1.3 日本橋
「江戸名所記」は、江戸の中心であり、街道の起点でもある日本橋を、江戸城の次に取り上げている。日本橋の最初の架橋は慶長8年(1603)という。その後、元和4年(1618)に再架橋が行われているが、「慶長見聞集」は、川の両方から石垣を突き出して橋を架けたとし、橋の長さは37間4尺5寸(69m)、広さは4間2尺5寸(8m)としている。「江戸名所図屏風」や「江戸図屏風」に描かれた日本橋は、この時の橋と思われる。この橋は明暦大火で焼失し、万治元年(1658)に架け替えられているが、この橋が「江戸名所記」に書かれている橋である。「江戸名所記」では、橋の長さを百余間と書いているが、実際の長さは三十間ほどであったろう。橋の上からの眺めは優れていて、「江戸名所記」は、その眺めを、北は浅草、東叡山(上野寛永寺)、南は富士、西は御城、東は海面近く行き交う舟も見えると書いている。特に富士と江戸城の眺めはよく知られていたようで、日本橋を描いた多くの絵画が画面の中に富士と城を取り入れている。
「江戸名所記」の挿絵には、橋の上を行く武士とお供が描かれている。橋の上から景色を眺めている人も居れば、重そうな荷物を運んでいる人も居る。橋の下には魚や米俵を積んだ舟が見え、それに交じって、遊興の舟も描かれている。「江戸名所図屏風」や「江戸図屏風」の描く日本橋には、多種多様な人物が登場する。武士も居れば、町人も居る。馬に乗る人、駕籠の人。物見遊山の人、商人、力仕事の人、荷揚げの人、飛脚、寄付を集める勧進の僧、歌念仏の比丘尼、大道芸もあれば八卦見の姿も見える。老若男女。実にさまざまな人が、ここに集まっている。日本橋付近の混雑ぶりを、「江戸名所記」は次のように書いている。
“橋の下には魚舟などが数百艘も集まって、日ごとに市が立っている。橋の上は、貴賎上下、上る人・下る人、行く人・帰る人、馬や駕籠や人が、蟻の熊野参りのように、ひっきりなしに通る。朝から夕方まで橋の両側は一面にふさがり、押し合い揉み合い急きあって、立ち止まる事も出来ない。うかうかしていると、踏み倒され蹴倒され、或いは、帯を切られ刀脇差を失い、また、巾着を切られ、手に持つ物をもぎ取られ、その事を言おうとしても、人込みの中に紛れて跡を見失ってしまう。すべて西国から東国の末まで、諸国の人の往来する日本橋であれば、込み合うのも当然である。橋の下からは市の声、橋の上からは人の声、話の中身も聞き取れず、ただ、がやがやと、聞こえるばかりである。”
日本橋の南側には高札場があり、「江戸名所記」の挿絵にも高札場が出てくる。実景を見て描いたかどうかは不明だが、描かれている高札場は、柵の中に3本の高札を立てただけの簡素なもので、「江戸名所図屏風」や「江戸図屏風」の高札場の図柄とほぼ同じである。高札場は時代とともに進化し、18世紀中頃の「隅田川風物図巻」には屋根付きの高札場、19世紀前半の「江戸名所図会」には石垣の上に置かれた高札場、そして、明治3年の「東京日本橋風景」には、見上げるほど高い石垣の上に瓦屋根付きの堂々たる高札場が描かれている。明治6年になると、高札は時宜に合わないとして撤去され、現在は、日本橋の南側に高札場跡の記念碑が建つのみである。
日本橋の欄干の柱には擬宝珠が付けられていた。「江戸名所記」の挿絵は、橋の半分しか描かれていないにもかかわらず、6ケの擬宝珠が確認される。元和4年に架けられた橋を描いたと思われる、「江戸名所図屏風」と「江戸図屏風」では、擬宝珠の数にかなりの違いがある。他の絵をみても擬宝珠の数にはバラツキがあるが、時代によるのか、描き方によるのかは分からない。ところで、「江戸名所図会」に取り上げられている日本橋は、弘化3年(1846年)頃の架橋と思われるが、擬宝珠には万治元年の銘があったという。橋は架け替えても擬宝珠は使いまわしをしていたらしい。明治6年、日本橋が洋式の平らな橋に架け替えられた際、擬宝珠も不用品として廃棄されてしまったが、幸い、万治元年の銘の擬宝珠が一つだけ保管されていた。江戸東京博物館に展示されている日本橋に使用されている擬宝珠は、現存している万治元年銘の擬宝珠の複製という事である。
