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「君が代」不起立処分大阪府・市人事委員会不服申立ならびに裁判提訴当該15名によるブログです。

明日 山田肇さん第2回口頭審理

2013-09-25 23:33:51 | 人事委員会審理

直前の連絡で申し訳ありません。多くの方の傍聴をお願いします。

山田肇人事委員会第2回口頭審理

◆9月26日(木)14時~、

◆大阪府咲洲庁舎29階:大阪府人事委員会

<最寄駅>
大阪市営地下鉄中央線「コスモスクエア」駅下車、南東へ 約600メートル
もしくは
ニュートラム南港ポートタウン線「トレードセンター前」駅下車、ATCビル直結(約100メートル)


大阪「君が代」減給取消訴訟:原告からパワハラの訴え

2013-09-25 15:38:24 | 「君が代」裁判

大阪「君が代」減給取消訴訟原告奥野泰孝さんが受けたパワーハラスメントの訴えです。

私は管理職にどう苦しめられたか。(パワハラについて)

奥野泰孝

2012年4月入学式

私は新入生の担任に決まりました。からだに障害を持った生徒の担当です。

入学式座席は4月4日の職会で確定しました。生徒の隣です。しかし、3月の卒業式の時、不起立だった私に管理職が毎日「立ちますか」と確認をとって来ていました。(3月27日には「不起立」に対し「戒告処分」を受けています。」私は「迷ってます」と答えていました。

入学式前日の5日、

「立つと言わなければ、式場外の受付業務を命じます。」と迫られました。私は抗議しました。「迷っている。入学学年でないなら、式場外の業務を受け入れるだろう。しかし、歌の時に立たないからといって、どうして(式当日の)担任業務から外されるのか。どうして、今の私の心の中を知ろうとするのか(翌日立つのか立たないのかと)。起立斉唱の職務命令は出したんだからもうそれでいいじゃないですか。どこまで人の心の内面を踏みにじるのか。」と管理職に言いました(乱暴な言い方は後で謝りました)。

しかし、しばらくたって13時30分頃、管理職の所へ戻りました。その時は教務式場係を部屋に呼んで変更の相談をしているところでしたが、係りの人には部屋の外に出てもらい、管理職と話になりました。「立つか座るか分からないが、式場の業務に着けることは出来ないか」もう一度頼みました。私が「立たない」と言えばすぐに仕事分担の変更ができるように、教務の式係の教員を待たせておいてです。教頭は部屋の中で状況をメモっています。精神的に疲れてきました。「明日立つと言っても、気が変わって、座ってもいいんだ」と心の中で思い、結局、「立ちます」と言いました。式の前、生徒本人、保護者と会ったうえで、その人たちを大切に考えて、どうするか考える必要があるので、本当に迷っていた(立つとも座るとも単純に言えない)。

その夜、悩みました。当日その時、どうするか。

「従順に起立」はあり得ないが、3つの選択肢がありました。

①そのまま座っている。 (ギリギリまで立つ気でいたがやはり立てなかったと言っても、管理職に対し嘘をつくことになり、心苦しい)

②いったん立って途中で座る。

③明日の朝、全職員がいる連絡会の場で、前日の管理職との状況を短く報告し 「やはり立てない」と言う。 管理職もその場で聞いていますから 私を式場業務から外し約1時間後の式までに代りの体制を作らせると思うのです。 現場には迷惑がかかります。

・・・・・・・・睡眠は午前2時から5時半。

入学式当日

4月6日(金)朝、通勤電車の中でどうするか決めました。「大人のチエ」は使わない、「面従腹背」はしない、です。「立ちます」と言って、式場に入り、そして不起立という「狡いやり方」は、筋が通らない。筋を通して行こう、と決めました。

8時25分出勤。式の受付は、9時15分から開始(式は10時から)。

8時45分からの全教職員の「朝の連絡会」で、まず前日の管理職との状況を短く報告しました。

「昨日、新しいルールが分かりました。『立ちそうにない教員』に確認し『立ちます』と言わない限り、

式場には入れない、というものです。それで昨日は立つと言った。悩んだが、いまの気持ちはやはり立てません。面従腹背は教育的でない。大人の知恵もそうだ。嘘をつくこともそうだ。私はまた戒告処分を受けてもいいから、式場に入るつもりです。新入生の担任が『起立』しないだけで式場外に出されるのはおかしい。しかし、この後管理職の判断で、急きょ、配置換えがあったら職員に迷惑かけるでしょう。申し訳ない。管理職の先生、嘘をつきそうになっていてすみません。」

 

すぐに管理職の部屋に行き、確認をとられました。教頭がメモを取っている。

9時から受付業務を命じられ、式場に入らないように言われました。交渉の末、式の終わりの方にある担任紹介の時から式場に入っていいことになりました。管理職は、私を式が終わるまで、式場後ろの教員席の最も後ろで保護者から見えない席に座らせておくつもりだったらしいのです。式前の控室に生徒の様子を見、保護者に挨拶しようと行くが、教頭にしつこく引き戻される。受付の業務が終わりしばらくしてから、式場入り口の外に立ち、中での校長のスピーチに耳を傾ける。PTA会長の話が終わり、体育館後ろの戸が開けられる。教頭が入っていいと言う。一般教員席は開場の横から中央を向いているので、私が一人入場するのは目立ったようだ。新入生とその担任は会場前方にいて、保護者や一般教員らに背を向けて座っている。クラス名が呼ばれる。私はあわてて席を立ち前方の他の担任たちの近くまで進み、ふりかえり保護者席に向かって頭を下げました。終わったらまた最後方の席に戻ったのですが、後で聞くとこれが管理職には気に入らなかったらしい。

