夢七雑録

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19.4 府中再遊の補足

2009-03-27 22:31:31 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 嘉陵は文化九年に府中を訪れているので、今回が再遊ということになる。当然、六所明神(大国魂神社)も参詣している筈だが、具体的な記述はない。ただ、最初の参詣の時には読めなかった石鳥居脇の制札の文字を、再遊の時はしっかり読んだ事が、文化九年の紀行文に追記されている。それによると、制札の一つには、竹木や苗の抜取禁止、火の用心と落書禁止、牛馬牽通禁止が書かれ、もう一つには、馬市の期間について書かれていたという。なお、府中は馬市で知られ、馬市を司る者は五十俵二人扶持を給わっていた。

 嘉陵が最初に府中を訪れた時、称名寺(府中市宮西町1)が近くに見えたが、時間も遅かったので行くのを諦めている。再遊の時に称名寺を訪れたかどうかは分らないが、嘉陵は、徳阿弥陀仏の石碑(図)が掘り出された寺である事を聞き、関心を持っていたようで、この件に関する資料を付けている。この一件のあらましは、次のようなものである。

 事の発端は、称名寺で菜園を作るべく草むらを掘り起こしていたところ、青石の碑が出てきたことにある。享和二年(1802)のことである。碑は、竪81cm幅24cm厚さ7cmで、梵字のほか字が彫られていた。名主立会いののうえで見分したところ、一本の碑は嘉暦四年(1329年)とあったが、墓の主の名は不明。もう一本の碑には、応永一(1394年)四月廿日、徳阿弥 親氏、世良田氏とあった。この石塔についての伝承は一切無かったが、親氏(ちかうじ)といえば徳川家の祖とされる人物であったから、村役人とも相談の上で、碑の文字を写し取り、代官名で上申することになった。徳川家の年譜では、親氏は清和源氏の流れをくむ新田氏の一族で、世良田と名乗っていたが、鎌倉方が新田氏一族を絶つべく探索の手を伸ばしてきたため、相模国の藤沢道場に逃れて徳阿弥親氏と称していた。その後、時宗の僧として各地を遍歴し、三河国松平郷において還俗し松平信重の入り婿となって松平を名乗ったとする。親氏は三河国松平の高月院に葬られたことになっていたが、武蔵国から墓碑が出てきたとなると面倒な事になる。結局この一件は、時の老中安藤対馬守の裁決により、石碑を掘り出した場所の耕筰を禁止して生垣を設けさせ、石碑は称名寺で大事に預かることで決着している。また、松平親氏が三河高月院に葬られている事を、あらためて申し渡している。この石碑については偽物とする説もあって、真実は闇の中である。現在、親氏の出自については諸説あり、徳川氏と新田氏の関係についても明らかになっていない。


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