てたが、これが後に十社権現となり、最初の宮が一の権現となる。大化元年に勝海上人がこの地に詣で奇特のお告げを得て以来、本尊を直接拝んだ人はいない。天慶5年、平公雅が観音堂を再興して仏堂や五重塔などを建てた。その後、地震や兵火で度々堂塔が破壊されたが、その都度再建されている。
 浅草寺の草創にかかわる縁起は、伝説に過ぎないとはいえ、浅草寺一帯は古代から中世にかけての遺跡地でもあり、伝説が生まれる土壌があったと思われる。

 明暦以前の景観を描いたとされる「江戸図屏風」や「江戸名所図屏風」には、本堂の西側に三重塔が描かれるとともに、仁王門や本坊、それと位置は異なるが鐘楼も描かれている。「江戸名所図屏風」には、浅草橋から浅草寺に至る祭りの行列も描かれている。当時の三社祭のルートは、浅草寺から駒形堂に出て船に乗り、浅草橋で陸に上がって浅草寺に戻っていたという。「新板江戸大絵図」には、仁王門を入って右側に五重塔が描かれているが、三重塔は描かれていない。また、三所の護法神に相当する三社権現が本堂の東側に、十社(権現)が本堂裏手に記されており、随神門(現在の二天門)の東側、隅田川近くには、一の権現も記されている。

 明治の神仏分離の結果、三社権現は浅草寺から分離され、今は浅草神社と名を変えている。ただし、江戸時代の社殿は現存している。十社権現は浅草神社に合祀され、一の権現は千勝神社に合祀されたという事だが、現状についてはよく分からない。

 浅草寺の本堂、宝蔵門、雷門、五重塔は戦後の再建であり、五重塔は位置を西側に移している。随身門は神像を仏像に変えて名称も二天門に変更したが、江戸時代の姿で現存している。最近、本堂は改修工事が行われていたが、2010年末に終了し、今は新装なった本堂になっている。浅草寺は古くから庶民の寺であり、江戸時代は神仏を祭る聖なる場所であるとともに歓楽地でもあった。その状況は今も変わらない。

2.5 浅草明王院 付、明王院の姥淵

 浅草寺の子院であった浅草明王院(妙音院)と、この寺の内にあった姥淵(姥ケ池)について、「江戸名所記」には、次のような話が書かれている。昔、この辺りが人里離れた土地であった頃、野の中に柴の庵があり、年老いた姥と若い娘が住んでいた。旅人がこの庵に宿を借りると、姥はその旅人を殺して持物を奪った。その数は999人に及んだ。浅草の観音はこれを哀れに思い、草刈りの姿で笛を吹き、宿を借りるなと伝えた。それを聞いた旅人は、夜のうちに庵を逃げ出して助かったという。用明天皇の時、浅草の観音は美しい稚児の姿となって、この庵に宿を借りた。すると、娘が稚児の寝床に忍んできた。姥はひそかに稚児を殺そうとして、娘を殺してしまった。姥は嘆き悲しみ、大竜の本体を現わして竜宮へ帰っていった。姥が帰っていった場所が姥淵(姥ケ池)である。今は、この土地にも家が軒を並べるようになって、賑やかになった。浅草寺にも、明王院(妙音院)を含め多くの子院が作られるようになった。

 「新板江戸大絵図」において、随身門(二天門)の東に明王院が記されており、ウバガ池と書かれている。姥ケ池は隅田川に通じる大きな池であったと伝えられているが、「江戸名所図会」では小池としており、当時はそれほど大きくはなかったようである。この池は明治になって埋め立てられてしまったが、今は旧跡として形ばかりの池が残されている。明王院(妙音院)は浅草寺の子院の一つとして本堂の裏手に残っており、旅人を殺すために使った石枕も保存されているという。


2.6石浜村総泉寺 付、妙亀山

 「新板江戸大絵図」で、浅草寺随身門から東へ行き、明王院を過ぎて、隅田川沿いの街道に出る。ここを北に行き奥州街道と別れ、金竜山の横を通って、山谷堀を渡る。絵図からすると、当時の山谷堀の下流は池のようになっていたようである。さらに隅田川沿いを進み、左に入ると総泉寺の境内となる。総泉寺は曹洞宗の大寺で、石浜を居城とした千葉氏の菩提寺でもあった。「江戸名所記」では、この寺の内に千葉氏の石塔があり、軍配団扇があると書いている。また、「江戸名所図会」にも、千葉氏の墓所があったことが記されている。