司会が閉式を述べ、新入生退場の時、受け持ち生徒のところへ行こうとすると教頭にとめられた。退場も式のうちらしい。私の代替教員が拍手の中、生徒と退場する。卒業アルバムに使われる入学式写真に私は残らないのです。そして私は受け持ちクラスが会場を出る時後ろに着いて出た。それも管理職には気に入らないらしい。皆が退場し終わるまで、後ろの席で目立たなく座っていてほしかったらしい。しかし、それでは、教室で待つことは出来ない。私が後から教室に行くことになる。管理職の指示は矛盾しています。とにかく保護者や来賓に、「不起立」するはずの教員が排除されている様子を気づかせたくないということでしょう。また、府教委から来賓としている職員に、ちゃんと「不起立教員を入学式のはじめから終わりまで排除している」ことを認めさせたかったのではないでしょうか。

式後、管理職から「あなたは命令に従わなかったのですよ」と叱責されました。本当にばかばかしいと思いました。しかし息苦しい。奴隷になれと言うのでしょうか。おそろしいと思いました。

その後、この件に関する管理職からの「指導」や「アドバイス」はありません。2012年3月27日に出た戒告処分に関する「指導」や「アドバイス」、「話し合い」もありません。

 

2013年3月卒業式

私は、「国歌斉唱」に対しどういう態度をとるかということで、これまで管理職にしつこく質問されてきました。特に2013年2月から3月にかけては、度を越していました。私は、何回も准校長室に呼ばれ、また生徒を前にして教育活動をしている最中でも、声をかけられ問い質されました。2013年3月、高等部のい卒業式前1週間の事を述べます。

3月1日(金)1・2限目に卒業式予行のあった日の昼、HR教室で生徒と共に給食準備中、K准校長がやってきて「式場外の職務を命ずる場合について」説明し、今年の卒業式はどうするのかと質問。「わかりません、迷ってます」と答えました。どうして給食指導中にそんなことを言いに来るのですかと私が訴えるので会話のやりとりが数分ありました。肢体不自由の生徒のクラスで、大人が配膳をしながら、生徒には配膳で出来る事を時間がかかってもさせるという「給食」という授業の最中です。また、まだ複数のクラス担任で生徒のトイレ介助などで戻ってきていない人もいて、手薄です。児童生徒の支援のため職員の仕事が順調にいく様に環境を整えるべき管理職が業務妨害のようなことをするのです。

3月5日(火)朝9時5分、スクールバスで登校してきた生徒の移動の介助で。廊下途中で車いすから歩行器へ移動しようと立つ生徒の介助をしていた時、背後から「おはよう!○○君」とK准校長が生徒にあいさつの声。そして、私に対し、「どう?卒業式でどうする?考えた?」というように話しかけられる。生徒の介助中なので、焦りました。生徒から気をそらしてはいけない、そして立ち話で出来るような会話でないのに、迷惑だと思い、こんな状態だから後にしてほしいというと「11時に准校長室に来るように」と言われる。私は生徒が学校にいる間は行けないかもしれないと答えました。

3月5日(火)4時間目、教室の外の廊下でH教頭が立っていました。私を見張っているような気配でした。11時に准校長室へ行かなかったからだと思います。呼びかけず外で待っているのは、授業中や教育活動中は困ると私が言っていたことに配慮されてと思います。授業終わった後も「給食準備があるから無理です」と教頭に返事。給食が終わるころ(12時50分頃)も廊下に教頭が来ていて、私が午後の授業の準備に廊下に出ると「1時に准校長室に来るのは無理か」と聞かれるので、放課後なら行けますと答えました。13時5分、准校長がHR教室まで来る。生徒がいるので後にしてほしいと言いながらも「少しだけなら聞きます」と応じる。廊下で話。准校長「立たないなら、入学式の時のように式場外の職務命令を出します。」、奥野「脅しですか。パワハラですよ。裁判に訴えるかもしれませんよ。」と。「准校長は任務としてやっているのでしょうが、おかしいと思いませんか」等とも言いました。5分ほどのやりとり。准校長は「言いましたよ」と自分が「仕事をした」ことに念を押すようなことを言って立ち去ったと記憶します。このやりとりは教員や生徒にある程度聞こえていたはず。不安そうに見ている生徒もいました。私は職場の同僚の目にどう映ってるかも気になってきました。私を厄介な教員だとみる同僚もいるだろうなと。

3月6日(水)16時15分~16時50分。准校長室で、T校長、K准校長、H教頭と面談。意向確認されました。教頭は記録係のようです、一言も話をしません。「迷っている」と答えました。

3月7日卒業式当日。立てないと伝えたので受付業務を命じられる。受付業務終了後式場に入る。国歌斉唱時、不起立。

3月8日、小中学部卒業式予行。奥野は照明係。体育館2階ギャラリーからスポットで児童生徒を照らす係。「国歌斉唱」時、2階ギャラリーでスポットライト機材の横で座っていたのを校長は現認していたということで、式後呼び出され注意される。そして、式場外の業務を命じられる。

3月27日、処分伝達の日

処分伝達後、別室ですぐに研修がありました。受講者は2人。大きな部屋で7人くらいの府教委職員に囲まれての研修だったと思います。異常な中で人数は覚えていません。少なくとも5人はいたと思います。私語を禁止され、質問も受け付けない。研修の講師に質問をすると脇に居た職員が「黙りなさい!早くこの部屋から出なさい!なんでここに呼ばれているのかわかってるのか!」みたいに大きな声で追い立てました。

2013年入学式 4月5日

私が担任をする生徒は2年生なので入学式には来ません。それで、駐車場係ということに何の不自然もありません。式が始まる直前に遅れて車で来た保護者と新入生が自家用乗り場の出入り口から校舎内に入ろうとするとカギが掛っていました。慌てましたが、事務所側の入り口に遠回りして式場に入れたようです。駐車場係の仕事がなくなったので、私はその一か所だけ校舎に入れる事務室前から式場の方に行くと、春に転勤してきた事務の主査が鍵束を持って廊下を走っています。「国歌斉唱」が終わったから開錠しているということでした。後で、同僚の山口さんが事務室でそのことを言うと事務長が「奥野対策だ」と言っていたと聞きました。この年度、A教頭だけが残留で、T校長、K准校長、H教頭は転勤しました。「奥野対策」とやらは管理職から引き継ぎ事項としてあったのでしょうか。

