夕螺の一言日記

毎日心に浮かんだことなどを書いてみたいと思います。。。(2014年3月13日開設)

2017年 1月11日(水)「年をとっても働ける幸せ」

2017年01月11日 14時01分27秒 | 「思うこと」
今日の朝日新聞4面に年をとっても働ける幸せという記事がありました。
作家の佐藤愛子さんが90歳を過ぎてもお元気に執筆活動をしベストセラーを出しているそうです。高齢者が元気に働き続けることは大切なことです。
昔は高齢者はどうにか年金等で食っていける世の中でしたから、定年後「毎日が日曜日」になり何をしてよいのかわからないとか、奥さんは「毎日が家事曜日」になって定年後の夫の面倒を見るのが大変と。その中で趣味を持とうとかボランティアを行おうとかという専門家などのアドバイスがたくさん出ていました。もちろんそのころから退職金の運用などという勧誘もありましたが。
しかし現在は年金支給年齢が引き上げられて60歳から65歳になっています。あと数年すれば厚生年金部分も65歳支給となります。さらに政府はこの65歳支給を引き上げる動きを見せています。また支給額を抑える動きもあります。こうなると「働く幸せ」というものから外れて「食うために生存するために働かざるを得ない」労働となってしまいます。
「我々は何を目指して生きているのか、それを考えることも忘れて、便利、快適、物質的満足ばかり追いかけている」 (引用)
「何を目指して生きているのか」
この生き方と言っても一昔前のサラリーマンのように定年後どうにか食えるから趣味やボランティアで生きる喜びを見つけよう」というのと、「65歳にならなければ年金がもらえないで死ねと死ねと言われているようなものだから働かなければならない」とでは同じ働くにしても「生き方」の中身は全然違ったものになっています。
安倍内閣での一億総活躍は、もちろん後に書いた中身による労働の提供と老後に来方を目指している。
年金だけでは食うだけで「便利、快適、物質的満足」の豊かさなどありませんし、一定程度働かなくてはなりません。その中で65歳まで無年金になるから低賃金で働けという仕打ちが今の社会です。
作家の佐藤愛子さんのような生き方をされる方も増えていってほしいと思うのですが、現実社会に生きている圧倒的な人々は生存していくための生き方を選ぶしかないのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2017年 1月 9日(月)「生産性の低下」

2017年01月09日 17時40分37秒 | 「思うこと」
日本の生産性の向上がどのように進められたかを思うに、高度成長期は確かに本来の生産性の向上が行われた時代だったでしょう。商品生産は機械やオートメーションの発達により少ない労働力量でより多くの商品を生産した。不況期もあったが、機械化によって余剰となった労働力は新たな産業や設備投資増に利吸収された部分もあった。もちろん労働者はその中で苦しめられたがそれでも将来は何とかなる程度であっても安心感はあった。
組合運動もある程度活発でストライキを構えながら毎年春闘での賃上げがあり70年半ばには大幅な賃上げもあった。反合理化闘争は労働条件の維持向上に貢献した。野党も数こそ自民党に負けたが、組合や市民団体との連携によりその発言力があった。社会保障も一定程度安定したものとなった。そして平和主義からの逸脱も歯止めをかけていた。
しかしその後経団連を中心とした生産性本部が活発化し、政府による三公社五現業攻撃が深まった。
親方日の丸論で民間と公務員とが分断され、その分断から公務員も民間も互いに労働条件を引き下げる競争に駆り立てられた。大幅賃上げはインフレを招くと否定され徐々に賃上げ率は下がる。
この過程が日本社会が言う生産性の向上という考え方が根付くと担ってしまう。
本来の生産性向上ではなくて労働者からの搾取協が生産性向上だと錯覚されはじめられる。
生産性を上げていく中でバブルが発生する。しかし労働者への分け前は賃上げと言っても多くて5%程度。猛烈な不動産バブルと金融バブル。企業は絵画などを買いあさる。地方にばらまかれた1億円で自治体は金の延べ棒を買うところも。箱もの行政。
今進められようとしている(今は挫折したが)女性の活躍も叫ばれて、働く女性が勝ち組とさらる。
大幅賃上げが下火になり、職場では高齢者が窓際族と呼ばれる。民営化も含めて公務員の労働条件の低下により、民間は公務員も汗をかいているのだからとさらなる合理化。勝ち組だった働く女性は仕事をとるか結婚をとるか。
財政再建は進められなかった。
バブルの崩壊後はさらに労働者からの搾取強化(賃金・労働時間・その強度から)で企業は生き残りを考え生産性向上が安易さを深めていく。
この労働者を犠牲にすることを生産性の向上とする姿勢は今も続いているのです。
しかしこのような生産性の向上が、今では生産性を上げていないことが表面化している。
ずっと低成長そしてゼロ成長ついにはマイナス成長へ。
少子化問題もその中に含まれるでしょう。
個人消費の落ち込みに改善がみられない。そこから国内の設備投資の伸び悩み。
生産性向上運動が結局は日本全体の生産性低下を長い時間かけながらも表面化させているのだと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2017年 1月 7日(土)「自己資本と株主、自己資本比率と投資家」