「江戸名所記」の挿絵には川岸で行われている魚の売り買いの様子も描かれている。魚市場は、慶長年間、本小田原町河岸に魚市場が開かれたことに始まり、江戸城下の発展とともに、日本橋周辺に魚河岸が拡大していったという。「江戸図屏風」を見ると、川岸は魚や米の陸揚げ場所として使われており、魚介を商う店は川からやや離れた場所に置かれていた。ところが、18世紀中頃の「隅田川風物図巻」では、川岸に近い場所に魚を商う店が並ぶようになる。19世紀の「江戸名所図会」は、川に近い魚市の活況ぶりを描き、船町、小田原町、安針町等の間がすべて鮮魚店となり、あちこちから、海魚、川魚の区別なく運び込まれ、日夜、市が立って大変賑わっていると書いている。魚市場は明治以降も存続していたが、関東大震災のあと芝浦に移り、さらに築地に移転している。今は、日本橋北詰に、日本橋魚市場発祥の碑と乙姫像が置かれるのみである。
日本橋は物流の経路の一つであり、「江戸名所図屏風」にも、駄馬や牛に荷を乗せて運んでいる様子が描かれている。18世紀中頃の「隅田川風物図巻」には、人が引く大八車が登場する。大八車は江戸時代を通じて活用されていたようで、19世紀初め頃の「熈代勝覧」や「江戸四時勝景図巻」にも、荷車を引く人・押す人が描かれている。明治になると、様々な乗り物が登場するようになり、明治3年の「東京日本橋之景」には、馬車や人力車、自転車が描かれる。明治6年、日本橋は洋式の平らな橋に架け替えられ、明治15年には鉄道馬車、明治36年になると路面電車が走るようになる。日本橋は、焼失及び半焼が10回ほど、老朽化などによる改修を含めると、改架修復は20回を越えている。そして明治44年(1911年)、日本橋は石橋に架け替えられる。それ以来、関東大震災を乗り越え、戦争も乗り越えて、現在に至る。昭和38年(1963年)、日本橋の上に高速道路が完成し、眺めの良さを誇った日本橋の景観も一変して、日本晴れの日も、高速道路の影の下になってしまったが、橋自体は今なお健在である。
2011年、石橋として開橋した日本橋は百周年を迎えることになったが、重要文化財である日本橋も汚れが目立ってきたため、洗浄再生が行われた。10月30日、三代三夫婦による渡り初めに続いてパレードが行われた。このパレードには、福島県から相馬野馬追も参加した。
江戸の中心であった日本橋付近を克明に描写した「熈代勝覧」という絵巻物が、ベルリンのアジア美術館に保存されている事が発見され、2003年に里帰りしたことがある。この絵巻物は江戸東京博物館で行われた、江戸開府四百年記念の大江戸八百八町展で公開されたが、この絵巻を複写したものが、地下鉄・三越前駅の地下コンコースで展示されている。文化2年(1805)頃の、日本橋と日本橋通りの様子が良く分かる絵巻である。
1.4 東叡山
「江戸名所記」には、東叡山(上野寛永寺)が慈眼大師(天海)の開基であること、江戸城の鬼門を守る鎮護国家の霊場であること、京都の比叡山に対して東国の比叡山であることから東叡山と称したという事が記されている。また、山の上からは江戸中が残らず眼下に見えると書いている。ところで、上野は忍岡という歌枕の地でもあったが、「江戸名所記」でも、その事を意識し、藤原俊成や俊恵法師の和歌を取り上げている。ただ、あまり自信はなかったらしい。
寛永寺は寛永2年(1625年)の本坊建立に始まる。しかし、寛永寺の伽藍がほぼ整うのは元禄時代になってからであり、「江戸名所記」が刊行された寛文2年(1662年)の頃は、本堂に相当する根本中堂もまだ建立されていなかった。「江戸名所記」の挿絵にも、屋根のある黒門と、仁王門のほか、輪蔵らしきものが描かれているだけである。以下、寛文11年に刊行された「新板江戸大絵図」をもとに、明暦大火(1657年)以前の寛永寺が描かれているとされる「江戸名所図屏風」や「江戸図屏風」、天和から元禄初年(1681~1688年)頃の寛永寺が描かれている「江戸絵図(屏風)」などを参考にして、当時の寛永寺の状況を見ていくことにする。
「新板江戸大絵図」によると、寛永寺の総門にあたる黒門①は、上野の山の南端、袴腰にあった。「江戸名所図屏風」や「江戸図屏風」では黒門は見当たらないが、「江戸絵図」や、天和貞享(1681-1687)頃の上野の図から、元禄より前に、屋根付きの黒門があったようである。仁王門②は、時の鐘近くの、道の交差する場所にあった。仁王門の先、西側の山上に露座の大仏③があり、「江戸図屏風」や「江戸絵図」にその姿が描かれている。また、仁王門の東、摺鉢山の上には清水観音堂④があり、「江戸絵図」や「江戸名所図屏風」にも描かれている。東照宮⑤について、「新板江戸大絵図」はその場所を示すにとどまっているが、一般の立入が禁止されていたためと思われる。「江戸図屏風」を見ると、仁王門の先に石灯籠があって、本坊への道と東照宮への道の分岐点になっていた。
