電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

伊坂孝太郎『重力ピエロ』を読む

2010年02月23日 06時18分47秒 | 読書
新潮文庫で、伊坂孝太郎著『重力ピエロ』を読みました。なるほど、今話題の作家だけあります。けっこう興味深く読むことができました!

春が二階から落ちてきた。

この一文で始まる物語は、最後、同じ文で完結します。なかなか粋な、というか、よく工夫された構成です。

レイプ事件によって妊娠し、生まれた弟。父親は妻を愛し、兄弟を分け隔てなく育て、接します。なんとも魅力的な父性像ですが、残念ながら癌の再発で入院中。そこに連続放火事件が起こり、遺伝子を扱う、兄・泉水の勤務先もボヤに遭います。落書き消しを業として営む弟・春は、連続放火とグラフィティ・アートの間に関連を見出し、兄を張り込みに誘います。兄が扱った客の一人で、葛城という男が実は……、というふうに物語は進みます。

連続放火事件とグラフィティ・アートとの関係が、二重らせんのG(グアニン)とC(シトシン)、T(チミン)とA(アデニン)の関係を投影しているというあたり、つい数十年前にはあり得なかった素材です。平凡だが偉大な父と、あまりにも美人であるために不幸を招いてしまうような母と、論理的で凝り性な兄と芸術家肌の弟という四人家族の、遺伝子決定論に対する挑戦の物語。

生物学的な事柄に関しては遺伝子決定論も力を持ちますが、社会的・文化的な問題については、必ずしも遺伝子の連続性が大事とは言いきれません。よく継母が子供を虐待し、可哀想な子供が本当の母親を慕って泣く、というメロドラマのパターンがありますが、実際にはどうなのでしょう。子供のいない、あるいは子供を失った親が、養子を迎えて養育し、普通の家族関係を築いている例はたくさんあり、その数は、児童虐待の例よりもはるかに多いだろうと思います。児童虐待についても、たぶん「継母→子イジメ」なんじゃなくて、「経済的貧困→子イジメ」なのでは。その意味では、著者の提起した「家族の絆は遺伝子の連続性じゃないよ」には共感するところが大です。

ただし、この小説では同害報復の論理が展開されているけれど、現実には誰が真犯人かは不明確でしょうから、無実の人間に罪を着せてしまう冤罪の可能性があると思います。実際は、真犯人が明確である小説だから可能な筋立てなのでしょう。

まあ、いかにも理屈っぽい理系の石頭ならではの感想で、我ながらしょうもないと思いつつ、『重力ピエロ』の映画を見たかったなあとつぶやいております。
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