2017年01月07日 17時51分11秒 | 「思うこと」
企業は株主から資金を集めてそれは自己資本となる。設備投資などでの銀行などからの借り入れは負債となる資本である。この自己資本と借入等の資本は総資本を形成し、その自己資本比率によって企業の信用が左右される。
ということだと思うのですが。。。。。。
企業の絶対的使命は自己資本比率が40%あたりを下回らないようにしなければならない。
企業は株主からの投資が急激に減少すれば自己資本比率が低下しますから必死に株主を保護しなければならない。現在は配当がどのくらいなのかよりも株価の維持が株主を引き留める道具である。
一方で企業利益に対する事業利益よりも自己資本の運用による利益が企業の業績を左右する。
企業は株式市場にがんじがらめとなる。
自己資本を他の企業にのっとりされないか気が気ではない。
ここで労働者への配分(賃金)は二の次となり、賃上げするとなると株主の猛反発が起きる。
そこへ投資家なるものが現れ、株価はその投資家によって左右される。
投資家はその企業を守るために投資するのではない。株価の変動による利益が目的である。
すると自己資本比率維持にはその投資家と闘わなければならない。市場を動かす投資家、そして企業の資金が動くことによる投資。
すでに資本主義はじみちに企業業績を上げることに集中できなくなる。
すべては市場に資金は吸い上げられていく。
国民の金までが市場に吸い上げられていく。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2017年 1月 6日(金)「神話社会」

2017年01月06日 10時06分09秒 | 「思うこと」
日本は深刻な神話社会に入り込んでいます。哲学(考えること)よりも感情、足元を見つめるよりも「期待」、科学よりも心の持ちよう。。。。
唯心論や観念論、これは哲学ですから考えることを実践します。
しかし、社会の中で正しいか間違いかと言う考えることを抜きにして一つの作り上げたものを絶対として、その作り上げたものに作った人間自体が支配されるのが神話世界であり宗教性を帯びてくる。
例えば、原発政策においての安全神話がそうである。
日本の原発は安全であるという一つの神話が生まれると、誰もその安全神話に反対できなくなりその安全であるという神が人を支配し始める。そして安全であるという絶対的な神崇拝することにより冷却装置などの安全性がおろそかになったり自然災害に対してもおろそかになっていく。
哲学(考えること)よりも感情、足元を見つめるよりも「期待」、科学よりも心の持ちよう。。。。となっていくのである。
同じような神話が今はアベノミクス)そしてその政治的(な積極的平和主義というものや改憲)考え方となっている。
すでにアベノミクスは失敗だったという事実は経済学者の中でも多く唱えられはじめているが、一度アベノミクスが神格化されはじめると、失敗ではなくて道半ばなのだとされ、このアベノミクスを誕生させた経済学者や知識人そして政治家や官僚は、アベノミクスという神に対する神官となってしまう。
宗教性を帯びると、神官をはじめ一般大衆も含めてその神を絶対的なものとして排外主義となっていき攻撃性を強める。さらに一般大衆は、哲学(考えること)よりも感情、足元を見つめるよりも「期待」、科学よりも心の持ちよう。。。。に心の安定を求め始める。
ここに神話社会が完成するのである。
しかし、哲学(考えること)よりも感情、足元を見つめるよりも「期待」、科学よりも心の持ちよう。。。。
という神話社会は実際の社会特に経済法則と乖離し始めるでしょう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2017年 1月 5日(木)「GDPギャップと成長」

