夢七雑録

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江戸名所記見て歩き(8)

2012-11-17 10:51:30 | 江戸名所記
<巻6>

6.1 目黒不動

 「江戸名所記」は次のように記している。目黒というのは地名であって、本尊の名称ではない。昔、慈覚大師が比叡山に向かう途中、目黒で一泊した折、不動明王の夢を見て霊木にその像を刻み、この地に安置した。その後、慈覚大師が唐から帰朝して関東に下った時、この地において独鈷で地を掘ると滝水が湧き出した(独鈷の滝)。この滝水は炎天にも涸れることが無かった。元和元年(1615)、御堂が火災にあった時、不動明王は滝水の上に移って無事であった。これを見た人々は本堂を建て不動明王像を安置した。寛永元年(1624)、将軍家光が鷹狩に来た時、鷹が遠くに飛んでいってしまった事があった。別当に祈念させたところ、鷹が戻ってきて松の梢にとまった。そこで、呼んでみたところ手に移った。家光は感心し、その後、本堂などの伽藍を再興した。本堂は山の中腹にあり石段で上がる。鷹がとまった勾松(鷹居松)は左手にある。滝水は絶えることなく流れ続け、人々は滝にうたれて諸病を癒している。仁王門は前の方にあり、門前は大道で茶屋がある。

 「江戸図屏風」には、目黒追鳥狩の図や目黒御弁当之寺とともに目黒ノ不動も描かれている。家光は鷹狩などの際に目黒不動にも立ち寄っていたのだろう。独鈷の滝は今も絶えることなく流れているが、鷹居松はすでに枯れて跡だけになっている。目黒不動の本堂と仁王門は戦後の再建で、「江戸名所図会」の挿絵に描かれている建物のうち、現在も残っているのは 前不動堂と勢至堂ぐらいだという。現在地は目黒区下目黒3。最寄駅は不動前だが、目黒駅から行人坂を下って歩いて行っても良い。


6.2 入間郡赤坂 氷川大明神

 入間郡赤坂氷川大明神は、今の赤坂氷川神社にあたる。氷川大明神は、最初、一つ木村にあった。一ツ木村は、赤坂見附近くにあった地名で、一ツ木通りにその名を残している(港区赤坂3)。「江戸名所記」は、一ツ木村にあった頃の氷川大明神を取り上げ、次のように記している。天暦年中(947-)に蓮林僧正が東国で修行していた時、夢のお告げにより十一面観音を掘り出すという事があった。僧正が社を建ててこの像を安置したところ、一ツ木村の観音と名付けられて人々が参詣するようになった。治歴2年(1066)、関八州が日照り続きの時、この社に祈ったところ雨が降ったので、氷川明神と名付けた。

 「江戸名所図会」は、氷川明神について、享保15年(1730)に一ツ木から現在地(南部坂の近く。港区赤坂6)に遷座したとする。一方、元の社が古呂故宮であったとする説に対しては、寛文江戸図に、現在地の氷川明神とは別に、一ツ木に古呂故宮が記されている事から別の神社とし、古呂故宮の由緒については諸説紛々として良く分からないとしている。「元禄江戸図」によると、古呂故宮は氷川明神とも呼ばれていたらしく、さらに、天保14年の「御江戸大絵図」によると、氷川明神が現在地に遷座した後も、一ツ木には氷川明神が残っていたようである。現在の赤坂氷川神社の社殿は遷座当時のものであり、境内は今も昔の面影を残している。最寄駅は六本木一丁目駅。六本木駅からも遠くない。


6.3 永田馬場 山王権現

 永田馬場・山王権現とは、今の日枝神社のことである。「江戸名所記」によると、慈覚大師が武蔵の川越に星野山(無量寿寺)を開いた時に、比叡山の山王権現から、上の7社のうち二宮権現、中の7社のうち気比宮、下の7社のうち王子宮を選び、三所の神として勧請したことに始まり、文明年中(1469-)、太田道灌が川越から江戸城内に移して産土神としたという。さらに、延徳年中(1489-)に江戸城の西に移したとする。なお、年代は不明ながら、梅林坂辺りから紅葉山に移したという説もある。山王権現は、慶長の頃に麹町御門(半蔵門)外の貝塚の地に遷座したとされ、寛永年間の「武州豊島郡江戸庄図」にも、江戸城西側の堀端(千代田区隼町)に山王の社が記載されている。貝塚にあった時の山王権現は、「江戸図屏風」や「江戸京都絵図屏風」にも描かれているが、堀端の道に面して鳥居があり、楼門を潜った先で右に折れ、石段を上がった場所に社殿があった。「江戸天下祭図屏風」は、山王権現が貝塚にあった頃の祭礼の行列が描かれているとされるが、当時の祭礼の行列が、山王権現を出て麹町御門から江戸城内に入り、紀伊徳川家の屋敷を経て、天主を背に竹橋門を出て常盤橋門に至る経路を通っていたことが分かる。山王権現は、明暦3年の大火のあと、現在地(千代田区永田町2)に移っており、寛文6年の「新板武州江戸之図」では、ため池の横に山王が記されている。