東照宮への道をたどると、右手に儀礼用の鐘楼があり、その先、左手に二重塔、右手に別当寺らしき建物がある。さらに進むと正面に鳥居、右手に五重塔がある。左手の堂宇は薬師堂であろう。鳥居を潜ると、連子の透塀に向唐門がある。この透塀は東照宮の外側の玉垣に相当し、正面以外の玉垣は柵のような簡素な造りになっている。中に入ると、内側の瑞垣に相当する菱格子の透塀があり、平入りの門を入ると権現造りの社殿に出る。「江戸図屏風」では黒漆塗で金色輝く華麗な社殿を描いているが、「江戸名所図屏風」では、平唐門のある連子の透塀の瑞垣の内に、朱塗りの社殿を描いている。この違いについては、年代の差とする説と、描き方の差とする説がある。なお、「江戸名所図屏風」には外側の玉垣が描かれていないが、単に省略しただけであろう。「慈眼大師縁起絵巻」や、時代は下るが「東叡山絵図(水野家文書)」には外側の垣も書かれている。
石灯籠の場所から本坊への道をたどると、左手に輪蔵⑥がある。「江戸名所記」の挿絵にあるのは、この経蔵であろうか。右手には雲水塔⑦があり、近くに番神の社も見えている。先に進むと、常行堂と法華堂を渡り廊下で結んだ荷担堂⑧があり、その先には本坊⑨がある。
元禄11年(1698年)、寛永寺の荷担堂が南に移され、江戸最大の建造物であった根本中堂が造営される。仁王門は黒門の隣に移され、その跡に文殊楼が建立される。元禄時代、清水観音は現在地に移され、本覚院にあった山王社は清水観音の南側に移される。大仏は既に唐銅(青銅)製になっていたが、元禄期には大仏殿に安置される。享保17年(1732年)刊行の「江戸砂子」の図によると、黒門は簡素な冠木門に変わり、その横に仁王門が建っている。仁王門は後に南側に移され、その後焼失したまま再建される事はなく、天保の頃には跡だけになっていた。「江戸名所図会」の挿絵は、この頃の寛永寺を描いたものである。やがて幕末。彰義隊など旧幕府軍と新政府軍が戦った上野戦争の際に、寛永寺の多くの建造物が焼失している。
幕臣の山本政恒が、上野戦争で多くの堂宇が焼失する以前、上野で花見をした時の事を、後に思い出して書いた記録が残っている。その記録により、当時の寛永寺をたどってみる。
“上野の山には、紺の股引に山の字の半纏を着て赤い房の十手を腰に差した山同心が居て、喧嘩などあれば直ぐに取り締まった。山同心は役得として、薄縁を貸し、茶や菓子などを売っていた。花見客は薄縁を借り、飲んだり食べたりして楽しんだ。取り締まる人が居たので、悪い奴も少なく、女子供の行楽地としては最適な場所であった。上野には黒門の他にも門があったが、どれも番人が居たので、花を折って持ち出すような悪戯は起きなかった。ただ、三味線を弾くことは許されなかったので、時には飛鳥山へ花見に行くこともあった。八重桜が過ぎると、桃の花が盛りとなり、実に見事だった。南側の広小路からは、松の間に桜花の紅白が見えた。正面の黒門は、将軍家の御成門と一般の門とが並んでいた。左右の土手を袴腰と言った。黒門を入って右手の坂を上がると、朱塗に金箔、彫刻を施した山王の社があり、山上からは下谷、浅草、本所などが見晴らせた。山続きには清水観音堂があり、その周りには彼岸桜が多かった。左の方の道を行くと、樹木の間から不忍池、弁天堂や生池院、蓮飯茶屋が見え、その周りにも桜が多かった。その先の正面に、山門とも呼ばれた文殊楼があった。文殊楼は朱塗りで吉祥閣という勅額が掛っていた。その左に、時の鐘の鐘楼があり、右手には摺鉢山と寺院があった。少し進むと左に、朱塗りの大仏殿があり唐金の仏像を安置していた。その続きは東照宮で、入口は小砂利を敷き詰めた黒塗りの柵があって、将軍や諸侯以外の立ち入りは許されなかった。その続きに鐘楼があり、欄間の隅々には左甚五郎作の龍の彫刻が施されていて、夜毎に不忍池の水を飲むため、眼中に釘を打ったという伝説があった。この鐘は将軍家の法事か大法会の時に突いたが、今は台石のみが残っている。さらに行くと、法華堂と常行堂に橋を掛けた二つ堂が正面にあり、橋の下を通るようになっていた。そこより一丁ほど行くと三十間四方の中堂があり、勅額門や回廊があった。門と堂の間は敷石と小砂利が敷き詰められていて、金色の燈籠が数本あった。中堂には薬師如来が安置され、瑠璃殿という額があった。堂の右には三重塔、左に経蔵があった。平常、庶民の参詣を許していたので、老婆や子供が回廊から本堂へとめぐり歩く遊び場所としていた。中堂のうしろ、道を隔てて寛永寺門主の御門があった。今の博物館の門がそれである。上野の山は朱色の御堂や御宮が所々にあり、松や桜もあって、風致に富む場所であったが、慶応4年の彰義隊の戦争で悉く焼失し、今は見る影も無くなってしまった。”