これほどの排除の仕方、教育理念がなく、教育現場とは思えない人権侵害に、私は心身共に疲れます。

         


大阪「君が代」減給取消訴訟:原告の訴え

2013-09-25 15:31:20 | 「君が代」裁判

減給取消訴訟原告奥野泰孝さんの訴えを掲載します。

キリスト者として、不起立の訴え

証言 奥野泰孝(府立支援学校 高等部教諭)

わたしは今、やむにやまれず君が代強制反対の声を上げています。わかっていただきたいのは、何か運動をしようとしているとか、政治的な目標を持って行動しているというのではないということです。ただ単純に、「あかんことをあかんと言わざるを得ない状況」に追い込まれているということです。

私は美術教員です。子どもが生き生きと絵を描いたり、表現活動を楽しむのを支援しながら、自分も生き生きと表現し続けていきたいと願っています。

ところが今、学校現場はそれとは正反対の方向に向かい、管理教育が徹底してきました。自分が思い描いた教育のあり方とはかけ離れた方向のように思われます。

2001年2月、勤める高校の卒業式『国歌斉唱』事の発言で、私は2002年2月に口頭厳重注意を教育長から受けました。その時、校長から「君は仕事をかけているのかね、なにをしているかわかっているのか!」と恫喝され私は「仕事以上のものをかけています。」と言い返しました。仕事以上のものが何なのか、すぐに口から出てこなかったけれど、今も、職を失うからといって、取り下げられないと思っています。ただ、問題がなかなか解決しない時、自分が信じた言動であっても、世に受け入れられなかったり、理解者が減ってきたら孤立感が募ります。昨年1月16日の東京の君が代処分に対する最高裁判決で桜井裁判官が補足意見でこう述べています。「処分対象者はみずからの歴史観の葛藤を経て心情と尊厳をまもるため、やむを得ず不選択した。心情に忠実であろうとすればするほど追い込まれることが推測される。加重処分は懲戒制度の運用の許容範囲を超えている。」心情に忠実であろうとするほど心理的に追い込まれる気持ちをよく理解されていると思います。孤立感は苛立ちを与え、本来の動機を忘れさせます。そんな弱さの中にある時、助け手、友が現れます。そういうことの背後に神がいることを確信しています。

クリスチャンなので「国歌斉唱」時に起立できないと言うと、自己満足のために起たないのじゃないかと誤解する人もいます。確かに一般的な言い方では「宗教上の理由からできません」ということになるかと思います。しかし、それでは不十分だと思っています。「宗教上の理由から」ではなく、「信仰によって」起立できないのです。自分の信じているイエス・キリストを裏切ることになると思うからです。「その場だけとりつくろえばいいじゃないか」「卒業式の場では公務員だから国のルールに従えばいいじゃないか」と言われても、そうするわけにはいかないのです。それは、自分の主義主張や自己満足のために起立できないというのとは根本的に違っていると思っています。

憲法20条は、何人に対しても信教の自由を保障しています。これは、「何を信じてもいいんですよ」ということではなくて、国が国民に信仰、宗教を押し付けないということです。

私は32年間、大阪府の教育公務員として人権学習にも関わってきました。最初3年間はI市養護学校T分校に勤めました。筋ジストロフィーの児童生徒が多くいました。病院から通ってくる生徒に美術や図工を教えていました。

私は小中学生のころ、いわゆる「大人の言うことを聞くまじめないい子」であったのですが、大学の時から、飲酒と喫煙をはじめ、どう生きようか模索していました。酒・煙草で風邪をひきやすい状態で、養護学校に勤めて筋ジストロフィーの子どもたちと一緒に暮らしているというのは、彼らの命を脅かすことになります。風邪をひくと痰を自分で取り除けず死んでしまう子どももいるのです。煙草をやめなければと思いながら、なかなかやめられませんでした。これでいいのかなあ、と迷い出しました。T病院のナースに、「自己実現ってどういうことですか」と聞かれて、「自分がこうなりたいと思う夢を実現していくことかなあ」と答えつつ、なんか違うなと引っかかっていました。やがてキリスト教会に行くようになって洗礼にいたりました。3年後、同和教育推進校の府立N高校に転勤し美術を教えました。同和教育の担当にもなって勉強をしながら12年すごしました。教会学校で中高生に聖書を教え始めた時期でもありました。無我夢中で働いていました。その後H高校に移りました。同じ府立でも学校によって同和教育に対する向き合い方が全然違い、ギャップを感じました。やがて式典で「日の丸・君が代」がガンガン入ってきて、そんな中「日の丸・君が代」に反対して処分(口頭厳重注意)を受けました。卒業式の場で「立つ立たない」を決意することで思想信条が明らかにされてしまうので、みなさん「座りましょう」と呼びかけたからです。そういう教員生活を送ってきました。

「君が代」の強制は教員に対してだけだと命令する側は言われますが、児童生徒にも保護者にも「君が代」は強制されています(「日の丸」掲揚の場合も同じと思います)。管理職と数年前に話したところ、ルール上は生徒に立つように指導してほしい、クリスチャンの保護者が「立たせたくないと、そういう家庭教育をしている」と言って来ても、保護者を説得してほしいと管理職は言いました。本音を言ってくれたと感じました。処分という暴力で教員を屈服させ、生徒に君が代を押し付けるのは教育の破壊です。育てるというものでも成長を支援することでもない。さまざまな考えがあることが児童生徒に知らされ、少数意見にも耳が傾けられる、自分で判断する、そういう道筋が生徒に示される、そういうことが学校教育で行われるべきだと思います。話し合いに時間がかかるからと言って数で決めていく、それを指示する教育行政は間違っていると思います。