 「江戸名所図会」は、江戸随一の大社として山王権現を取り上げている。当時の社号は日吉山王神社であったが、後に日枝神社となる。江戸時代の社殿は戦災にあって焼失し、現在の社殿は、その後の再建である。神社の表参道は東側にあるが、今は、江戸時代には溜池だった外堀通り側から入るのが一般的である。日枝神社の最寄駅は溜池山王駅。外堀通り側はエスカレータが利用できるので、参詣するのも楽になった。


6.4 牛込 右衛門桜

 「正保国絵図(武蔵国)」で、牛込橋から西へ西へと行くと、江戸の郊外である柏木村(新宿区北新宿の辺り)に出るが、ここに右衛門桜が描かれているので、この桜が当時から有名であったことが分かる。この桜は円照寺にあり、一重の桜に八重が混じって咲き、芳香が特にすぐれていたことで知られた名木であった。右衛門というのは人物名ではあるが、本来は、平安時代の役所の一つで、門の出入りを管理する右衛門府のことをさしていた。「江戸名所記」は、右衛門桜について、「源氏物語」の登場人物である、柏木・右衛門督(右衛門督は右衛門府の長官に相当する官職名)が、女三宮との許されざる恋の結果として武蔵国に流された時に、この桜を植えたと記している。もちろん、この話は事実ではないのだが、江戸時代の初期には、謡曲や芝居などで演じられた物語の内容が、事実として受け止められる土壌があったのだろう。

 右衛門桜の名は、右衛門佐頼季(右衛門佐は右衛門府の次官に相当する官職名)が植えた事に由来するという説がある。作者不詳の「武蔵国柏木右衛門桜物語」という仮名草子には、柏木右衛門佐頼季が、平忠常の乱の平定に功があり、柏木と角筈の地を賜って館を建て、桜を植えておいたので右衛門桜の名が出たという事が書かれているが、この仮名草子の内容自体は単なる作り話に過ぎない。「新編武蔵風土記稿」は、この話は後世に作られたもので、証拠にはならないとする。「江戸名所花暦」や「続江戸砂子」には、この桜が衰えていたのを惜しんだ武田右衛門が、接ぎ木をして復活させたことから、右衛門桜の名が出たとし、場所が柏木村であったので、「源氏物語」の柏木右衛門(柏木右衛門督)に因んで名高い桜になったという説が記されている。「遊歴雑記」は、古木が朽ちて枯れたあと若木が芽生えたと記し、「嘉稜紀行」は、接ぎ木の痕が見えないことから、接ぎ木のあと既に何代目かの桜になっていると記している。この桜は長く植え継がれてきたものの、すでに枯れて今は石碑を残すのみとなり、現在、別の桜が記念に植えられている。円照寺(新宿区北新宿3)へは、東中野下車、新開橋で神田川を渡って直ぐである。


6.5 牛込村 堀兼井

 牛込橋から堀に沿って進むと船河原町に出る。右手には逢坂があるが、その坂下にあったのが堀兼井である。「江戸名所記」は、牛込村の堀兼井を武蔵の名所とし、むかし、継母の告げ口により、父がわが子に井戸を掘らせたものの、幼かったので掘ることができぬまま死んでしまったため、この井戸を堀兼井と名付けたと記している。

 宝永5年(1708)、堀兼村の浅間宮(現・堀兼神社。狭山市堀兼)の傍らの窪地に、川越藩士によって石の井桁が置かれ、堀兼井の石碑が立てられる。しかし、碑文に、俗耳に従ってとあるように、自信はなかったようである。「江戸名所図会」は、この堀兼井(跡)を取り上げ、浅間堀兼と号していると記すとともに、6町ほど南にも堀兼井と称する窪地があり、北入間村(狭山市)にも七曲井と号する堀兼井があって使用されないまま雑樹が繁茂していたと記している。同書は、堀兼井と称する井戸がほかにもあることから、堀兼井は一か所に限るべきではないと書いている。堀兼井とは、掘ることが難しい井戸のことを言うようだが、武蔵野の台地では、地下水面が深く垂直に掘ることが難しいため漏斗状に掘った井戸があり、このような井戸を堀兼井と呼んでいたらしい。鎌倉街道上道沿いの七曲井は、そうした堀兼井の一つとされ、漏斗状の井戸の形が復元されている。浅間堀兼は、古代官道の東山道武蔵路のルート上に位置していると思われるので、「延喜式」に従って旅人のために掘られた古代の堀兼井があったとしても、おかしくはないが、確証はない。