江戸時代の寛永寺の様子を思い浮かべながら、現在の上野公園を歩いてみた。公園南側の袴腰広場から右手の石段を上がると西郷銅像のある山王台に出るが、江戸時代には無い道なので、今回は左手の桜通りを進む。黒門は、袴腰広場から桜通りに入る場所にあったが、明治になって大仏近くに移され、後に南千住の円通寺に移設されている。計画では、そのうち、黒門跡地にモニュメントが立つらしい。江戸時代、黒門を入ってすぐ右に山王台に上がる坂があったが、その名の由来となった山王社は、明治時代に焼失したか取り壊されたかして現存していない。山王台の付近は桜が多く江戸時代には桜ケ峰とも呼ばれていたが、今後は、花見の名所、桜ケ丘の名で親しまれる事になるのだろう。
桜通りをさらに進むと右手の山の上に清水観音堂があり、元禄時代に移設された当時の姿を今にとどめている。桜通りを先に進むと、左に花園稲荷の道と精養軒への道、右に摺鉢山への道がある。寛文の頃には仁王門、元禄以降には文殊楼が、この場所に建っていたが、今は跡かたもない。精養軒への道に入ると、時の鐘の鐘楼が見えてくる。寛文6年の鋳造なので、「江戸名所記」の刊行時には、鐘は存在していなかったことになる。
時の鐘の前からパゴダのある山に上がる。山上にあった大仏殿は明治時代に取り壊され、関東大震災で大仏の頭が落ち、大仏の胴体は戦時中に供出されたが、お顔の部分だけは残って、パゴダの横に今もある。なお、パゴダに安置されているのは、東照宮の薬師堂にあった薬師如来という。
パゴダから桜通りを先に進んで、角を左に入ると、巨大な燈籠、通称お化け燈籠が立っている。「江戸図屏風」に描かれている、本坊と東照宮の道の分岐点にある燈籠は、この石燈籠と思われる。桜通りを先に行き、次の角を左に入ると、東照宮の大石鳥居がある。この鳥居、寛永時代に建てられたあと一旦埋められたが、享保年間に掘り起こされ現在地に建てられたという。
鳥居をくぐり、水舎門を入ると、左手にぼたん園がある。その先、右手に五重塔が見えてくるが、今は動物園の敷地内になっている。江戸時代、左側には薬師堂があった筈だが現存していない。さきに進むと黒い柵がある。東照宮の外側の玉垣はこの位置にあり、勅額門が建っていたが、慶応3年(1867)の火災により焼失している。幸い、勅額は運び出され、今は社殿内に掲げられている。現在、社殿は修復工事中で、社殿の写真を印刷した幕が掛かっている。工事は来年いっぱいかかるという。上野の東照宮は寛永4年(1627)に建てられた東照社に始まり、慶安4年(1651)には造営替えされ、明治期に修復されたあと、現在に至っている。
「江戸図屏風」や「江戸名所図屏風」に描かれている門は、現在の唐門の屋根と90度向きが異なる平入りの門であり、現在の門とは別物かも知れない。唐門にある龍の彫刻については、左甚五郎作と伝えられ、また、この龍が不忍池の水を飲みに行くという伝説があるが、儀式用鐘楼の龍の彫刻と取り違えた話であろう。一般の人が上野の東照宮を拝観出来たのは明治以降のことであり、すでに焼失していた儀式用鐘楼の龍についての伝説が誤り伝えられたと思われる。
桜通りに戻って先に行く。左側に小松宮像があるが、江戸時代には儀式用鐘楼があった場所である。その先の広場には、荷担堂や輪蔵、雲水塔、番神社などがあったが、上野戦争で焼失し今は跡形もない。上野公園の大噴水付近は最近改修され、南側の広場は広くなったが、北側の噴水の池は縮小されている。江戸時代、ここには江戸最大の建造物、寛永寺の根本中堂があったが、上野戦争で焼失し今は広場の西側に案内板を残すのみである。
寛永寺本坊は現在の国立博物館の場所にあったが上野戦争で焼失し、表門だけが焼失を免れて、国立博物館の表門として使われた。その後、開山堂(両大師)の隣に移設。現在は修復工事中である。国立博物館の庭園は、本坊の庭園の面影を残しているということである。
現在の寛永寺根本中堂は、川越喜多院の本地堂を移築したものだが、上野戦争の際に根本中堂から運び出された薬師如来を本尊として安置しているという。現・根本中堂に掲げられている「瑠璃殿」の額は本物の勅額と思われる。元禄時代、寛永寺の根本中堂に掲げるため、京都から「瑠璃殿」の勅額を江戸に運び込んだが、その日に大火が発生し、寛永寺も罹災した。この大火で根本中堂も焼失したという説があるが、江戸時代の文献では、本坊や霊廟は焼失したものの、根本中堂は防ぎ止めたとしている。幕府は勅額の複製を造り、根本中堂には複製を掲げ、本物は土蔵に格納した。上野戦争の時、複製の勅額は根本中堂とともに焼失したと思われるが、本物の勅額は残ったのではなかろうか。
