9月5日、6日、10日の一連の最高裁「君が代」判決に多くの人はあまり関心を払わなかったようです。人々の心が「愛国心」の強制に慣らされていく現実にうすら寒い思いがしています。神奈川新聞に至っては、(共同通信が発信元だそうですが、)誤報と言ってよい記事が掲載されていました。新聞もすでに君が代問題は風化してしまったのかと暗澹たる思いがします。実のところ、今こそ、マスメディアは、この新たなナショナリズムの波及を取り上げる必要があるように思えるのですが。(T)
神奈川新聞の誤報
9月5日「君が代」最高裁判決について神奈川新聞は次のように報道しました。
■君が代不起立処分 元教員らの上告棄却■
入学式や卒業式で日の丸に向かって起立し、君が代を斉唱することを拒否した東京都内の公立小中学校の元教員ら11人が、懲戒処分の取り消しなどを求めた2訴訟の上告審判決で、最高裁第1小法廷は5日、元教員の上告を棄却した。一部の処分を取り消した二審東京高裁判決が確定した。最高裁は同種の訴訟で昨年1月、懲戒処分に関し「減給以上には慎重な考慮が必要」と初判断。今回の2訴訟で二審は、11人中2人の減給、1人の停職・減給の処分を取り消したが、戒告処分は妥当とし、慰謝料の支払い請求も退けた。11人は校長の職務命令に違反したことを理由に懲戒処分を受け、提訴していた。
この報道は、今回の判決について、2011年1月の最高裁判断を踏襲し、減給以上の処分については処分取消が確定、戒告処分は妥当、処分取消なしであったとの司法判断を伝えています。
ところが、実際は11名の一人である根津公子さんについては減給6カ月処分ならびに停職1カ月処分の取り消しを求めていたにもかかわらず取消がありませんでした。しかし、そのことについては全く触れていません。この報道に接した人は、「君が代」不起立は、一律、戒告処分は妥当、減給以上の処分は取消との最高裁判決であったと誤解することは免れえません。
ジャーナリズムの使命は社会正義に立ち、社会で起こることを評価・批判するところにあると思いますが、そのためにも事実の報道は必須です。事実に基づき批判も起こり得ます。
今回の最高裁判決を報道するなら、「11人中2人の減給、1人の停職・減給の処分を取り消したが、」の後に「但し、1人の停職・減給は取り消さなかった。」と記さなければなりません。それが事実なのですから。
では、思うに、どうしてそのような誤報が起こったのでしょうか。誤報と書きましたが、今回の報道は意図的になされたものではないと考えます。なぜなら「1人の停職・減給が取り消されなかったこと」を意図的に排除する理由は思い当たらないからです。しかし、ある意味、意図的な排除以上に無意図的あるいは無意識的になされる誤報は問題が大きいとも言えます。記者が無意識的に排除したことで多くの読者もまた無意識的に事実を排除します。結果何が起こるかと言えば、歪曲された「事実」が広く共有され、事実に関する批判も正しく起こりえない現実が作られます。「君が代」不起立処分について、戒告は仕方がないが、減給以上は重すぎるだろうとの判断を多くの人が共有するのではないでしょうか。
問いにもどりましょう、なぜこのような誤報が起こったかということです。神奈川新聞の記事の配信元は共同通信とのことです。共同通信は、なぜ誤報を起こしてしまったのか?
東京都で「君が代」裁判が起こるきっかけとなったのは、2003年に出された教員への「君が代」起立斉唱を強制した、いわゆる10.23通達です。それ以前から、戦後の歴史のなかで「日の丸」「君が代」を学校教育のなかで位置づけることの是非について論争はずっと続いていましたし、今も続いています。それが戦争の歴史が遠ざかるなかで、そして10.23通達からだけでも既に10年が経過するなかで、巷では、「君が代」が戦中に果たした記憶も薄れ、オリンピックやワールドカップを通して新たなナショナリズムが形成され、「君が代」はそれほどのマイナス価値を持つものとは受け取られなくなってしまいました。ひいては、「君が代」裁判にも関心は薄れていったのではないでしょうか。
何が言いたいのかと言えば、この記事を書いた共同通信の記者も、「君が代」についてさほどの問題意識もなく、言葉は悪いかもしれませんが、通り一遍の報告として記事を作成をしたに過ぎなったのではないでしょうか。記者にとって、「1人の停職・減給が取り消されなかった」ことに思いは及ばなかったのでしょうし、その大きさについても考えはしなかったでしょう。しかし、その事実を落としたという点で、これは紛れもない誤報です。記者であれば、どのような出来事に対してもそれを記事にする以上はジャーナリストとしての素朴な関心から出発すべきですし、そうしていればこのような誤報は起こらかったかもしれません。
メディアが司法判断を報道するとき、まずなによりも求められることは、「事実」の報道です。「事実」に基づいてこそ「君が代」問題の論点も整理されていくのですから。
2012年1月16日の最高裁判決は、減給以上に処分を取り消すなかで、唯一根津公子さんの減給3か月停職は取り消されませんでした。今回の最高裁判決はそれをそのまま踏襲しているのですが、なぜ、根津公子さんだけが減給・停職を取り消されなかったのか、これは「君が代」不服従問題についての大きな論点のひとつです。今回の判決後の会見で担当の吉峯弁護士は、次のように判決を批判されたそうです。
「起立斉唱行為が思想及び良心の自由の間接的な制約となることを認めつつ、思想及び良心の問題を『必要性及び合理性』という緩い基準で、しかも何の説明もせずに用い、判断することは憲法学会ではありえないこと。厳格な基準を用いることが通説だ。司法が政府に追随するがゆえに、結論先にありきの判決なのだ。」
そして、根津公子さんの停職・減給処分を適法とした点については、以下のように断言されたそうです、
「何度も処分をされたということは、何度も良心を貫いたということ」。
根津公子さん自身は、次のように語られたそうです。「私は、過去の処分歴・不起立前後の態度等を取り上げて秩序判断をした1・16最判
は、処分者側にフリーハンドで累積加重処分をしてよいとのお墨付きを与えた。最判から1年後の今春、すでに不起立4回の田中聡史さんに減給処分を出した現実は、それを実証している」と。
共同通信の記者がこの報告集会を取材していれば、誤報は起こらなかあったかもしれません。
共同通信の記者ばかりでなく、すべてのメディア関係者、特に若い人に言いたい、
自民党憲法草案を見てもわかるように、教員ばかりでなく、全国民に「日の丸・君が代」が強制される時代が来るかもしれない今、「君が代」問題とは何か?戦後から現代そして未来につながる歴史において根源的なところから考えて取り上げてほしい、と。
どうか、報道関係者ばかりでなく、多くの人にお願いします。今こそ、今だから、「君が代」強制の問題を論じることが必要なのです。