わたしは洗礼を受けてずっと二十年くらい教会学校のリーダーをしていましたが、昭和天皇が亡くなって大嘗祭が行われたりする中で、中高生に国家権力と信仰について話をしていました。住んでいるA市で、教会の有志で学校での君が代強制に反対する署名を集めて教育委員会に持って行ったりしました。公立の高校に子どもが入学したので、学校にも強制をしないでほしいと言いに行きました。県立A高校でしたが、卒業式の君が代の時、わたしの子どもの担任だけ座ってくれていました。それを見て非常にうれしかったです。そういう経験があるので、座っている保護者は見えないけれども、本当は座りたいと思っているけど立っている保護者がいたとして、教員の立場で自分が座っている姿が目に入ったら喜んでもらえるだろうなと思って座り続けています。私の「不起立」という表現は、自分自身も含め社会の少数者の気持ちを表すものであり、公共性があり、公益性のあるものであると信じます。誰にも迷惑かけない行為によって、議論が起こらず「思考停止状態」にある「君が代」強制に対する問題意識を社会に喚起し、再び対話を始めるきっかけになってほしいと願っています。「表現の自由」ということによって擁護される範囲の行為であり、全体の奉仕者として間違っていないと思っています。それに処分を加える府教委の行為は憲法21条「表現の自由」をも侵しているのではないでしょうか。

明治政府以来歌われてきた君が代は、国家神道による国民精神の統制、マインドコントロールに使われてきました。日本の教会の一部は、悔しいことに政府の見解に言いくるめられ、あるいは言いくるめられるふりをして、弾圧を逃れてきました。「あなた達は信仰を持っているが君が代は宗教ではなく国民の義務だから従うように」という見解に言いくるめられたのです。大逆事件の後からそういうことが厳しくなってきたということです。神社局と宗教局とに分けてあり、神社は宗教の分野から外して国が管理するとなっていたので騙されたんだなと思います。今の橋下徹さんや大阪維新の会が、君が代の意味や思想的な問題には議論を持って行かないであくまで公務員のルール、ルールだから守れという問題にすり替えて強制してくるのが似ていると思います。

教会学校で接していた中高生たちがもう二十代後半、三十代になっているのですが、伝道師になっていたり、教会教育のリーダーになっていたり、純粋にキリストに仕えている人たちがいるのがとてもうれしいです。自分が弱っているときにはそういう若い人たちに本当に励まされますし、自分が言ってきたことを翻せない、裏切れないという思いを強くされます。私はいわゆるノンポリで、組合ですごく頑張ってきたわけでもないのに、君が代、天皇制の強制はおかしい、日本は民主主義の国ではなかったのか、と思い、やむにやまれず言ったために2002年に処分を受けました。教育現場において少し浮いた存在になってしまいました。ある時、労働運動の集会で教育現場の報告をしてほしいと言われて、君が代反対のことを5分か10分くらい話しました。2004年でした、その時私は弱っている時だったんですが、参加者の中にH高校の卒業生がいて、当時大学生だった元H生は、集会後、メールを送ってくれました(集会主催者に)。その内容は、「何千人に1人の生徒であった私を思い出すのは難しいでしょうが、先生の授業をうけたことを思い出しました。私はあなたが話をするのを聞いて、卒業式の君が代反対運動をされていたのを思い出しました。今でも力強く続けていらっしゃることを知って心が高まりました。」彼女は大学で草の根の戦争反対の活動をしているとのことでした。こういうことがあると本当に心強いです。

これからもクリスチャン教員として「日の丸・君が代の強制は国家神道儀礼の復活、強制を意図しているから、止めなければならない」と言って行きたいと思います。この強制は、戦争責任を曖昧にし、日本の国家の道徳性を損ない、品性をおとしめている。そして、信教の自由を定めた憲法20条に反していると。「日の丸・君が代」は国体というものの性格を帯びているので偶像礼拝につながると思います。今の日本はいろいろな偶像に引っ張られています。鰯の頭も信心から、と言いますが、日本の多くの人は憲法20条を、鰯を拝んでもいいし狐を拝んでもいい、という風に取っているのではないかと疑ってしまいます。それは間違いです。偶像崇拝によって真実から目を背けさせられる、そしてファシズムにつながる。本当の信仰は思考を活発にさせるが偶像崇拝は思考停止させると思います。そういうことも今後社会に訴えて行きたいと思います。

2012年3月16日、7日の卒業式での不起立のことで事情聴取を受けました。府教委の職員が3人前にいて、横に職場の管理職がいて、30分位でした。前もってどういう考えで立たなかったかを文書で渡してありましたので、そこでは答えませんでした。付き添っている管理職に聞けばわかるのに、名前や生年月日や職歴を聞かれました。西暦でいうとしつこく元号で言わせようとしました。調書のサインと捺印は拒否しました。27日に処分言い渡しがあり、研修30分を受けました。その後意味不明の文書が示されました。誓約書と書いてなく、宛名もなく「今後私は国歌斉唱時、起立斉唱を含む職務命令に従います。」というものに署名をせよと言われました。「これは何ですか?誰あてですか?」という質問にも返答がありませんでした。書かずに出てきました。相手はそれを強制して書かせると法律違反だと知っているのでしょう。だから事実を積み重ね、空気を作るという、つまり脅しと感じました。「ルール違反をしたのは間違っているんだ」と言うだけで法的には根拠がないことは明らかです。