 浅間堀兼が世に知られるようになったのは、石碑が建てられてからのようだが、牛込の堀兼井については、「紫の一本」や「江戸惣鹿子名所大全」にも記載があり、江戸では少しは知られていたと思われる。ただ、話の内容や井戸の形からすると、歌に詠まれた堀兼井とは別の井戸と考えた方が良さそうである。なお、逢坂の上の屋敷や赤坂御門内の屋敷にも堀兼井と称する井戸があったというが、名の由来は分かっていない。牛込の堀兼井は明治以降も利用されていたが、今は跡形もなく、逢坂の下の築土神社(新宿区市谷船河原町)の前の説明板に、その由来が書かれているだけである。最寄は飯田橋駅。


6.6 牛込 穴八幡宮

 「正保国絵図(武蔵国)」で、牛込橋から柏木村に行く途中に、穴八幡が記載されている。「江戸名所記」による穴八幡宮の由来は次のようになっている。武蔵国豊島郡牛込郷の戸塚村に、阿弥陀堂山という由緒ありげな山があり、木々は伐採されて松が二本だけ残っていた。寛永13年(1636)、弓大将松平直次が与力達と弓の稽古をするため的山を築き、弓の守護神である八幡宮を勧請しようとした。すると、三羽の山鳩が松の木に止まった。これを瑞祥とし、松を神木にして小さな社を建てた。その後、穴八幡宮の社僧として良昌僧都を招くことになり、草庵を建てるために山を崩したところ、穴が見つかった。入ってみると三尺の青銅製仏像と小さな瓶と人骨があった。良昌僧都は仏像を厨子に納めて祭ったが、これを聞きつけた人々がこの仏像を拝もうと集まってきた。この年の8月、良昌僧都が諸国行脚をしていた頃に見た夢のお告げが現実のこととなり、将軍家に若君が誕生した。同じ月、加賀藩の援助も受け、本殿を神木の松の近くに移して遷宮を行い、放生会を行った。松平直次は与力や同心を引き連れ、幕を張り桟敷を構え、的を立てた。この夜、松の木から光るものが飛び出したため、別当寺の名を光松山放生寺とした。

 「江戸名所図会」は、高田八幡宮の名で穴八幡宮を取り上げている。その挿絵では山の下に別当寺の放生寺が描かれ、穴八幡宮とは石段で結ばれていた。しかし、明治政府の神仏分離政策により、放生寺と穴八幡宮は分離され、今は一陽来復と一陽来福のお札を別々に出している。この挿絵では、石段の途中に、放生寺の山号の由来となった光松が描かれているが、戦災で焼失。今は、随神門の横に光松の記念植樹がある。挿絵には描かれていないが、昔は、仏像が出現した穴の前に出現堂が建てられていたという。その出現堂が、最近になって華麗な姿で再建されている。挿絵では、南側の麓に石清水が落ちる放生池も描かれているが、この池は既に埋め立てられて現存しない。穴八幡宮の現在地は、新宿区西早稲田2。早稲田駅からすぐである。


6.7 雑司ヶ谷 法明寺

 「江戸名所記」による法明寺の縁起は次のようになっている。威光山法明寺の開山は日源上人で、もとは天台宗(異説あり)であったが、日蓮聖人との問答に負けて弟子になり、寺も日蓮宗になった。本堂は3間四面、飛騨の匠の作で、日蓮の御影があり、ある人の話では楠正成妻室が願主という(諸説あり)。鬼子母神は、近くの村にあったものを、天正6年(1578)にこの寺に移して安置したものである。家康在世の時に10石の寄付があり、家光も当寺を訪れている。

 鬼子母神の人気が高まるのは、寛文4年(1664)に鬼子母神堂が建立されてからだろうか。「新板江戸大絵図」で、穴八幡から西に行き、馬場の西側から北に折れて、神田川を面影橋で渡り、南蔵院と金乗院を過ぎて先に進むと、鬼子母神堂の参道に出る。周辺には茶屋が記されており、すでに多くの参詣客が訪れていたことを窺わせる。実際、雑司ケ谷の鬼子母神は、浅草寺や目黒不動と並んで江戸三拝所の一つでもあり、「江戸名所図会」の挿絵にも、参道の周辺に茶屋が軒を並べ、賑わっていた様子が描かれている。現在は、昔のような活況は見られなくなったが、鬼子母神堂は昔のままに残っており、境内も当時の雰囲気を留めている。なお、法明寺の堂宇は、震災や戦災により失われたが、今は再建されている。法明寺の現在地は豊島区南池袋3、鬼子母神堂は豊島区雑司ヶ谷3。最寄駅は都電鬼子母神前か副都心線雑司ヶ谷駅。