2017年01月05日 22時09分56秒 | 「政治・経済」
GDPギャップは、個人消費の減少(これは絶対的ではない人為的なもの)により供給を減らすことからそのギャップは大きくなる。企業の供給は設備投資を抑えることは当然、工場や店を縮小させて失業者や低賃金を増大させる。するとさらにGDPギャップは大きくなる。経済学は逆立ちしてはいけない。
一般的なGDPギャップの拡大(マイナス)は、需要よりも供給が大きい場合に企業の設備や労働力が過剰になった時に起きるとされる。
しかし絶対的需要の縮小はあり得るのか?
多くの人々はほしいものがたくさんあるが懐の中にある貨幣量が足りないので消費しないだけである。
需要は多くの人々の懐にある貨幣量によって決定する。最低限の寝て食うだけの生活が国民に強要される場合を見ればその需要の大きさの減少がはっきりするでしょう。
ではこの国民の懐の貨幣量の減少はどのように起きるか?
まず、一定程度の賃金が保証されている場合を仮定するとしても、企業間の競争は生産性の向上による生産拡大が至上命令である。同じ商品量をより少ない労働力量で生産するのが生産性の向上である。この場合労働時間の短縮が伴わなければ労働力は過剰となる。ですから、GDPギャップの拡大は需要よりも供給が大きい場合に企業の設備や労働力が過剰になった時に起きるというのは間違いなのである。むしろ経済が成長しているときに労働力の過剰は作り出される要因となっているのである。
失業は不可避性となる。
失業は労働者の低賃金化を招く。
よって需要の縮小は始まる。
ところが低成長あるいはz路成長やマイナス成長下の今の日本の生産性の向上は、失業はもちろん労働者の賃金の切り下げと労働郷土の増大と長時間労働と考えられてしまったのです。
搾取の強化により労働者の賃金は生活もままならない層の労働者を拡大させた。
すると、この中での需要はさらに激しく減少するでしょう。
激しいGDPギャップが現れる。
企業は通常の消費もままならない中で大規模な生産縮小あるいは商品のダンピングに走る。
アベノミクスそしてこれまでの自民党の政策はこのような状態に労働者をここまで落としたのである。
同じGDPギャップの拡大としてもこの矛盾は相対的な生産の過剰が起きるでしょう。
成長は止まります。ますますマイナス成長に向かうでしょう。
商品市場における恐慌が発生します。
それは資本とならない貨幣量の増大は金融恐慌にいつの日か飛び火するでしょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

風邪。。。。。。

2017年01月04日 21時06分52秒 | ご挨拶
どうも風邪をひいてしまったようです。

熱い風呂入って、早く寝ます。。。。。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2017年 1月 3日「民主主義の悪用」

2017年01月03日 16時03分53秒 | 「思うこと」
民主主義とは何か?
一般的に考えられている民主主義とは「多数決」であるとされる。
この考えは一般的であると同時に政治をはじめ社会の隅々にまではびこっている。
たしかに民主主義は多数決であるという側面を持っている。しかし民主主義はこの単純多数決ではない。
今の政治を見ると、選挙による議席数が重要視され、その議席数(与党の数合わせも含めて)による数の力による強行採決としての単純多数決が民主主義であるとされる。選挙も公約が守られるか、重要政策が公約化されているかとなるとそうはなっていない。政策よりもテレビに顔出す知名度のある芸能人やスポーツ選手などという票になる人材が重要視される。あるいは地盤・看板を引き継ぐ二世議員も。
この政治は民主主義の悪用ともいえる。
多数決は単純多数決ではない。
多数決をとる前に十分な討議がされたかが重要である。
多数意見に間違いがある場合は少数意見を採用しなければならない。
常に多数が正しいかと言えばそうではない。だからこそ十分な討議が必要なのである。この討議の中で一つの意見に煮詰まってきた状態により必然的に多数決ではその一つの意見が採用されることになる。しかしこの意見が正しい結果を産まないことが分かった時点で少数意見を再度検討しなければならない。
この過程自体が民主主義なのである。
討議によってより正しいと思われる結論を出していくこと自体が民主主義である。そこで初めて多数決も採用される価値が生まれる。
ポピュリズムもまた民主主義の悪用である。
国民の感情面に訴えかけた多数派工作は民主主義ではなくて扇動です。
扇動は民主主義ではなくて民主主義の悪用です。
ネット上にもこの民主主義の悪用が用いられる。マスコミはこの扇動をさらにあおることがある。

