まい、ガーデン

しなしなと日々の暮らしを楽しんで・・・

笑ったり泣いたり

2006-10-26 11:10:56 | Weblog

発作をおこした日から、父はメモを書いている。記録魔だからね。メモ帳と筆記用具と電子辞書と時計は必需品。看護師さんには、血圧や体温は本人に教えてくれるように頼んだ。おかげで私は、症状が手に取るように分かる。

1日、2日目は文字も出てきにくかった。書いた字はミミズがのたくったようなやつで・・・不思議なことだが漢字やカタカナは案外書いている。友人には、戦艦の名前をづらづら書いて見せていた。友人は驚いていたが、あれしか書けなかったというのが事実。
2日目に行ったとき、ようやく、50音を書いているが、マ行がどうしても思い出せず看護師さんに聞いたと言っている。発音をチェックすると、カ行の発音が出てこない。医師は、カ行がいちばん発音しにくいのだと説明してくれて、すとんと納得したわ。

父のメモは詳細で、大小の回数から、どの看護師が何時から点滴を始めたまで、もちろん時間ごとの血圧、体温、食事のメニューも。お見舞いに来てくれた人のことも、その他もろもろである。
私は見舞いに行くたびにリハビリの意味でそれを読んで貰った。父の話し方は、小学生が自分の作文を読むような感じ。吹き替えの宇宙人のような感じ。でも、そうやっていくうちに言葉が出てくるようになるのね。人間の体の神秘をつくづく感じた次第で・・・・

実家の甥夫婦がお見舞いに来てくれたとき、「稲刈りの忙しいときに心配かけてすまない。ありがとう。」とゆっくり言って涙ぐんでいた。私ももらい泣きしてしまった。そしてメモに『92歳まで自由に生きた。これからはおまけの人生だ』と記して見せた。
えーーーーーっ!!今まではおまけじゃあないのか、十分おまけじゃないの。と私たち3人は大笑いをした。イヤー、参った。これだもんな、父は寂しくもないし、毎日が退屈でないと言うはずだわ。生きる意欲が旺盛だ。
退院したとき、私は父に「もし栄養補給のために管を入れなければいけなかったらどうする?」と聞いたら「今のような症状だったら付けてください。寝たきりになったら付けなくてよい。そう理解してください。」と言った。私は、本当に浅はかだった。馬鹿だった。よかった!飢え死にさせなくて。

誰かがお見舞いに来てくれるたびに父は「心配かけた。ありがとう。」と涙ぐんで、退院日が決まると、ふたりして「よかったね。」と泣いて・・・
まあ、よく泣いたものだ。本人はうれし涙、感激の涙だといっていたが。。
新潟から母の弟がお見舞いに来てくれて、父のことを「鉄人だね。」と感嘆していたがまさにその通りだった。自分の強い意志で真面目に言葉の練習をし、看護師さんがとても92歳には見えないというくらい何にでも興味を示し、2週間の入院生活で無事に退院することができた。

退院後、1週間。お隣の人が貸してくれた絵本を大声で読んでリハビリに励んでいる。デイサービスに行く手続きをして通うことにもした。母と上手くコミニケーションが取れないことが心配だが、それはもう二人に任せるしかない。基本は二人が生活していかなければならないのだから、私が間に立つことは止そうと思っている。
今回は、母も本当によくがんばった。本人なりにできることを精一杯やっていた。(実のことをいうと、母の方が認知症が始まったようなので心配なのだが)私をイラつかせなかった。感謝!

帰る前の日の夕ご飯のとき、父は
「長い間お世話になりました。本当にありがとう。言葉のリハビリに励みます。○お君によろしく伝えてください。」と作文口調で言った。(話し言葉は言えないのよ。)
母も「○子がいなかったらどうなっていたことか。長い間世話になったや。」と、そしてその言葉のソバから「また、はよ来てくれや。」だって。私はうるうると涙がにじんで困った次第で・・・
お茶がむせました。
突然の事態に長い間留守番をしてくれた夫にも感謝、だね。

 

コメント
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