雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

昭和64年、平成元年の月々

2011-09-09 06:17:34 | 自分史

この年のことは、既に2回に亘って書いているが、月々どんなことであったか、事実を主体に眺めてみたい。

★1月

1月5日、全国の所長を集めて新年会、夜は西明石のキャッスルプラザでパ―テ―、賑やかな年明けだった。

7日には昭和天皇がなくなられて、翌8日より新しい平成が始まった。

この年の1月からカワサキジェットスキー販売の社長も兼務した。神戸に新事務所を設け年間3000台の目標を立てている。

20日にはソフト会社KSSの構想を纏めている。このKJS と KSS が従来の二輪販売とは異質の専門会社であった。

国内グループ全体を担当したが、販売面は殆ど各地の常務さんに任せて、私自身は初めての事業のJ/Sとソフト会社に傾注した。

24日からは大阪を皮切りに、東京、広島、東海、そして2月に九州、最後に仙台と特約店の新年会で今後の国内方針について語っている。出席した店の7割くらいは面識のある親しい店なので、全くのホンネトークであった。販売を手伝ったのは、この新年会ぐらいである。

★2月

2日に本社関連事業部に新会社ケイスポーツシステムの説明を行い、2月末の社長以下の経営会議に上程、何の問題もなく通って月末の取締役会で正式に承認された。

3日には250/400の当時は本命と思われていたスポーツ機種の記者発表があった。ただ、蓋を開けてみると、5月に何もせずに静かに上市したZEPHYRに主役の座を明け渡す結果になるのである。

これはKHIのことだが、理事室の横に立派なゴルフの打ち放しのネットが出来た。佐伯君、当時の企画部長後川重副社長が造ったものだが、これには、ビックリしたが、早出して毎朝ゴルフの練習をしていた。だから、ゴルフのスコアもよかったのかも知れない。稲村さんは、このお陰でゴルフを始めることになるのである。

関東にもサーキットをとその候補地の調査に出かけている。兵庫でも平井さんが独りでサーキット建設にあたっていた。

★3月

鈴鹿の2&4で今シーズンのレースの幕が開いた。TTF1で宗和が3位に入り、4月のルマンへの派遣も決まった、幸先いいカワサキの本格的レース復帰となった。

鈴鹿サーキットの三原さんとも繋がって、その後いろいろといい関係でのお付き合いが続いた。三原さんはカワサキに対して非常にいい印象を持っておられたと思う。

3月21日にはSPA 直入りの工事が着工し、直入り町長と高橋本部長とともに大分県の平松知事を表敬訪問している。

★4月

4月1日に、新会社 ケイスポーツシステムはスタートした。南常務以下7人ほどの体制であった。サーキット管理などもあったのだがSPA直入りの完成は1年後だし、

まずユーザークラブKAZEからスタートし、全営業所に一人づつ、KAZEの担当者を設置した。この月のうちにKAZEの会員に対する第1回のDMを発送している。1部大庭社長にも送っている。

末には、ジェットスキーJJSBAの琵琶湖でのレースがあった。後、世界チャンピオンにまでなった金森稔君がまだ2輪からJ/Sに転向した直後くらいのことである。初めて彼に出会った。

ルマン24Hは宗和、多田組がフランスチームに続いて3位入賞で大成功であった。

 ★5月

月はじめに、『召集令状が来た』と田崎さんがやってきた。ニューヨーク事務所が内定である。これは多分大庭さんの直接の人事だと思う。

ZEPHYRの出荷が始まった。全体の二輪車市場が落ち込むだけで、カワサキだけが独り伸張した。

何の用件だったか忘れたが『RPM兄弟に会う』という記述が残っている。弟さんは今のインターナショナルトレ―ディングムラシマの村島さんである。今でもNPOでお世話になっている。

★6月

6月もあちこちと動いているが、殆ど直接の販売に関することには関与していない。それは現地の販社の常務さんに全て任している。私自身は、私しかできないことに絞って動いている。

この月末も来年オープンするSPA直入りのことで大分県のホンダ、ヤマハ、スズキさんを訪れている。特にホンダの倉石さんは、当時全国ホンダ会の会長さんで、早くからアポイントをとっていた。

そこに井川さんご夫妻が仲人をする上条君の結婚披露宴が飛び込んできて、途中退席することのお許しを得ての出席だった。披露宴を途中退席などしたのはこの時だけである。いい結婚披露宴でよく覚えているのだが、上条君もナイスガイだったのに若くして亡くなってしまった。残念である。

★7月

7月は昨日も記述したように鈴鹿4耐、6耐とも優勝で、予想以上の結果であった。

7月度はZEPHYR1機種で1400台の登録があって絶好調であった。

この月中旬に行われた開発会議では、国内車種最優先で進められた。

★8月

大庭社長から、関連会社社長会の席上で、国内の状況説明をするようにという直接の指示があった。

大庭さん以下全役員と、関連会社の社長さん方は殆どが役員OBで、殆どが60歳以上、受注関連部門出身で、二輪事業などお解りではないのだが、

『7万台を目標にそれを達成するための仕組みの構築状況』を、

ユーザークラブKAZEや、ソフト会社、サーキット、レース、広告宣伝のイメージ戦略などなど、今までお聞きになったことのないようなマーケッテング分野に絞ってお話しした。『遊び半分ではいい遊びは出来ない』とか、ダイレクトコミユニケーションなど、目新しい言葉をいっぱい使って、賑やかな雰囲気になるようにポスターなど舞台装置も加えて、全体を構成したのである。

皆さん、聞きなれない話だが、珍しかったからだろう。極めて好評であった。後のパ―ティーの席で通産省から来られた山田常務が『川重に来て初めて感動した』と言って頂いたのは嬉しかった。そのころは既に東京本社だった田崎さんが『何喋ったんや?どこに行ってもアノ話や』と言っていた。よほど印象だけは強烈だったに違いない。

多分、一番満足されたのは、大庭さんご自身だったと思う。船や鉄鋼などを担当されての単車事業部本部長だったが、単車に一番の愛着を持っておられたと思う。

社長になられて『単車の持つ発想を川重の中に幾らかでも植えつけたい』という想いは強く持たれていた。

そんな私自身の仮説で話の内容も、演出もやった積りだったので、大成功であった。

8月末に、阪神ライデングスクールの有馬社長を訪ねている。この出会いはその後のカワサキの動きを変えたと思う。

★9月

地域販売会社の構造改革も遣ろうと思っていたのだが、どこの販社を一番に実施するかをずっと検討してきて、この月あたりでそれを西日本と決めていた。

山辺さん、谷沢君のコンビが絶妙であったし、発想への理解もひと際抜きんでていたのである。 

難しい仕事はやる気のあるところからやらぬと、全国一斉などでは、決して上手く行ったりはしないのである。

★10月

  

ジェットスキーはどんどんいい方向に動いていた。J/Sの販売店が、レイクハバスのレースを見ることを第1目標に、J/Sの生産工場でもある。リンカーン工場の視察ツアーがあって、KJSの社長としては挨拶せざるを得なくて、その挨拶だけのためにアメリカ行きだった。レイクハバスは、是非とも行きたかったのだが、とてもそんな日程は組めなかったのである。

(これは全くの余談だが、今年10月2日は、三木さんさんまつりで、ミニSLも走らせるのに、福井昇君はこのレイクハバスに行くので参加できないとか。勿論彼はこの時の販売店主力メンバーだった。)

のんびりした旅になると思ったのに、サンフランシスコの地震などに出会ってなかなか大変な旅になった。独り旅で予定が狂うとなかなか大変なのである。

★11月

関東でのサーキット候補地が次々に現れた。これは他の人では判断できないので、SPA直入りを一緒にやった岩崎君とのコンビであちこちを見ている。

こんな話はいっぱいあるのだが、仲介する人たちもいろいろあって、判断はなかなか難しいことなのである。ある意味、時間だけは結構掛るのである。

この時期、関東だけで数か所の候補地があった。

★12月

この年、ZEPHYRが好調で、J/Sも絶好調だったから、経営的には何の問題もなかった。

ただ7万台を達成すると同時に、事業本部への限界利益100億円を確保するためには、薄利多売ではダメなのである。

そのための販社の構造改革、委託から買い取り制への移行はMUST条件であった。

然し、業界に先駆けて、カワサキがトップにそれにチャレンジするためには、トップバッターは絶対に失敗は許されないのである。

そのトップバッターに指名した西日本のショールーム計画をこの月に検討している。

23年前の時代にはみんながビックリするような規模とひと際目を引くようなデザインのモノを計画した。森君が専任で担当した。23年経った今でも十分通用しているようである。

そんな立派なものを造る代わりに、岡山営業所は廃止を検討したのである。委託でなくなれば、営業が車を運んだりする無駄はなくなるのである。

そんな販社の構造計画、そのための完全仕切り制度、翌年はそれに向かっての挑戦になっていくのである。

 

 

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