 総泉寺は、関東大震災で罹災し、昭和3年に旧地(台東区橋場1、2)から現在地(板橋区小豆沢3)に移り、大善寺と合併して現在に至っている。

 「江戸名所記」は総泉寺南側の浅茅原にある妙亀塚について次のように記している。妙亀塚は武蔵国の名所ということだが、歌枕などには見当たらない。古老の話では、妙亀とは梅若の母の法名ということだが、別の説では、斑女という人で梅若の母かどうか分からないともいう。昔、梅若が、かどわかされて隅田川まで来たが、ここで亡くなり、梅若を尋ねてさまよっていた梅若の母は、この事を聞いて悲しみ、総泉寺で髪を剃り妙亀尼と法名をつけ念仏を続けた。ある日、妙亀尼は鏡ケ池に梅若の姿を見て池に飛び込んでしまった。そこで、人々が塚を作り妙亀堂を建てた。

 「江戸名所図会」の挿絵には、浅茅原近くの妙亀庵、塚の上の妙亀堂、南側の鏡ケ池が描かれている。また、妙亀堂の下にあった古碑について、千葉胤頼の墓碑ではないかと記している。現在、妙亀塚は小公園(台東区橋場1)となり、都史跡になっている。塚の上には、妙亀尼とは無関係だが、妙亀堂の下にあった古碑が置かれている。

2.7浅草金竜山 付、真土山

 浅草金竜山とは金竜山本龍院・待乳山聖天のことである。「新板江戸大絵図」では、奥州街道との分岐点の先、山谷堀の手前の西側に金竜山と記され、別当の本龍院の名と、聖天の鳥居が記されている。「江戸名所記」は、昔、この山より金竜を掘りだしたため金竜山と名づけたとし、真土山(待乳山)は武蔵の名所で、聖天宮があり、全体が大きな松山で、山上からは浅草川(隅田川)や牛島新田が見えると記している。

 江戸時代後期まで、金竜山はそれほど変わらなかったようだが、明治になると、聖天宮は仏教系とされて鳥居も廃され、本龍院の内となって現在に至っている。


2.8 浅草三十三間堂

 江戸時代、京都の三十三間堂の軒下で、端から端まで矢を射る通し矢が流行した。そこで、江戸にも同じものを作ろうということになり、寛永19年(1642)、浅草に三十三間堂が建てられた。「新板江戸大絵図」で新堀川の西側に三十三間堂が記されているが、現在の場所でいうと、かっぱ橋道具街通りの西側にあたり、矢先神社(台東区松ケ谷2)の社名は、矢の的にあたる場所が、社地に隣接していたことに由来するという。「江戸名所記」によると、浅草の三十三間堂は、京都とは異なり千手観音が一体だけだったという。矢は北に向かって射るようになっていたが、100本射ればすべて通り、終日射れば数千本は通ったと書いている。

 浅草三十三間堂は、元禄11年(1698)の大火で焼失し、深川に再建されている。「江戸名所図会」に取り上げられているのは深川移転後の三十三間堂だが、これも明治になって破却され、今は記念の碑(江東区富岡2)を残すのみである。


2.9 東本願寺

 「新板江戸大絵図」で、三十三間堂から新堀川(かっぱ橋道具街通り)に出て、橋を渡り南に行くと、東側に東本願寺がある。「江戸名所記」は東本願寺について次のような経緯を記している。京都の本願寺の住職であった教如上人は、秀吉によって隠居させられ、弟が本願寺を継いだ。教如上人は裏屋敷に押し込められていたが、その後、家康に召し出され、別に屋敷地を拝領した。これにより、本願寺は西本願寺(もとの本願寺)と東本願寺(教如上人が拝領地に開いた寺)に分かれることになった。後に、東本願寺からの訴えが入れられて、神田に拝領した寺地に東本願寺の末寺が建てられた。この寺は大いに繁盛し、京都の本願寺から輪番で江戸に下るようになり、江戸中に教えを広める活動を行っていたが、明暦の大火のあと、浅草に移った。

 新堀川は、かっぱ橋道具街通りに代わってしまったが、本山東本願寺は今も昔の場所(台東区西浅草1)にあり、広い敷地を占めている。


2.10 浅草報恩寺

 「新板江戸大絵図」で、東本願寺の東側に法ヲンジと書かれているのが、報恩寺である。「江戸名所記」は、報恩寺の縁起を次のように記している。親鸞聖人の弟子の聖心坊(性信)が下総の飯沼に寺を建てたのが、報恩寺の始まりである。その頃、飯沼の天神の夢のお告げにより、正月11日に池の鯉を報恩寺に納めるようになったが、これに倣って今も在所の門徒から報恩寺に鯉を納める習わしがあり、報恩寺からは正月の鏡餅を返礼として渡していた。寺宝には、親鸞聖人御寿像、親鸞直筆の教行信証6冊、親鸞の笈や団扇などのほか、蛇返という脇差があった。この脇差は木枯しと呼ばれていたが、これを手に入れた平忠盛が昼寝をしていた時、大蛇が現れ忠盛を襲おうとした。すると、刀が抜けて切っ先を大蛇に向けたため、大蛇は戻っていった。それからは、刀を蛇返と呼ぶようになったという。また、ある説に、聖心坊(性信)が佐渡島に渡った時、海中より大蛇が現れ聖心坊を呑もうとした。すると刀が抜けて大蛇を追い返した。そこで、蛇返と名をつけ、家に伝えていたともいう。