民主主義が問われる時代になっている。
単純多数決というそしてポピュリズムという民主主義の
悪用を見直さねばならない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2017年 元旦(日)「よりよく生きたい」

2017年01月01日 12時10分28秒 | 「思うこと」
朝日新聞1月1日号9面に耕論「私たちはどこにいるのか」という記事があった。その中で僕の大好きな作家である川上弘美さんが「ありえない幸運 よりよく生きた」が載せられていた。
「毎日普通の生活すること」この言葉は川上さんの多くの(すべての作品と言ってもよい)作品に表れています。小説の中に登場する人々は誰もが「普通の生活」をしている。しかし普通の生活というのは単純な平凡とは違う。しかしそれは平凡であることに変わりはない。人はその普通の生活の中に喜怒哀楽がある。家族や恋人などをはじめ多くの人の交わりの中で喜怒哀楽がある。同時に人が社会的動物であることから社会全体の中に置かれた普通の生活の中に喜怒哀楽がある。
家族内のあるいは恋人との時間。この中での喜怒哀楽は時には激しいものがある。その激しさの中で人生の方向も変わってしまうこともあるのですから普通の生活は平凡ではない。しかし人は時の流れの中で必然的に置かれる場所は決まってきますから過ぎ去る時間の中においてはやはり平凡なのです。
その平凡さすなわち「やってみる、食べる、しゃべる。そういうささやかなこと」としての普通の生活が繰り返される。
しかし、先にも書いたように人は社会的な動物ですから社会の中に平凡さや普通の生活はさらされています。
「災害や不幸をなくすことはできないけれど、極端な理不尽なことが起こらない世界になってほしい。原発事故で避難した人や紛争から逃れてきた難民のように、生まれ育った土地に住めなくなり、よそへ行かなくてはいけないのは、本当に理不尽なことです。
生まれ育った土地で喜怒哀楽を素直にあらわしながら、普通に生活できるという、ほんとうにささやかな幸せをみんなで求めていくことができる世界に、住みたいのです。」
これが「よりよく生きたい」川上さんの言葉でしょう。
激しい喜怒哀楽の中で生きなければならないのですが、この喜怒哀楽と社会的な人が作り出す「理不尽なこと」は質の違うものです。
社会的な理不尽なものをなくさないと人は個人として平凡な普通の生活を送ることができなくなるのです。それが理不尽さです。
戦争・内戦や原発事故。しかし理不尽さが現れるものはそれだけではありません。格差や貧困(絶対的にも相対的にも)特に子供の相対的貧困。社会保障全般。そして「ほんとうにささやかな幸せを『みんなで求めていくことができる』世界」という自由や民主主義などなど。この理不尽さをなくさなければ人はより良く生きることができません。
このことを「あきらめずに、そして忘れずに、なのかな。」
普通の生活の中身は個人により大きな違いがあるでしょう。しかしその基礎にあるのは「やってみる、食べる、しゃべる。そういうささやかなこと」です。これを作り上げながらその個性により人は初めて個性的に喜怒哀楽のある毎日を送ることができるでしょう。

よりよく生きるための普通の生活を守りましょう。

*「 」内は引用です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2017年 元旦

2017年01月01日 09時49分22秒 | ご挨拶
謹賀新年

本年もよろしくお願い申し上げます。

2017年 元旦
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする