雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

反町監督おめでとう

2007-11-23 04:43:50 | スポーツ
22歳以下のサッカー男子、サウジアラビヤと0-0の引き分けで見事北京五輪の出場権を獲得した。

テレビでずっと見ていたが、目の離せない緊張の一戦であった。
最後のレフリーの笛を聞いて、本当にほっとした。
よかったと思った。


もう30年以上もサッカーを見続けてきた。
きっかけは、息子が小学校の3年生の頃、
野球かサッカーかを迷った挙句、サッカーのほうに進んでからである。

その頃はまだ、一般のサッカーのレベルは全然と言うほどダメだった。
そんな中で、市を挙げてサッカーの普及強化に取り組んでいた全清水のサッカーチームが群を抜いて強かった。
サッカーどころ静岡を自他共に許していた時代である。

神戸も昔から、御影師範や神戸一中などサッカーが強く、その流れを汲んで神戸FCなど有名チームもあったのだが、清水には歯が立たなかった。

毎年、清水が神戸に来て、小中学生のサッカー大会が開かれていた。
その全清水のチームの一員に、反町監督がいたのである。
息子と同学年であったのでゲームの最中に、「そりまち、そりまち」とコーチが声を掛けるその「反町」と言う名前が印象的で直ぐ覚えた。



そんな反町君と息子とはご縁があって、
当時はまだ日本リーグの時代であったが、全日空のサッカーチームでチームメイトになったりした。
Jリーグになった時、みんな会社に戻ったのに反町君だけは横浜フリュウゲルスに残り、平塚に移籍してプロの道を選んだ。
29歳の時である。それだけの自信はあったのだと思うが、正直ビックリした。

代表にも選ばれたりはしたが、選手生活はそんなに永くはなくて、
その後気がついたときはスペインリーグに詳しく、その解説などをしていた。
新潟の監督になってからは、ご存知の通りの活躍である。



大体、ファンになったりするきっかけは、
その人と会ったり、何かの関係があったりすることで、ファン化するのだと思うが、
私は、新潟時代からずっと反町監督のファンである。

子供の頃からの反町君を見て、知っていることもあるが、
一浪して慶応に入り、全日空からプロの道を選んだ生き方、
その後の歩み方に非常に強い意志と信念を感じたからだと思う。

そんなことで、22歳以下の全日本監督になってからも、いろいろ言われたりしたがずっと一ファンとしてチームと言うよりは、反町監督を応援してきた。


トレードマークの眼鏡に細身のスーツ姿。冷静そうな見た目とは違って現場では熱い。
練習で使うホワイトボードにはいつも、「情熱と誇り」と赤いペンで記し続けた。
と新聞のコラムの記事。

反町康治監督43歳。 もう43歳なのだ、まだ43歳なのだ。

心からおめでとうと言いたい。
北京も頑張ってもらいたい。
コメント (6)
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