入学式のことですが、私は新入生の担任でしたが入学式に参加できませんでした。前々から校長に今度は立つかと聞かれていました。座ると言うと式場外の係、受付にすると言われていました。職務命令で「立ちなさい」と出ていてその時の判断で自分で決めることだから、係を決めるために確認する必要はないじゃないかと反論しても耳を貸さず、あくまでも、「立つかもしれない」では受付業務、「立つ」なら式場に入れる、という命令でした。橋下徹氏の言った「大人の知恵」とか「面従腹背」というような言葉が頭を巡り夜中の3時頃まで眠れませんでした。翌朝通勤電車の中で「座ろう」と決め、朝の教職員集合時、「座ります、でも出させてほしい」と言ったところ急遽受け付けに回されました。支援学校の担任というのは入学式で生徒の車いすを押してあげるとか、腰や肩を支えて一緒に歩くとかしないといけません。担任としての一日目の仕事なのにそれをさせてもらえず、まったくクラスに関係のない教員が介助を命じられました。式の後で生徒と写真を撮ります。この生徒たちと卒業まで担任を持ち上がっていくと考えられます。それなのに私は一緒に写れませんでした。一緒に育っていく担任と生徒という関係性を考えない、管理職の思考停止だと思いました。死とはコミュニケーション不全だと思います。神との断絶が死であるなら、人との断絶も人間関係の死であると思うときに維新の会がしていることは教育現場に死を持ち込んでいる、管理職と一般教員の断絶、生徒と教員の断絶、保護者と教員との断絶を図っている、命令と処罰で人間社会を作っていこうとしていると思います。「人は分かり合えない」というニヒリズムから出発しては教育は出来なと思います。

5月23日に戒告処分の取り消しを求めて申し立てを府の人事委員会にました。府教委のしていることは憲法違反であると言いました。憲法20条違反をも訴えます。私は記者会見をして、報道されました。名前を顔が知られたのでネット上で「反日活動家」と書かれ、「朝鮮へ帰れ」とか、「こんな教員は養護学校へ転勤させろ」とか、何重にも差別が露わになりました。インターネット上の空気はこの国の空気であって、憎悪の言葉は悪魔に支配されているようです。

2013年3月の卒業式で、私は「不起立」で減給処分を受けました。職務命令違反2回目と数えられました。条例で職務命令に3回違反すると免職にするとなっています。私は、この処分にも「不服申立」をしました。審理は進んでいません。この二つの処分が間違いであると証明されることを願っています。

2012年7月には支援をしてくれる人が集まって「奥野さんを支える叫ぶ石の会」を作ってくれました。キリスト者、同僚のネットワーク、十数年前から組合の枠を超えて一緒に闘ってきた人たち、大学時代の友人も加わってくれました。このようなネットワーク、人間の関係性が成長していくということはすごくうれしいことです。支援学校に勤めていると、障害をもっていたり、病気が進んでいったりする子どもたちがどのように学校教育を過ごしていくかということを考え、人間関係をどのように発達させていくかが大事だと強くい思うようになりました。それで、そのことが自分の身にも起こっていることがすごくうれしいです。そのような人の繋がりを作って行きたいと思っています。神まかせです。神の義を問うていきたいと思います。

私は、支援学校で仕事をしながら思うのですが、特別支援の教員が不起立であるというのは、府立高校の教員が不起立であるのとはまた意味合いが少し違っているのではないかと思います。

私は高校に二十二年間勤務したあと、支援学校に転勤しました。その現場で思わされたことは、「本人の努力で何かをできるようになる、あるいはできるように支援すること」が支援学校の教育ではなくて、「仲間と一緒に関係を深めながら、できないことができるようになる、お互いにわからなかったことがわかるようになる、それが大事なことではないかということ」でした。そしてそれは決して支援学校だけのことではなく、どの学校でも求められる教育ではないかということでした。

それは私に、イエス・キリストの教会の在り方を思い出させます。教会が家族として共に支えあいながら成長していくように、強い者が勝つとか、力のある者が勝つ、競争はそのためにあるんだという社会ではなくて、正しいから認められる、正しいから前進する、そのような社会こそ目指すべき社会ではないかと思うのです。そしてクリスチャンはキリストの十字架を通してそのようなDNAを受け継いでいるのではないかと思います。

とはいえ私は弱い人間です。不安に襲われ、孤立を恐れています。「管理職の言うこと、教育委員会の言うことはあなたの責任ではないんだから、言われたことをしたらいいんだ」という声に負けそうになることもあります。事実、不起立という決断も、迷いに迷ってのことです。

斉唱の強制というのは、そういう恐ろしさを持っています。「たかが三分間立ってるだけじゃないか」「口パクでも歌った真似をすれば処分は受けないじゃないか」という声が聞こえます。でも、そのようにして自分の良心を裏切ることの小さな種が、私をどのようにしていくかというのは恐ろしいです。

この問題は私にとって政治の問題でも宗教の問題でもなくて「教育」の問題であり「信仰」の問題なのです。

(2013年9月8日)

 


大阪「君が代」減給取消訴訟:記者会見時資料

2013-09-25 15:22:53 | 「君が代」裁判

 昨日(9月24日)大阪地方裁判所に提訴した奥野泰孝さん「君が代」減給取消訴訟記者会見時に配布した資料を掲載します。

君が代斉唱時不起立についての減給処分に対する取消訴訟の提訴について

1 本件処分に至る背景と最近の動き、不起立者に対する処分の概要

学習指導要領の改訂(1989) 入学式・卒業式に、国旗を掲揚し、国歌を斉唱するよう指導するものとされた国旗・国歌法の制定(1999・8施行)「君が代」が国歌とされる。しかし、法制定当時の国会の論議では、この法律の制定によっても君が代の起立・斉唱等を強制するものではないとされた。

しかし、以後、全国的に徐々に教育現場を中心にしめつけが強化、それまで行われていた教員、生徒、PTAなどによる自由な形式の自主的な入学式・卒業式が姿を消していく。

府国旗・国歌条例(2011/6施行) 公立学校の教職員に式典時の君が代の起立斉唱を義務づける全国初の条例、府教育長通達(2012(H24)1/17付け)本件処分―職務命令の根拠とされる府職員基本条例(2012/4施行) 同一職務命令違反3回で標準が免職処分に

府教育長通知(2013/9/4付け)君が代斉唱時の起立・斉唱の有無について、個別に目視確認、結果報告を求める

君が代斉唱時の不起立者に対する懲戒処分、不利益扱い

2012年 戒告処分37名 再任用不合格・更新拒否2名 

戒告処分者のうち現在、7名が府人事委員会に異議申立-

係争中 まだ1名が今夏第1回口頭審理に入ったのみ

2013年 戒告処分4名、減給処分3名、再任用拒否4名(ダブりあり) 

20名近い弁護団、各支援団体が結成

 

2 本件提訴における当事者と処分の概要、理由

原告 奥野泰孝(現府立支援学校教員)

現56歳、1981.4府立学校教員として採用、勤務

 2012.3/27付け戒告処分→異議申立て、現在人事委員会で係争中

2013/3/27付け減給処分(1月分の給与及び地域手当合計額の1/10

の減給)→異議申立―現在、府人事委に係属中

処分理由

①教育長及び校長による、国歌斉唱時の起立斉唱を命ずる職務命令に違反

②当日の准校長による場外での受付業務命令を中途で放棄して式場内に入り、退出指示に従わず、式典の秩序や雰囲気を損なった

③昨年の卒業式も不起立で戒告処分をうけたにも拘わらず、今年も職務命令違反を繰り返した  もので、

公立学校教員として、全体の奉仕者たるにふさわしくない非行であり、職の信用を著しく失墜するものである

 

3 本件訴訟の内容

相手方 大阪府

請求の主な内容

 ①府は、今年3月27日付けで府教育委員会が原告に対して行った1月間給与及びこれに対する地域手当の合計額の1/10の減額処分の給与及び地域手当合計額の1/10の減給処分を取消せ  

②府は、昨年の卒業式、今年の卒業式及び入学式、並びに処分通達後の研修における学校管理職、及び府教育委幹部らによる一連のいやがらせ、違法なパワハラ行為により原告が蒙った精神的損害について、慰謝料200万円を支払え

理由 

処分取消訴訟について

①学校式典における君が代斉唱時に起立斉唱を命ずる府教育長による

各教職員宛通達(H24.1.17付)は、教育課程の一環である卒業式・

入学式の具体的な実施方法に関するものであって、本来教育現場で決

めるべきものであり、教育長は、教育内容について、個々の教員に対

する関係では権限ある職務上の上司にあたらないから、本件職務命令

は無効である。

②上記教育長及び学校長が職務命令により起立斉唱を義務づけること

は、日の丸・君が代がアジア・太平洋戦争において侵略の尖兵として

果たした歴史的役割も考えると、クリスチャンである原告の思想・良心

の自由、信教の自由を侵害して、その価値感に照らしてできない事を強

制するものであり、また、子どもが自由かつ独立の人格として成長する

ことを妨げ、子供たちの学習権を侵害するもので、違憲・違法であり、

原告は、憲法尊重擁護義務を負う公務員として、違憲・違法な職務命令

に従う義務はない。

③本件では、原告は不起立のみで式典の進行を妨げておらず、本件減給処

分は、日の丸・君が代訴訟における一連の最高裁判例の判断枠組に照ら

しても、行政庁の裁量を逸脱したものとして違法である。

国家賠償請求(慰謝料請求)について

   式典において、君が代演奏時に起立斉唱するか否か、事前に執拗に意

思確認を迫り、回答を保留すると、式当日朝、式場外の受付業務を命

じ、同業務終了後、式場内に入った原告の前に立ちふさがり、起立斉

唱するように、また会場外に出るよう迫るなどの学校管理職の行為、

及び処分後の研修における府教委幹部の言動は、公権力の行使に際

し、違法に原告の権利を侵害するものである。

 

4 本訴訟の目的と意義

近年、府教委は、卒業式・入学式における君が代斉唱時の起立斉唱を職務命令を発してまで強制し、これに従わない者を戒告等の懲戒処分にすることにより、教育現場を萎縮させている。

また、再任用選考に当たっても、総合的判断のもとに、不起立者を事実上、再任用者の対象からはずすなどの不利益な扱いを行っている。

また、府職員基本条例の施行により、不起立教員らは、今後同一職務命令違反累計3回で、標準的な処分が免職とされ、今回のような加重処分が積み重ねられると、今後、現実に免職処分とされて職を失うおそれもでてきている。

府の「国旗・国歌条例」、教育長の通達、学校長の職務命令、その職務命令違反による懲戒処分、これらは憲法19条、20条、21条に違反するものであることを訴え、これら一連の条例、通知、職務命令、処分を無効とすることを求める。

一方、昨年の戒告処分に対する異議申立では、一年以上経っても人事委員会での審問がほとんど始まっていないなど、審理が停滞し、有効な救済策たりえていない。

一方で、直近報道に見られるように、2013/9/4府教育長通知で、起立・斉唱しているか否かについて個別に目視で確認、結果報告を求めるなど、ますます府教委は異常な監視体制をとって、各学校長へのしめつけを強化し、不起立者のあぶり出しをしようとする動きが加速している。

そこで、今年3月末の戒告処分に対し、5月中旬に異議申し立て受領後、3ヶ月が経過した現在、近い将来、多数の現職教員らによる処分予防訴訟の提訴も視野に入れて、この問題で初めて府立学校の現職教員として減給処分を受けた原告が、まず処分取消訴訟を提訴し、早期に地位の保全を図るとともに、引き続く学校管理職や府教委による嫌がらせ、パワハラ行為を牽制・根絶し、ひいては生徒一人一人の個性を尊重し、明るく伸びのびした教育現場に再生させるためにも、国家賠償請求も起こすこととしたものである。

4 添付資料・・・原告の思い「キリスト者として、不起立の訴え」

5 提訴当日配布の資料

①訴状  ②パワハラについて


緊急抗議声明:憲法違反の「口元チェック」通知を撤回せよ

2013-09-25 14:29:49 | 大阪ネット

昨日(9月24日)、私たち、グループZAZAならびに「日の丸・君が代」強制反対・不起立処分を撤回さえる大阪ネットワークは、口元チェック通知に対する緊急抗議声明を、大阪府教育委員会に提出しました。

【抗議声明】

憲法違反の“口元チェック”通達を撤回せよ!