「江戸名所記」は、江戸の中心であり、街道の起点でもある日本橋を、江戸城の次に取り上げている。日本橋の最初の架橋は慶長8年(1603)という。その後、元和4年(1618)に再架橋が行われているが、「慶長見聞集」は、川の両方から石垣を突き出して橋を架けたとし、橋の長さは37間4尺5寸(69m)、広さは4間2尺5寸(8m)としている。「江戸名所図屏風」や「江戸図屏風」に描かれた日本橋は、この時の橋と思われる。この橋は明暦大火で焼失し、万治元年(1658)に架け替えられているが、この橋が「江戸名所記」に書かれている橋である。「江戸名所記」では、橋の長さを百余間と書いているが、実際の長さは三十間ほどであったろう。橋の上からの眺めは優れていて、「江戸名所記」は、その眺めを、北は浅草、東叡山(上野寛永寺)、南は富士、西は御城、東は海面近く行き交う舟も見えると書いている。特に富士と江戸城の眺めはよく知られていたようで、日本橋を描いた多くの絵画が画面の中に富士と城を取り入れている。
「江戸名所記」の挿絵には、橋の上を行く武士とお供が描かれている。橋の上から景色を眺めている人も居れば、重そうな荷物を運んでいる人も居る。橋の下には魚や米俵を積んだ舟が見え、それに交じって、遊興の舟も描かれている。「江戸名所図屏風」や「江戸図屏風」の描く日本橋には、多種多様な人物が登場する。武士も居れば、町人も居る。馬に乗る人、駕籠の人。物見遊山の人、商人、力仕事の人、荷揚げの人、飛脚、寄付を集める勧進の僧、歌念仏の比丘尼、大道芸もあれば八卦見の姿も見える。老若男女。実にさまざまな人が、ここに集まっている。日本橋付近の混雑ぶりを、「江戸名所記」は次のように書いている。
“橋の下には魚舟などが数百艘も集まって、日ごとに市が立っている。橋の上は、貴賎上下、上る人・下る人、行く人・帰る人、馬や駕籠や人が、蟻の熊野参りのように、ひっきりなしに通る。朝から夕方まで橋の両側は一面にふさがり、押し合い揉み合い急きあって、立ち止まる事も出来ない。うかうかしていると、踏み倒され蹴倒され、或いは、帯を切られ刀脇差を失い、また、巾着を切られ、手に持つ物をもぎ取られ、その事を言おうとしても、人込みの中に紛れて跡を見失ってしまう。すべて西国から東国の末まで、諸国の人の往来する日本橋であれば、込み合うのも当然である。橋の下からは市の声、橋の上からは人の声、話の中身も聞き取れず、ただ、がやがやと、聞こえるばかりである。”
日本橋の南側には高札場があり、「江戸名所記」の挿絵にも高札場が出てくる。実景を見て描いたかどうかは不明だが、描かれている高札場は、柵の中に3本の高札を立てただけの簡素なもので、「江戸名所図屏風」や「江戸図屏風」の高札場の図柄とほぼ同じである。高札場は時代とともに進化し、18世紀中頃の「隅田川風物図巻」には屋根付きの高札場、19世紀前半の「江戸名所図会」には石垣の上に置かれた高札場、そして、明治3年の「東京日本橋風景」には、見上げるほど高い石垣の上に瓦屋根付きの堂々たる高札場が描かれている。明治6年になると、高札は時宜に合わないとして撤去され、現在は、日本橋の南側に高札場跡の記念碑が建つのみである。
日本橋の欄干の柱には擬宝珠が付けられていた。「江戸名所記」の挿絵は、橋の半分しか描かれていないにもかかわらず、6ケの擬宝珠が確認される。元和4年に架けられた橋を描いたと思われる、「江戸名所図屏風」と「江戸図屏風」では、擬宝珠の数にかなりの違いがある。他の絵をみても擬宝珠の数にはバラツキがあるが、時代によるのか、描き方によるのかは分からない。ところで、「江戸名所図会」に取り上げられている日本橋は、弘化3年(1846年)頃の架橋と思われるが、擬宝珠には万治元年の銘があったという。橋は架け替えても擬宝珠は使いまわしをしていたらしい。明治6年、日本橋が洋式の平らな橋に架け替えられた際、擬宝珠も不用品として廃棄されてしまったが、幸い、万治元年の銘の擬宝珠が一つだけ保管されていた。江戸東京博物館に展示されている日本橋に使用されている擬宝珠は、現存している万治元年銘の擬宝珠の複製という事である。
