電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

明治初期における科学・技術に関する専門的教育の状況

2014年11月14日 06時02分10秒 | 歴史技術科学
ここまで、開成学校と工部大学校を中心に、リービッヒ流の化学研究と教育のスタイルがどのように日本に伝えられたかを見てきました。この際ですので、明治初期の日本国内における科学・技術に関する専門的教育の状況を整理してみたいと思います。

明治維新のあと、国内の体制を固めるのにおおわらわだった明治政府ですが、人材育成に関しても、今で言う省庁ごとにバラバラで、統一的な教育政策のようなものは見られません。

例えば、1870(明治3)年に、民部省の一部が独立して設置された工部省には、山尾庸三の建白によって、殖産興業を担う人材育成のために、1871(明治4)年に工学寮が設置され、1873年に工部大学、1877年には工部大学校となります。残された写真を見る限り、石造りの実に立派な建物で、普通教育を行い留学生を送り出す役割を担う開成学校よりも、格段に立派です。開成学校を現在の東京大学のイメージで見るのは誤りで、工部大学校を大学レベルとするならば、開成学校は高等学校あるいは昔の教養部のような位置づけだったのでしょう。


(東京医学校)

江戸幕府時代の医学所は1868年に明治政府に接収されて医学校となり、1869(明治2)年には英国人医師ウィリスを教師に迎え、教育を開始します。1871(明治4)年には大学校の内紛に伴う閉鎖や、イギリス医学からドイツ医学への転換などがあり、1872(明治5)年の学制により第一大学医学校、次いで1874(明治7)年に東京医学校となります。1877(明治10)年には東京開成学校と統合されて東京大学となります。このあたりの、とくにウィリスの処遇とその後の影響については、吉村昭著『白い航跡』にかなり詳しく描かれており、興味深く読んだものでした(*1,2)。かつての東京医学校の建物は、小石川植物園内に移築されているそうです。

明治19年に官立学校の大合併で帝国大学が成立する以前に、「学士」の称号を与えることができた高等教育機関には、医学校と開成学校が合併した東京大学と、司法省法学校、工部省工部大学校、農商務省駒場農学校、そして開拓使札幌農学校の五つがありました。フランス風の法学を教えたという法学校については知識がありませんので省略しますが、内務省が設立した駒場農学校でも、リービッヒの盟友の門下生がお雇い外国人教師として奉職しておりました。


(駒場農学校)

1876(明治9)年に、英国からエドワード・キンチが来日し、駒場農学校において、化学分析に基づく農芸化学を教え、農学研究と農場における実践的研究を指導します。エドワード・キンチの詳しい経歴は不明ですが、後にA.H.チャーチの『The Laboratory Guide for Students of Agricultural Chemistry(農芸化学の学生のための実験室ガイド)』の編集改訂に携わった経歴からみて、実験室を通じて学生を理論と実験の両面から育てるスタイルを重視していたと考えられ、やはりリービッヒからウィリアムソンに続く流れの中にいた一人であると見て良いだろうと思います。キンチは、日本国内における英国流からドイツ流への転換を受けて、1881(明治14)年には帰国してしまい、かわってドイツからオスカル・ケルネルが来日します。

ケルネルは、リービッヒの盟友ヴェーラーの門下生であったヘルマン・コルベの下に学んだ化学者で、リービッヒ流の化学教育研究法を正しく日本に紹介した人の一人として知られている人物です。ケルネルは、1892(明治25)年に離日するまで、日本人女性と結婚し日本に永住する覚悟でいたようですが、故国ドイツからのたっての要請でやむなく帰国し、家畜飼料のエネルギー価の評価法を確立するなど大きな業績をあげ、オスカー・ケルネル研究所にその名を残しているとのことです。このあたりも、たんに英国からドイツ流に転換するというだけでなく、人選には英国のウィリアムソン教授の師匠すじの人、という推薦や判断が働いているような気がします。そして、駒場農学校のケルネル門下からも多くの人材が輩出しますが、後世にその名が残る人物としては、足尾鉱山鉱毒事件の関連で名高い古在由直がいます。


(*1):吉村昭『白い航跡(上)』を読む~「電網郊外散歩道」2009年8月
(*2):吉村昭『白い航跡(下)』を読む~「電網郊外散歩道」2009年8月

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