6.8 小石川 金剛寺

 金剛寺は、波多野忠経により相模国に創建され、後に江戸庄小日向郷に移り、太田道灌が再興したが、その後、衰えていたのを用山和尚が中興したという。金剛寺は、「寛永江戸全図」にも記載されている由緒ある寺であったが、明暦の大火のあとの寺の再建は思うに任せなかったらしい。「江戸名所記」は、昔は境内も広く堂塔もきらびやかであったが、今はひっそりとしていると記すとともに、本堂は茅葺で、門の内には寺家の寮があり、鐘はあったが鐘楼がないため、松と柱の間に貫を渡して竜頭をかけていたと記している。

 「新板江戸大絵図」で、南蔵院の横を東に行き、神田川を駒塚橋で渡ると、神田川から上水堀が分水される関口大洗堰に出る。その少し先で神田川を渡り、上水堀に沿って先に進むと、左側に金剛寺がある(現在の金剛坂の西側)。「江戸名所図会」の挿絵を見ると、本堂は瓦葺になり、立派な鐘楼が本堂の横に建っている。寺の裏手には地蔵堂があり、寺の由緒を記した実朝碑も建てられていた。現在の金剛寺は、地下鉄工事に伴って現在地(中野区上高田4)に移転しており、旧地(文京区春日2)には金剛坂の名を残すのみとなっている。現在地へは落合駅が最寄りである。


6.9 関口村 目白不動

 「新板江戸大絵図」で、関口大洗堰の先で神田川と上水堀を渡り、目白坂を上がると目白不動に出る。「江戸名所記」は、目白不動について次のように記している。新長谷寺目白不動の本体は、弘法大師作の8寸の不動明王像であり、寺の開山は秀山僧正(秀算僧正。中興ともいう)である。むかし、弘法大師が湯殿山の荒沢で行をしていた時、大日如来が姿を現し、忽ち不動明王の姿に変じて、利剣で左手をはらうと火焔が燃えだした。大師はこの姿を写したが、類なき秘仏ゆえ開帳はせず、厨子の前に立つ不動明王を目白不動と号した。まことに奇特な本尊ゆえ、人々が崇め参詣した。

 目白不動は神田川に臨む崖の上にあり、早稲田や高田を見渡す眺めの良い場所にあった(文京区関口2)。「江戸名所図会」を見ると、境内の崖に面する側には茶店や料亭が並んでおり、この寺が参詣を兼ねた行楽地であったことが分かる。新長谷寺は戦災で焼失し廃寺となるが、目白不動は金乗院に移され、現在は、宿坂沿いに不動堂が設けられている(豊島区高田2)。最寄駅は都電の面影橋か学習院下だが、雑司ヶ谷駅から宿坂を下っても良い。


6.10 小石川 極楽之井

 了誉上人が小石川に草庵を結んでいた時、傍らに清泉があり、これを吉水と名付けた。その後、草庵がもとになって伝通院が建てられ、吉水のあった場所には宗慶寺が建てられる。宗慶寺の内にあった吉水が、極楽之井である。「江戸名所記」は、極楽之井の由来について、了誉上人が吉水の寺に居たとき、竜女が姿を現して仏法の深き旨を求めたので、上人が弥陀の本願他力の要法を丁寧に説明した。竜女は、その恩に報いるため名水を出したが、これを極楽之井と名付けたと記している。その挿絵からすると、井戸ではなく湧水であったかも知れない。なお、「江戸名所図会」は、竜女の話をこじつけとし、下谷の幡随院に伝わる妙竜水の話と混同していると記している。

 その後、宗慶寺は移転させられ、極楽之井は松平播磨守の屋敷地に取り込まれることになる。後になって、移転先の宗慶寺(文京区小石川4)に掘られた井戸に、極楽水の名を付けることが許されたらしく、「江戸名所図会」の宗慶寺の挿絵には、境内の井戸に極楽水の名が付けられている。極楽之井は移せないが、極楽水の名を冠することは支障が無いということだろうか。現在は、小石川パークタワーの公開空地内(文京区小石川4)が、極楽水ゆかりの場所として庭園風に整えられ、弁財天の祠が祀られている。最寄駅は茗荷谷駅。




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