「江戸名所記」の挿絵には川岸で行われている魚の売り買いの様子も描かれている。魚市場は、慶長年間、本小田原町河岸に魚市場が開かれたことに始まり、江戸城下の発展とともに、日本橋周辺に魚河岸が拡大していったという。「江戸図屏風」を見ると、川岸は魚や米の陸揚げ場所として使われており、魚介を商う店は川からやや離れた場所に置かれていた。ところが、18世紀中頃の「隅田川風物図巻」では、川岸に近い場所に魚を商う店が並ぶようになる。19世紀の「江戸名所図会」は、川に近い魚市の活況ぶりを描き、船町、小田原町、安針町等の間がすべて鮮魚店となり、あちこちから、海魚、川魚の区別なく運び込まれ、日夜、市が立って大変賑わっていると書いている。魚市場は明治以降も存続していたが、関東大震災のあと芝浦に移り、さらに築地に移転している。今は、日本橋北詰に、日本橋魚市場発祥の碑と乙姫像が置かれるのみである。
日本橋は物流の経路の一つであり、「江戸名所図屏風」にも、駄馬や牛に荷を乗せて運んでいる様子が描かれている。18世紀中頃の「隅田川風物図巻」には、人が引く大八車が登場する。大八車は江戸時代を通じて活用されていたようで、19世紀初め頃の「熈代勝覧」や「江戸四時勝景図巻」にも、荷車を引く人・押す人が描かれている。明治になると、様々な乗り物が登場するようになり、明治3年の「東京日本橋之景」には、馬車や人力車、自転車が描かれる。明治6年、日本橋は洋式の平らな橋に架け替えられ、明治15年には鉄道馬車、明治36年になると路面電車が走るようになる。日本橋は、焼失及び半焼が10回ほど、老朽化などによる改修を含めると、改架修復は20回を越えている。そして明治44年(1911年)、日本橋は石橋に架け替えられる。それ以来、関東大震災を乗り越え、戦争も乗り越えて、現在に至る。昭和38年(1963年)、日本橋の上に高速道路が完成し、眺めの良さを誇った日本橋の景観も一変して、日本晴れの日も、高速道路の影の下になってしまったが、橋自体は今なお健在である。
2011年、石橋として開橋した日本橋は百周年を迎えることになったが、重要文化財である日本橋も汚れが目立ってきたため、洗浄再生が行われた。10月30日、三代三夫婦による渡り初めに続いてパレードが行われた。このパレードには、福島県から相馬野馬追も参加した。
江戸の中心であった日本橋付近を克明に描写した「熈代勝覧」という絵巻物が、ベルリンのアジア美術館に保存されている事が発見され、2003年に里帰りしたことがある。この絵巻物は江戸東京博物館で行われた、江戸開府四百年記念の大江戸八百八町展で公開されたが、この絵巻を複写したものが、地下鉄・三越前駅の地下コンコースで展示されている。文化2年(1805)頃の、日本橋と日本橋通りの様子が良く分かる絵巻である。
1.4 東叡山
「江戸名所記」には、東叡山(上野寛永寺)が慈眼大師(天海)の開基であること、江戸城の鬼門を守る鎮護国家の霊場であること、京都の比叡山に対して東国の比叡山であることから東叡山と称したという事が記されている。また、山の上からは江戸中が残らず眼下に見えると書いている。ところで、上野は忍岡という歌枕の地でもあったが、「江戸名所記」でも、その事を意識し、藤原俊成や俊恵法師の和歌を取り上げている。ただ、あまり自信はなかったらしい。
寛永寺は寛永2年(1625年)の本坊建立に始まる。しかし、寛永寺の伽藍がほぼ整うのは元禄時代になってからであり、「江戸名所記」が刊行された寛文2年(1662年)の頃は、本堂に相当する根本中堂もまだ建立されていなかった。「江戸名所記」の挿絵にも、屋根のある黒門と、仁王門のほか、輪蔵らしきものが描かれているだけである。以下、寛文11年に刊行された「新板江戸大絵図」をもとに、明暦大火(1657年)以前の寛永寺が描かれているとされる「江戸名所図屏風」や「江戸図屏風」、天和から元禄初年(1681~1688年)頃の寛永寺が描かれている「江戸絵図(屏風)」などを参考にして、当時の寛永寺の状況を見ていくことにする。
「新板江戸大絵図」によると、寛永寺の総門にあたる黒門①は、上野の山の南端、袴腰にあった。「江戸名所図屏風」や「江戸図屏風」では黒門は見当たらないが、「江戸絵図」や、天和貞享(1681-1687)頃の上野の図から、元禄より前に、屋根付きの黒門があったようである。仁王門②は、時の鐘近くの、道の交差する場所にあった。仁王門の先、西側の山上に露座の大仏③があり、「江戸図屏風」や「江戸絵図」にその姿が描かれている。また、仁王門の東、摺鉢山の上には清水観音堂④があり、「江戸絵図」や「江戸名所図屏風」にも描かれている。東照宮⑤について、「新板江戸大絵図」はその場所を示すにとどまっているが、一般の立入が禁止されていたためと思われる。「江戸図屏風」を見ると、仁王門の先に石灯籠があって、本坊への道と東照宮への道の分岐点になっていた。
