電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

お雇い外国人教師の活動

2014年11月13日 06時09分42秒 | 歴史技術科学
来日したお雇い外国人教師たちは、不案内な東洋の島国の、風俗や習慣もまるで異なる東京の町で、サムライ青年たちが中心となる若者たちに、それぞれの教育を始めます。

福井で実験室を作り化学教育を行っていたグリフィスは、廃藩置県で職を失い、東京に出て来た開成学校に化学実験室はなく、作られるという見通しもなく、途方に暮れたことでしょう。おそらく、まもなく帰国してしまった理由は、そのあたりにあったのではないかと推測しています。

後任として化学を担当したアトキンソンは、ガスも水道もない開成学校で、実験を通じて化学を学ぶという、リービッヒから師ウィリアムソン教授につながる教育のスタイルを実現しようと奮闘します。幸いに、直訴した伊藤博文らの応援などもあって、少しずつ実験室を整備し、教育と研究ができるようになっていきます。開成学校において行った授業は、定石通り定性分析から始めて定量分析に進みますが、当時の鉄鋼業の中心地ニューカッスルに育った人らしく鉄鋼の分析など冶金学の授業も行ったようです。彼の下からは久原躬弦、高松豊吉など36名の化学者が育ち、のちに彼らが中心となって東京化学会が設立されます。1878(明治11)年のことです。


(写真は工部大学校)

一方、工部大学校(*1)のダイアーやダイヴァースらは、近代的工業の存在しない日本で、母国イギリスでもまだ行われていない体系的な工業教育を開始します。とくにダイヴァースは、開成学校と比較して格段に優れた工部大学校の環境と優れた学生たちに恵まれて、1873(明治6)年から1899(明治32)年まで、26年間1度も日本を離れずに滞在しています。彼は、学生たちの間に研究の精神を養うことに努力し、実験を通じて地道に検討していくスタイルと気風を重視しました。工部大学校化学科で卒業した教え子は23名、1886(明治22)年に工部大学校が帝国大学に合体した後は、今風に言えば工学部ではなく理学部化学科に転じますが、ここでの卒業生が36名を数えます。教え子たちの名前の中には、アドレナリンとタカジアスターゼの高峰譲吉、下瀬火薬の下瀬雅允などが見られます。

しかしながら、高い給料を貰っているとはいうものの、故国を離れ、かつての仲間たちから取り残されていくような感覚を、彼らは感じたに違いありません。そんな空虚感をまぎらすかのように、明治初期の日本にいるからこそできるテーマを見つけ、研究をすすめ、発表を行っています。例えばダイヴァースは、次亜硝酸塩の発見やセレンとテルルの分離法など化学史上に残る成果をあげている化学者ですが、セレンやテルルの化合物の研究は下瀬雅允との研究であり、河喜多能達と雷酸塩の研究を、清水鉄と無機硫黄化合物の研究を行い、ロンドンの化学会誌に多数の報告を行っています(*2)。また、日本固有のテーマとして、「草津温泉の硫化水素の量」や「日本に落下した二つの隕石について」など6編の報告を行っている(*3)とのことです。

アトキンソンもまた、1878(明治11)年に「The Water Supply of Tokio」という報告を発表しています。これは、大都市東京の上水道の水質を化学分析して科学的報告にまとめあげた(*3)もので、木製の樋を継ぎ合わせ、縦横に引いた水路の腐食により、上水の水質が雨水や下水等の混入によって悪化する理由と実態を明らかにしようとするものでした。江戸時代にしばしば流行したコレラや赤痢などの伝染病の経路を考えれば、実に重要な研究と言えます。これらの研究の進展を目の当たりにした学生たちの意識は、確実に変化していったことでしょう。時代的な条件を考えれば、化学技術は主として殖産興業のために用いられたことは確かでしょうが、現実を重視し実地に行われる化学研究と教育は、当初の目的にとどまらず、別のリアルな現実認識をも生み出してしまうという性格があるからです。この点、渡良瀬川流域の鉱毒調査を行った古在由直のところで、再び取り上げることとしましょう。

(*1):工部大学校~Wikipediaの記述
(*2):井本稔『日本の化学~100年のあゆみ』(1978,化学同人),p.29
(*3):塩川久男「お雇い外人教師ーグリフィス、ダイヴァース、アトキンソンー」、『科学と実験』1978年11月号、p.40-43,(共立出版)


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