 報恩寺は後に下総の飯沼から武蔵国の桜田へ移り、さらに八丁堀に移り、明暦大火のあと浅草に移っている。「江戸名所図会」は東本願寺の東に隣ると記し、挿絵では清光寺(台東区西浅草1)の北隣に報恩寺を描いている。なお、報恩寺は後に現在地(台東区東上野6)に移っている。現在、飯沼天神は大生郷天満宮(常総市大生郷町)と名を変えているが、正月に鯉を納める習慣は現在も続いており、旧地に残る報恩寺に鯉が納められたあと、浅草の報恩寺に送られてくる。この鯉を用いて俎板開きが行われているという事である。


2.11 浅草日輪寺


 「新板江戸大絵図」で、報恩寺から北に行くと日輪寺に出る。「江戸名所記」は、日輪寺について、時宗の寺で本尊は安阿弥作の阿弥陀如来立像と書いているが、縁起については触れていない。「江戸名所図会」によると、一遍上人第二世の真教坊が諸国遊行の折に武蔵国豊島郡芝崎村に至り、神田明神の祠の傍らに草庵を結んで、芝崎道場と称したのが日輪寺の始まりだという。真教坊は、また、神田明神に平将門の霊を加えて二座にする事があり、このような縁から、神田明神の祭りに際しても、日輪寺から僧を出して誦経念仏を行っていたと記している。一説に、真教坊は、荒廃していた将門塚を修復し、碑を建てたともいう。日輪寺は、後に柳原に移り、明暦の大火後は現在地(台東区西浅草3)に移っている。


2.12 大雄山海禅寺

 「新板江戸大絵図」で、日輪寺から西に行くと新堀川の四つ角に出る。その北西側は海禅寺、北東側は東光院、南西側は清水寺である。「江戸名所記」による海禅寺の縁起は次のようになっている。平将門が下総国相馬郡に草創した海禅寺は、平将門が誅伐されたあと、堂塔仏閣の全てを大破され、狐や兎の棲家になっていた。覚印長老はこの地に住んでいたが、やがて湯島に移住した。家康が湯島を訪れた時、住僧は誰かと聞いたところ、覚印ということであった。家康も学識者である覚印の名に聞き覚えがあり、それからは、大いに尊重するようになったという。

 覚印は、平将門が創建した海禅寺を再興したのではなく、別の寺を建てて、海禅寺の名を継承したということのようである。海禅寺は明暦大火で被災したあと、現在地(台東区松が谷3)に移転している。


2.13 浅草薬師

 「江戸名所記」は、浅草薬師(東光院)の縁起について、次のように記している。薬王山医王寺東光院は慈覚大師の草創で、天台宗108ケ寺の総本寺であった。太田道灌は本尊の薬師像を崇め、江戸城の鬼門の守りとした。家康も毎年、大般若経を転読して江戸城の長久を祈祷した。当時の寺は常盤橋の北にあったが、後に伝馬町に移り、明暦の大火で浅草の新寺町に移った。特に当寺は尊敬親王(東叡山貫主・守澄法親王)が賢海法印に命じて再興させている。

 東光院は、上野の戦争の際、東叡山貫主だった公現法親王が逃れた場所でもあった。江戸時代は新堀川の端にあったが、現在地(台東区西浅草3)は少し東になっている。


2.14 浅草清水寺

 「江戸名所記」によると、江北山清水寺は、慈覚大師が江戸城の北に勝地を求め天台宗の一寺院を建立して、自作の千手観音を安置したことに始まるという。しかし、年が経つにつれて堂塔も破れ傾き、この寺を知る人もいなくなった。その頃、この寺の慶円法印がある夜の夢に寺の再興を老翁から要請されることがあり、文禄年中に比叡山に上った際、正覚院探題の豪感僧正に夢の話を語ったことから、昔の寺号、山号、寺号により寺を再興することになったという。

 その後、清水寺は馬喰町に移り、明暦の大火で現在地(台東区松が谷2)に移っている。

2.15 浅草誓願寺

 「新板江戸大絵図」で、新堀川に沿って南に行き、東本願寺の裏手を東に入ると、誓願寺がある。「江戸名所記」によると、誓願寺は相模国小田原にあった寺で、開山は見蓮社東誉上人、本尊は武蔵国秩父より移した三尺の阿弥陀像であった。家康在世の時、誓願寺は小田原から江戸に移されたが、はじめ本銀町にあり、その後、神田須田町に移った。しかし明暦の大火で被災したため、浅草に移っている。

 浅草の誓願寺は、関東大震災後に現在地(府中市紅葉ケ岡1)に移っている。場所は、多摩霊園正門の近くである。なお、誓願寺の塔頭のうち11ケ寺は、まとまって練馬区に移転している(練馬区練馬4)。



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