本日(5/20)付毎日新聞夕刊に、作家辺見庸さんのインタビュー記事が掲載されていました。
辺見さんほど、時代状況を的確に表現される方はおれらないのではないかと思います。
下記サイトでどうかご覧ください。
http://mainichi.jp/feature/news/20130509dde012040020000c3.html
日本社会からどんどん寛容さがなくなっているように感じる人は多いのではないでしょうか。そして、それと反比例するかのように、マスメディアを通して「美談」がつくられ「感動」が演出されているように思います。まるでそれは現実から失われた人間賛歌をバーチャルな空間でそれを埋めるかのようにみえます。
だれもが「本当のこと」を語ろうとしなくなったとき、表面的な明るさがかえって息苦しさを生み出しているのかもしれません。そしてそういう社会で子どもは一番の被害者かもしれません。歪んだ社会ではまっすぐな感性を持つ子どもが真っ先に影響を受けるのかもしれません。
息苦しさ漂う社会の「空気」 辺見庸さんに聞く
インタビュアーの問題意識
「この息苦しさは何だろう。浮足立つ政治家や財界人の言葉が深慮に欠け粗くなる傍ら、彼らへの批判を自主規制しようとする奇妙な「空気」が漂っていないか。何が起きているのか。作家の辺見庸さん(68)に聞いた。」
辺見さんの言葉…ファシズムとは
「今の日本はファシズムの国だよ」。「ファシズム」とは大衆運動や個人の行動がコラージュのように積み重なったもの。独裁者の言葉に突き動かされるのではなく、そんたくや自己規制、自粛といった日本人の“得意”な振る舞いによって静かに広がっていくということだ。」
「ファシズムと聞くと全体主義、ムソリーニ独裁やヒトラーのナチスが浮かぶ。「そういう、銃剣持ってざくざく行進というんじゃない。ファシズムはむしろ普通の職場、ルーティンワーク(日々の作業)の中にある。誰に指示されたわけでもないのに、自分の考えのない人びとが、どこからか文句が来るのが嫌だと、個人の表現や動きをしばりにかかるんです」
「言わない方が」はいつのまにか「言ってはいけない」に。
「見なかったふりは」はいつのまにか「見ていない」に。
「聞こえていても」はいつのまにか「聞いていない」に。
子どもにイジメを説教するおとなが一番たちが悪い。何が起ころう傍観者の立場で自分を守る。
思考停止の状態に陥っていることも自分では気づかない。
辺見さんの言葉…NHK「花は咲く」
「月刊誌「すばる」2月号に発表した小説「青い花」を大幅加筆し、近く単行本として出版する。だが、雑誌での編集作業は言葉遣いを巡って大いにもめた。「頭のおかしくなった主人公のセリフで朕(ちん)をチンチンにするとか、政治家をからかうのは問題ないのに、例の『花は咲く』を揶揄(やゆ)したら、それだけはどうしてもダメだって言うんだ」
「花は花は花は咲く」とNHKがよく流すせいで、嫌でも耳にするあの歌のことだ。「俺はあれが気持ち悪い。だってあの歌って(戦時中に隣組制度を啓発するために歌われた)『とんとんとんからりんと隣組』と一緒だよね。そう思って書いた部分を、編集者が『書き換えてほしい』って言う。文芸誌で何を書こうがいいじゃないか、なぜ遠慮しなくちゃならないのかって言うと、『あれはみんながノーギャラでやってて、辺見さんも自作をちゃかされたら嫌でしょ』と。もう目をぱちくりするしかないよね」
テレビのなかで生み出される「善意」が人々をがんじがらめに縛っている。「善意」を誰もが賞賛しなければならないという強迫観念のもとに、人々はまたもや自分の言葉を失っていく。
辺見さんの言葉…生まれ育った宮城県石巻市の話
「芸能タレントとテレビキャスターと政治家が我も我もと来て、撮影用に酒なんか飲んだりしてね。人々は涙を流して肩を組み、助け合ってます、復興してます、と。うそだよ。酒におぼれ、パチンコ行って、心がすさんで、何も信用できなくなってる人だって多い。PTSD(心的外傷後ストレス障害)ね。福島だって『花は咲く』どころじゃないんだよ。非人間的実相を歌で美化してごまかしている。被災者は耐え難い状況を耐えられると思わされてる」
現実は常に目隠しされ、バーチャル空間で生み出された「復興」が独り歩きする。
インタビュアーの分析
辺見さんは地中海人的だ。「何を唐突に」と思われるかもしれない。だが、著書「瓦礫(がれき)の中から言葉を」の中にある<根はとてつもなく明るいけれども、世界観と未来観についてはひどいペシミスト(悲観主義者)>や<あの荒れ狂う海が世界への入り口だったから、いつか、どんなことをしてもあの海のむこうに行くんだと決めていた>といった自己描写は、「南の思想」を著したイタリアの社会学者、フランコ・カッサーノの言う地中海人の定義にぴたっと収まる。
カッサーノによれば、地中海人は強大な国家に虐げられた歴史から政府や多数派が求めるものを疑ってかかり、海の向こうに自由を求める。辺見さんも同じだ。引用するのはエーコや哲学者のジョルジョ・アガンベンらイタリア人が目立つ。感性の波がうまく共鳴するのだろう。
そうなのか。地中海(イタリア)と辺見庸、考えもしなかった…、これはへぇーとしか言いようがない。地中海人的。しかし、どう呼ぼうが、辺見庸が絶えず「多数派が求めるものを疑ってかかれ」というのはひどく共感する。
辺見庸の言葉…ニッポンチャチャチャが今の日本
「昔は気持ち悪いものは気持ち悪いと言えたんですよ。ところが今は『花は咲く』を毛嫌いするような人物は反社会性人格障害や敵性思想傾向を疑われ、それとなく所属組織や社会から監視されてしまうようなムードがあるんじゃないの? 政府、当局が押しつける政策や東京スカイツリー、六本木ヒルズ10周年といったお祭り騒ぎを疑う声だって、ほとんど出てこない。それが今のファシズムの特徴です。盾突く、いさかうという情念が社会から失われる一方、NHKの『八重の桜』や『坂の上の雲』のように、権力の命令がないのに日本人を賛美しようとする。皆で助け合って頑張ろう、ニッポンチャチャチャでやろうよと」
みんな一緒がそんなにいいのか?と言いたいが、いいというのではなくて、それしか怖くてできないのかもしれない。今の多くの日本人は。
辺見庸の言葉…根本の議論がない
「安倍首相は靖国問題で「国のために尊い命を落としたご英霊に対して尊崇の念を表するのは当たり前のことと言い、どんな脅かしにも屈しない自由を確保していくと中国や韓国に反論した。…英霊でいいのに、ご英霊と言う。一言増えてきた。安倍首相の言葉や閣僚の参拝に対し、国会でやじさえ飛ばない。野党にその感性がない。末期症状です。新聞の論調も中国、韓国が騒ぐから行くべきでないと言うばかりで、靖国参拝とはなんぞや、中国が日本にどんな恐怖感を持っているかという根本の議論がない」
なぜに、これほど想像力が欠如したのか。現実が現実として捉えられないところに想像力は育ちようもない。悲しみはない。
野田正彰著「戦争と罪責」の叙述を思い出す。
「時代の気分は、薄く浅い「幸せ」に色づいて流れていた。より正確に言えば、「多幸症(ユーホリア)」である。内容の乏しい、空虚な爽快。現実を見るよりも、総ては「うまくいっている」と前もって受け止める構え。その裏には、自発性の減弱と衝動性の亢進があった。
人々は落ち着き泣く動き回り、バブル経済で浮かれ、いつもいつも、何をしたのか、何が起こったのか、検証することなく、幻の幸せに向かって笑ってきた。政治の空洞化、金融の破綻、官僚制の肥大、アジア諸国の開発独裁への加担、目的なき情報化、子供たちの閉塞感……それぞれに衝撃的に反応し、顔を顰(しか)め痙攣的に涙を流すことはあっても、深い悲しみはない。」
辺見庸の言葉…この空気を支えるものは何か。「ホモ・サケル」
「古代ローマの囚人で政治的、社会的権利をはぎ取られ、ただ生きているだけの『むき出しの生』という意味です。日本でもホモ・サケルに近い層、言わば人間以下として放置される人たちが増えている。80年代までは、そういう貧者が増えれば階級闘争が激しくなると思われていたけど、今は彼らがプロレタリアートとして組織化され立ち上がる予感は全くない。それどころか保守化してファシズムの担い手になっている。例えば橋下徹・大阪市長に拍手をし、近隣諸国との軍拡競争を支持する層の多くは非受益者、貧困者なんです」
辺見庸の言葉…政治を野放しにするとどうなるのか。
「安倍首相は官房副長官時代、官邸に制服組をどんどん入れ、02年の早稲田大の講演で『現憲法下でも戦術核を持てる』と語った。その考えは今も変わらないと思う。今の政権の勢いだと、いずれ戦術核の議論までいくんじゃないですかね。マスコミの批判は出にくいしね」
インタビュアーの問い
言語空間の息苦しさを打ち破れるかは「集合的なセンチメント(感情)に流されず、個人が直感、洞察力をどれだけ鍛えられるかにかかっている。集団としてどうこうではないと思うね」と辺見さん。まずは自分の周り、所属する組織の空気を疑えということか。
きわめて地中海人的な態度と言える。
いつも問題は日常のなかにある。日常を非日常の視点から批判するには「地中海人的態度」でなければもたない。
つまり、海の向こうに自由を求めるのでなければ。
そして、もう一つ、自分を信じろ、自分を鍛えよ、ということだろうか。