―教師と生徒の

 「内心の自由」と「教育の自由」を守れー

 

大阪府教育委員会 

隂山英男委員長様

中原 徹教育長様

『日の丸・君が代』強制反対・不起立処分を撤回させる大阪ネットワーク

(代表:黒田伊彦)

グループZAZA

(「君が代」不起立処分に対し、人事委員会に不服申立をして闘っている当該11人のグループ)

2013年9月24日

連絡先:「日の丸・君が代」強制反対・不起立処分を撤回させる大阪ネットワーク

事務局長:山田光一(072-841-5315 )

  大阪府教育委員会は、2013年9月4日教育振興室長名で、9月に卒・入学式を行う府立学校に「平成25年度秋季卒業式及び入学式の実施について」と題し、「国歌斉唱時の教職員の起立斉唱については、別添『入学式及び卒業式等ににおける国歌斉唱の対応について』を遵守し、対応すること」を含む通知を出した。この通知は高等学校・支援学校の全府立学校にも出され、いわゆる「口元チェック」を徹底せんとするものである。

1 “口元チェック”は最高裁も認めない「直接的制約」である

  最高裁は、「職務命令による『君が代』の起立・斉唱の強要は、歴史観・世界観にもとづく思想・良心への間接的制約となるが、慣例上の儀礼的所作であり、直接的制約にならない」旨を判示している。が、しかし、起立しても口パクではなく、声を出して歌っているかどうかの点検は、思想・良心への直接的制約であり、憲法第19条の『思想・良心の自由』に反する明らかな人権侵害である。

  2009年9月9日の大阪高裁判決は、「・・・とりわけ『歌う』という行為は、個々人にとって情感を伴わざるを得ない積極的行為であるから、これを強要されることは、内心の自由に対する侵害となる危険性が高い。従って、『君が代』斉唱しない自由も尊重されるべきである。」と述べている。この確定判決を、大阪府教育委員会は遵守すべきである。

2 「目視による現認と報告」は、『思想・良心の自由』を侵し、個人情報保護条例に違反する

 (1)  中原徹教育長が9月に作成すると称していた『君が代』の起立・斉唱に関する“客観基準”であるとする「別添 入学式及び卒業式等における国歌斉唱時の対応について 平成25年9月4日」において、「2 校長・准校長の職務」として「(1)入学式及び卒業式等において国歌斉唱を行う際は起立により斉唱するよう教職員に対し通達を行っており、この趣旨を徹底するよう職務命令を行う。」としている。

  だが、「国旗・国歌法」にも「君が代」の起立・斉唱義務はない。また、府教委が「1 根拠法令・通知」としてあげる学習指導要領には、生徒に「国歌を斉唱するよう指導するものとする。」とあるが、生徒も教職員も起立し斉唱する義務は規定されていない。

  さらには、府教委が「1 根拠法令・通知」としてあげる、2011年6月13日施行の「大阪府の施設における国旗の掲揚及び教職員による国歌の斉唱に関する条例」は、1976年5月21日の最高裁による「旭川学テ判決」の「教育内容への国家的介入の抑制法理」にも反するものである。「旭川学テ判決」は、「政党政治の下で多数決原理によってなされる国政上の意思決定は、さまざまな政治的要因によって左右されるものであるから、本来、人間の内面的価値に関する文化的営みとして、党派的な政治理念や利害によって支配されるべきでない教育に、そのような政治的影響が深く入りこむ危険があることを考える時、教育内容に対する右のごとき国家的介入については、できるだけ抑制的であることが要請される。」と判示した。

  教育活動としての入学式及び卒業式での、教職員への「君が代」起立・斉唱義務を強要する上記の大阪府の条例は、法的安定性をもたず、「旭川学テ判決」に反するものである。また、この条例は、「思想・良心の自由は、これを侵してはならない。」という憲法第19条と、「一切の表現の自由は、これを保障する。」とした憲法第21条に違反しており、この憲法に違反する上記大阪府の条例は、無効と知るべきである。

(2) さらに「教職員の起立と斉唱をそれぞれ現認する。現認については、“目視”により、教頭・事務(部)長が行う」としている。事務(部)長には、教職員の教育内容にかかわる起立・斉唱行為に関与する権限はない。目視により「口パク」でなく、「歌っていた」と確認できる保障はない。だから「総合的に現認」するとして、生徒や保護者・来賓等による「密告」が奨励されるのだ。相互監視の暗黒社会の到来である。今まで起立することで、斉唱していると見なしてきたが、別々にその対応を現認せよということである。

(3) それ故「実施状況について報告する」内容の例示として別紙3に職・氏名と共に「起立斉唱していない」、「起立していたが不斉唱」などが示されている。これは、大阪府の個人情報保護条例の第7条の「5.実施機関は、次に掲げる個人情報を収集してはならない」として「思想、信仰、信条、その他の心身に関する基本的な個人情報」をあげていることに反している。「君が代」の起立斉唱が「思想・信仰・信条」に関係していることは論を待たないのである。また前掲の大阪高裁の判決でも「『君が代』という国家が担ってきた戦前からの歴史的役割に対する認識や歌詞の内容から、『君が代』に対する負のイデオロギーないし抵抗感を持つ者が、その斉唱を強制されることを思想・信条の自由に対する侵害であると考えることには、一理ある」と判示しているではないか。

3 「密告」「相互監視」の暗黒社会をつくり出す「総合的現認」

 通知は「3 不起立・不斉唱の判断基準」として、「公務員の起立斉唱を求める職務命令の主旨は、・・・公務員として誠意ある姿勢・態度を客観的に生徒・保護者を含む府民に示」すことにあるとしている。これは、校長等管理職の職場支配が貫徹していること、即ち「悪法も法なり」と命令に絶対服従の軍隊的統制秩序が確立していることを示すということである。教職員は、己の良心を捨て権力の奴隷になれということである。教育がEducationといわれ、Educe(=隠れた自分の力を引き出す)という語義からきていることから見ても、子どもが社会に多様な価値観があることを学び、その中で自主的に考え、自らの思想・良心を形成しつつ、自由かつ独立の人格を発達させる場が学校である。そのためには、教師に教育の自由が保障されなければならない。教育の自由とは、思想・良心の自由、学問の自由が保障され、侵されない中で、育まれるものである。戦時中の教育勅語と治安維持法体制下の権力の走狗に、教職員を貶めてはならないのだ。