東照宮への道をたどると、右手に儀礼用の鐘楼があり、その先、左手に二重塔、右手に別当寺らしき建物がある。さらに進むと正面に鳥居、右手に五重塔がある。左手の堂宇は薬師堂であろう。鳥居を潜ると、連子の透塀に向唐門がある。この透塀は東照宮の外側の玉垣に相当し、正面以外の玉垣は柵のような簡素な造りになっている。中に入ると、内側の瑞垣に相当する菱格子の透塀があり、平入りの門を入ると権現造りの社殿に出る。「江戸図屏風」では黒漆塗で金色輝く華麗な社殿を描いているが、「江戸名所図屏風」では、平唐門のある連子の透塀の瑞垣の内に、朱塗りの社殿を描いている。この違いについては、年代の差とする説と、描き方の差とする説がある。なお、「江戸名所図屏風」には外側の玉垣が描かれていないが、単に省略しただけであろう。「慈眼大師縁起絵巻」や、時代は下るが「東叡山絵図(水野家文書)」には外側の垣も書かれている。
石灯籠の場所から本坊への道をたどると、左手に輪蔵⑥がある。「江戸名所記」の挿絵にあるのは、この経蔵であろうか。右手には雲水塔⑦があり、近くに番神の社も見えている。先に進むと、常行堂と法華堂を渡り廊下で結んだ荷担堂⑧があり、その先には本坊⑨がある。
元禄11年(1698年)、寛永寺の荷担堂が南に移され、江戸最大の建造物であった根本中堂が造営される。仁王門は黒門の隣に移され、その跡に文殊楼が建立される。元禄時代、清水観音は現在地に移され、本覚院にあった山王社は清水観音の南側に移される。大仏は既に唐銅(青銅)製になっていたが、元禄期には大仏殿に安置される。享保17年(1732年)刊行の「江戸砂子」の図によると、黒門は簡素な冠木門に変わり、その横に仁王門が建っている。仁王門は後に南側に移され、その後焼失したまま再建される事はなく、天保の頃には跡だけになっていた。「江戸名所図会」の挿絵は、この頃の寛永寺を描いたものである。やがて幕末。彰義隊など旧幕府軍と新政府軍が戦った上野戦争の際に、寛永寺の多くの建造物が焼失している。
幕臣の山本政恒が、上野戦争で多くの堂宇が焼失する以前、上野で花見をした時の事を、後に思い出して書いた記録が残っている。その記録により、当時の寛永寺をたどってみる。
“上野の山には、紺の股引に山の字の半纏を着て赤い房の十手を腰に差した山同心が居て、喧嘩などあれば直ぐに取り締まった。山同心は役得として、薄縁を貸し、茶や菓子などを売っていた。花見客は薄縁を借り、飲んだり食べたりして楽しんだ。取り締まる人が居たので、悪い奴も少なく、女子供の行楽地としては最適な場所であった。上野には黒門の他にも門があったが、どれも番人が居たので、花を折って持ち出すような悪戯は起きなかった。ただ、三味線を弾くことは許されなかったので、時には飛鳥山へ花見に行くこともあった。八重桜が過ぎると、桃の花が盛りとなり、実に見事だった。南側の広小路からは、松の間に桜花の紅白が見えた。正面の黒門は、将軍家の御成門と一般の門とが並んでいた。左右の土手を袴腰と言った。黒門を入って右手の坂を上がると、朱塗に金箔、彫刻を施した山王の社があり、山上からは下谷、浅草、本所などが見晴らせた。山続きには清水観音堂があり、その周りには彼岸桜が多かった。左の方の道を行くと、樹木の間から不忍池、弁天堂や生池院、蓮飯茶屋が見え、その周りにも桜が多かった。その先の正面に、山門とも呼ばれた文殊楼があった。文殊楼は朱塗りで吉祥閣という勅額が掛っていた。その左に、時の鐘の鐘楼があり、右手には摺鉢山と寺院があった。少し進むと左に、朱塗りの大仏殿があり唐金の仏像を安置していた。その続きは東照宮で、入口は小砂利を敷き詰めた黒塗りの柵があって、将軍や諸侯以外の立ち入りは許されなかった。その続きに鐘楼があり、欄間の隅々には左甚五郎作の龍の彫刻が施されていて、夜毎に不忍池の水を飲むため、眼中に釘を打ったという伝説があった。この鐘は将軍家の法事か大法会の時に突いたが、今は台石のみが残っている。さらに行くと、法華堂と常行堂に橋を掛けた二つ堂が正面にあり、橋の下を通るようになっていた。そこより一丁ほど行くと三十間四方の中堂があり、勅額門や回廊があった。門と堂の間は敷石と小砂利が敷き詰められていて、金色の燈籠が数本あった。中堂には薬師如来が安置され、瑠璃殿という額があった。堂の右には三重塔、左に経蔵があった。平常、庶民の参詣を許していたので、老婆や子供が回廊から本堂へとめぐり歩く遊び場所としていた。中堂のうしろ、道を隔てて寛永寺門主の御門があった。今の博物館の門がそれである。上野の山は朱色の御堂や御宮が所々にあり、松や桜もあって、風致に富む場所であったが、慶応4年の彰義隊の戦争で悉く焼失し、今は見る影も無くなってしまった。”
