彼の遺影としてよく使われている写真です。ワイシャツの襟が背広にはみ出ていて、背広、ネクタイになれていないことを如実に示しています。彼は革命第一世代の中では若いほうですが、それでも第一世代で、1927年の北伐から革命に参加したので、背広には慣れなかったのでしょう。彼の師匠であるトウ小平は背広は着ませんでした。胡耀邦の相棒というか弟弟子のような趙紫陽はゴルフをするまでになりました。
胡耀邦は1987年党書記を辞任し、1989年4月に病没しました。彼の辞任はトウ小平が考えていた以上に改革をやろうとして意見が合わなかったのが遠因だろうと私は想像しています。1989年4月には天安門事件が始まり、同年6月4日に大弾圧がありました。結果として胡耀邦の相棒の趙紫陽は失脚し、江沢民が書記になりました。胡耀邦は4月に病没したので、趙紫陽のように不遇をかこつことはなかったのですが、もし生きていたら現在のように共青城に葬られたり、故居を保存されたり、記念館を建てて貰っていたかどうか判らないと思います。
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胡耀邦は1987年党書記を辞任し、1989年4月に病没しました。彼の辞任はトウ小平が考えていた以上に改革をやろうとして意見が合わなかったのが遠因だろうと私は想像しています。1989年4月には天安門事件が始まり、同年6月4日に大弾圧がありました。結果として胡耀邦の相棒の趙紫陽は失脚し、江沢民が書記になりました。胡耀邦は4月に病没したので、趙紫陽のように不遇をかこつことはなかったのですが、もし生きていたら現在のように共青城に葬られたり、故居を保存されたり、記念館を建てて貰っていたかどうか判らないと思います。
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記念館にある胡耀邦陵墓の1/2の模型です。実物は江西省共青城にあります。胡耀邦は中国共産主義青年団の書記をしたことがあり、没後に共産主義青年団が江西省九江市に建設した共青城という街の外れに陵墓を造って葬られました。以前お話したことがありますが、私はこの実物の陵墓を見たことがあります。見晴らしのよい小高い丘の上にこの模型のような形の墓があり、天安門の前でガラスのケースに入って毎日大勢の人に見られるより胡耀邦の方がずっと安眠出来そうに思いました。
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