   更に、「起立行為または斉唱行為の一部だけを取り上げ形式的に判断するのではなく、各職員の起立または斉唱行為を総合的に現認し」としている。総合的に現認するとは何か。目視による現認だけでなく「総合的」という文言によって、教職員、生徒、保護者、来賓の議員等の「通報・情報提供」という「密告」、世にいう「チクリ」を判断の根拠にする危険性があるといえる。府立高校で、大阪維新の会の府会議員の「歌っていない教師がいる」との校長への通報により、本人を問いただし、「唄っていなかった」と自白強要まがいのことをして、厳重注意処分をした事例があるからである。密告、相互監視で教職員間に分裂と対立をもちこみ、教育活動本来の協働性・集団性を破壊し、相互不信をつくり出す危険をもっている。そして教師集団だけでなく、保護者、生徒らと教師の間に相互不信が生まれ、人格形成上由々しき状況をつくり出す危険がある。

   また判断基準として、「十分な誠意ある姿勢・態度を各職員がとっているか否かという観点で判断すべきである」としている。誠意とは、「私欲のない、邪曲のない純粋なこころ」「邪曲とは、よこしま。不正。非道」と広辞苑では語義解釈されている。すなわち誠意ある姿勢・態度とは、「私欲による不正やごまかしをしない」との意味になる。風邪でマスクをし、頭痛のため手で頭をおさえたり、気分が悪く下を向いていたりすると、故意に「目視」を妨げている行為と見なすという意味にとれる。マスクも、目視されないで、処分をのがれる「私欲」=自己防衛の誠意なき行為と判断されるのである。誠意ある姿勢・態度が、身体的行為の画一化により、身体的苦痛を強制する人権侵害になることや、更に「誠意ある」行動の判断が客観的でなく、きわめて主観的になることの危険性を持っている。この恣意的な支配の論理は、許されるべきものではないことは明白である。風邪をひいて、人にうつしてはならないとマスクもできないのは、憲法第18条の「何人もいかなる奴隷的拘束も受けない」との条項に反する、即ち憲法違反である。

4 教師の率先垂範の強要による天皇と国家への忠誠表明の観念を子どもに注入する誤り

 自主性と集団的協調性を重んじる特別活動の中で卒・入学式のみ行動を規定し、教職員の起立と君が代斉唱の有無まで点検する目的は何か。それは、①教員に、「率先垂範」させることで、起立斉唱が無条件に正しいこと、当然のこととして子どもたちに信じ込ませ、観念させる。②不起立の教員を処分することで、「不起立は悪いこと」と信じ込ませる。③このことは国家・公権力の命令は絶対的なもの、国家は誤ったことはないという観念を刷り込んでいく。④儀式のもつ同一行動の集団的拘束性は、同調強制の精神的圧力となり、集団心性を創り出す。それは個々人の思考停止をもたらし、命令に対し無条件反射的な行動をとらせてしまう。⑤「君が代」斉唱時の直立不動による緊張と醸し出される静寂さ、厳粛性は、「君が代」の歌詞にあるように、天皇制のカリスマ性を増大させる「感情の共同体」(有本由紀)の一体性を作り出す。⑥それは戦時中の皇国史観、国家神道による「現人神天皇」への忠誠表明という宗教性をもった「君が代」の起立斉唱行為を引き継いだものである。⑦教育勅語による教育体制の中で強制されてきた起立斉唱の行動が、「慣例上の儀式的所作」とされ、大多数の人々の社会通念上の行動パターンとされている。その為、異論をもつ少数者は「異端者」「非国民」として排除しても、その人権侵害に「痛み」を感じなくなり、むしろ、目の上のタンコブのように迷惑視する。

 「君が代」は、天皇の治世の永続を願う歌である。「君が代」斉唱は天皇を通じての国家への忠誠表明であり、国家は正義の体現者であり、誤らない絶対的なものだとの観念を植え付けるものである。大阪府のいわゆる「君が代条例」には「教職員による国歌の斉唱について定めることにより、府民、とりわけ次世代を担う子どもが伝統と文化を尊重し、それを育んできた我が国と郷土を愛する意識の高揚に資する」とある。即ち子どもに愛国心と郷土愛を教え込む為とされている。これは次のように憲法26条(教育を受ける権利)13条(個人の尊厳)に反するものである。1975年5月21日の最高裁判決は「殊に個人の基本的自由を認め、その人格の独立を国政上尊重すべきものとしている憲法の下においては、子どもが自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような国家的介入、例えば誤った知識や一方的な観念を子どもに植え付けるような内容の教育を施すことを強制することは、憲法26条、13条の規定からも許されない・・・」とも言及しているのである。

 憲法99条では、「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し、擁護する義務を負う。」とし、15条では「すべての公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない。」と規定している。これは教職員の実践指針である。

5 「口元チェック」通知を撤回せよ!教育への強権支配を弾劾する!

・憲法違反の「口元チェック」通知を撤回せよ!

・教育への強権支配を弾劾する!

・教育に自由を! 子どもに希望を! 

 口元チェックの強要は戦争する国とする安倍改憲策動の先駆けである。

 「天皇を戴く国」とし、天皇元首化、国旗国歌尊重義務、国防軍と国民の国防意識、「敵」を意識させる領土教育等、安倍政権の改憲策動と結びついた「教育再生」政策と闘おう。

「日の丸・君が代」強制反対。処分撤回の闘いを強めよう。

教育委員会会議にもかけず、一片の通達で教育の強権支配を策するのは、ナチスが議会の多数決によってワイマール憲法に反して、法律を行政がつくり執行する「全権委任法」の下でユダヤ人を虐殺した同じ手法であり、麻生発言の実践であるともいうべきものである。憲法停止、精神の戒厳令状況をうち破ろう。