江戸時代の寛永寺の様子を思い浮かべながら、現在の上野公園を歩いてみた。公園南側の袴腰広場から右手の石段を上がると西郷銅像のある山王台に出るが、江戸時代には無い道なので、今回は左手の桜通りを進む。黒門は、袴腰広場から桜通りに入る場所にあったが、明治になって大仏近くに移され、後に南千住の円通寺に移設されている。計画では、そのうち、黒門跡地にモニュメントが立つらしい。江戸時代、黒門を入ってすぐ右に山王台に上がる坂があったが、その名の由来となった山王社は、明治時代に焼失したか取り壊されたかして現存していない。山王台の付近は桜が多く江戸時代には桜ケ峰とも呼ばれていたが、今後は、花見の名所、桜ケ丘の名で親しまれる事になるのだろう。
桜通りをさらに進むと右手の山の上に清水観音堂があり、元禄時代に移設された当時の姿を今にとどめている。桜通りを先に進むと、左に花園稲荷の道と精養軒への道、右に摺鉢山への道がある。寛文の頃には仁王門、元禄以降には文殊楼が、この場所に建っていたが、今は跡かたもない。精養軒への道に入ると、時の鐘の鐘楼が見えてくる。寛文6年の鋳造なので、「江戸名所記」の刊行時には、鐘は存在していなかったことになる。
時の鐘の前からパゴダのある山に上がる。山上にあった大仏殿は明治時代に取り壊され、関東大震災で大仏の頭が落ち、大仏の胴体は戦時中に供出されたが、お顔の部分だけは残って、パゴダの横に今もある。なお、パゴダに安置されているのは、東照宮の薬師堂にあった薬師如来という。
パゴダから桜通りを先に進んで、角を左に入ると、巨大な燈籠、通称お化け燈籠が立っている。「江戸図屏風」に描かれている、本坊と東照宮の道の分岐点にある燈籠は、この石燈籠と思われる。桜通りを先に行き、次の角を左に入ると、東照宮の大石鳥居がある。この鳥居、寛永時代に建てられたあと一旦埋められたが、享保年間に掘り起こされ現在地に建てられたという。
鳥居をくぐり、水舎門を入ると、左手にぼたん園がある。その先、右手に五重塔が見えてくるが、今は動物園の敷地内になっている。江戸時代、左側には薬師堂があった筈だが現存していない。さきに進むと黒い柵がある。東照宮の外側の玉垣はこの位置にあり、勅額門が建っていたが、慶応3年(1867)の火災により焼失している。幸い、勅額は運び出され、今は社殿内に掲げられている。現在、社殿は修復工事中で、社殿の写真を印刷した幕が掛かっている。工事は来年いっぱいかかるという。上野の東照宮は寛永4年(1627)に建てられた東照社に始まり、慶安4年(1651)には造営替えされ、明治期に修復されたあと、現在に至っている。
「江戸図屏風」や「江戸名所図屏風」に描かれている門は、現在の唐門の屋根と90度向きが異なる平入りの門であり、現在の門とは別物かも知れない。唐門にある龍の彫刻については、左甚五郎作と伝えられ、また、この龍が不忍池の水を飲みに行くという伝説があるが、儀式用鐘楼の龍の彫刻と取り違えた話であろう。一般の人が上野の東照宮を拝観出来たのは明治以降のことであり、すでに焼失していた儀式用鐘楼の龍についての伝説が誤り伝えられたと思われる。
桜通りに戻って先に行く。左側に小松宮像があるが、江戸時代には儀式用鐘楼があった場所である。その先の広場には、荷担堂や輪蔵、雲水塔、番神社などがあったが、上野戦争で焼失し今は跡形もない。上野公園の大噴水付近は最近改修され、南側の広場は広くなったが、北側の噴水の池は縮小されている。江戸時代、ここには江戸最大の建造物、寛永寺の根本中堂があったが、上野戦争で焼失し今は広場の西側に案内板を残すのみである。
寛永寺本坊は現在の国立博物館の場所にあったが上野戦争で焼失し、表門だけが焼失を免れて、国立博物館の表門として使われた。その後、開山堂(両大師)の隣に移設。現在は修復工事中である。国立博物館の庭園は、本坊の庭園の面影を残しているということである。
現在の寛永寺根本中堂は、川越喜多院の本地堂を移築したものだが、上野戦争の際に根本中堂から運び出された薬師如来を本尊として安置しているという。現・根本中堂に掲げられている「瑠璃殿」の額は本物の勅額と思われる。元禄時代、寛永寺の根本中堂に掲げるため、京都から「瑠璃殿」の勅額を江戸に運び込んだが、その日に大火が発生し、寛永寺も罹災した。この大火で根本中堂も焼失したという説があるが、江戸時代の文献では、本坊や霊廟は焼失したものの、根本中堂は防ぎ止めたとしている。幕府は勅額の複製を造り、根本中堂には複製を掲げ、本物は土蔵に格納した。上野戦争の時、複製の勅額は根本中堂とともに焼失したと思われるが、本物の勅額は残ったのではなかろうか。