雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

平成2年(1990)新体制2年目順調 57歳

2011-09-18 06:12:19 | 自分史

★会社の生活で何度も転籍をしているが、1年単位と言うよりも半年、6ヶ月単位でずっと動いてきたような気がする。

今でもそう思うが、1年は長すぎるように思う。3年計画とか4年計画では長期過ぎるように思っている。

大体、4年もすれば世の中は変わってしまっているのである。

半年あれば大体、少々難しいことでも目途は付く。半年で目途の付かないことはまず実現しないのではと思ったりしている。

 

平成2年も振り返ってみれば、前半6ヶ月に大きな問題を一挙にやった感じなのである。

 

★「ジェットスキー」と言うのは、カワサキの商品名である。

これは元々単車ではなくて発動機事業部のエンジンビジネスから生まれた商品で、明石の発動機事業部からアメリカのリンカーン工場にエンジンを輸出し、そこで船体を造ってアメリカのKMCだけが、アメリカだけで販売していたのである。

明石の単車事業部には、全然関係がなくて誰ひとり担当も部署もなかったのである。

日本では西武自動車がアメリカから輸入して、年間200台ぐらいをカワサキの孫会社と一緒に細々と売っていたのをこの年の5年ほど前、私が企画室長の頃に、ジェットスキーを事業部のちゃんとした商品に育てようと言い出したのは、当時の企画課長故武本一郎君で、それを担当して育てたのは鶴谷将俊君である。当時個人の趣味でジェットスキーを乗っていた福井昇君が、唯一明石でジェットスキーに乗れたような状況であった。その福井君を発動機から貰い受け、どこも担当する部門がなかったから、企画室ですべてのことを企画実践していたのである。

この年ぐらいになると、国内にカワサキジェットスキー販売なる会社も出来て、前年の1月からはその社長も引き受けていた。 元来が遊びの商品であったし、JJSBAというレース組織についても大いに関与して、この年も鶴谷君は事業部の営業として、大いに手伝ってくれたのである。

たった、200台ぐらいしか売れていなかった商品だから、販売網など皆無だったのだが、従来のボートやさんに頼むような販売網ではダメだと、無鉄砲にも専門店構想を打ち出し、その第1号店は福井昇君が独立開業してスタートしたのである。

台数の推移で言うと1986年300台だったのが、87年1117台、88年3096台と2年間で10倍になり孫会社から子会社KJSを組織したのである。300台で成り立っていた会社が10倍の売上になるとどんな利益になるか想像してみて欲しい。孫会社を子会社に組み替えるときに利益がある過ぎると何億円の単位の配当をして利益を減らすなどの対策をしたのである。

それが89年には、5145台になり、この年90年には、8757台まで急上昇したので、販売会社も販売店もこの時期ぐらい儲かったことはなかったと思う。

 

 

★同じ1月には、二輪業界の販売構造の大転換『委託制度から受注買い取り制度』への転換を決意し、カワサキが先頭を切って実施したのである。

この制度については、業界の反響も大きく経済誌などの取材を受けたりしている。

 

 ホンダ、ヤマハ、スズキさんなどに比べて、50ccの小型車を持っていなかったからカワサキはやり易かったとも言えるが、それでも全国一斉などとても無理だった。この施策の先頭を切って走ったのは西日本地区の谷沢常務だったのである。

ZEPHYRの持つ意味『西からの風』と同じく西からのスタートであった。

当時はその規模と新鮮さが珍しくて、他メーカーの見学など相次いだ、『岡山ショップ』などもこの対策の一環だったのである。

このショップを初めて見られた高橋本部長(カワ販社長)ですら、当時はビックリされたのである。 確か20年経った今もそのまま使われているようである。

 

★SPA直入りのtレース場の開幕がこの年4月である。 4000人のライダーたちが自分の愛車に乗って直入町に集まって、日本で初めて4000台のバイクがサーキットコースを走った。

直入り町長は、祝辞で『有史以来直入町に一番多くの人が集まった』と挨拶されたのである。

ケイスポーツシステムが運営したが、順調に会員は増えて11月にはSPA直入りCUPを開催するまでになったのである。

 

レースも6時間耐久は優勝を飾ったし、F3シリーズでは鶴田がシリーズチャンピオンをとって、その祝賀会には和田、山本などのOBライダーも参加してくれたし、最後を万歳で締めてくれたのは、当時はまだヤマハ籍の金谷秀夫が、YSPの会合を断って、カワサキのために駆けつけてくれたりしたのである。

SPA直入りが簡単に成功したので、関東にもサーキットをと春先から手掛けたのが益子町の営林局の土地を」借りてのサーキット建設であった。益子町とも営林局ともさらに川重内の経営会議も全てクリアしたのだが、最後町民の反対運動があって、益子プロジェクトは実現しなかったのである。

 

★この年396億円の売上高12億円の利益をグループで上げ、7万台の目標もほぼ大丈夫達成できるという目途はたった。

6月にはホンダを抜いてシェアトップになったし、オートバイ誌の年間最優秀車には

ZX1100, ZXR750,ZEPHYR400と3機種が独占したりした。

こんな商品の裏打ちがあったからいろんな構造改革が出来たのは事実である

そういう意味ではツイテいる。

 

国内のヒット商品、Z2 藻、FX400もそしてこの時代も、私は国内グループ担当であった。

 

★家庭では、息子も娘も結婚前の時期だった。

干渉も、相談にも一切乗っていないが、間違いなくそう言う雰囲気であった。

家のローンも終わって、家計が苦しくボーナスを貰っても何も買えなかった時代は終わって、

春には小さな庭に本格的な池を造って、子どものころから好きだった鯉を飼いだしたりしている。

百万以上も池に掛けたのだからと、何万円もする鯉を次々に飼ったりしている。

鯉は百年も、生きるのだからと理屈をこねて買ってくるのだが、なかなかその通りにはいかないのである。

2年前までは、その池もあったのだが、鯉ヘルペスに罹って全部死んでしまったので、昨年諦めて池は潰してしまった。

 

 

当時。BMWには元カワサキにおられた浜脇さんが社長をしておられて、若いころ仙台で一緒だった中田君がセールスでBMWを買えというものだから、秋にBMWを買っている。

それから約20年ずっとBMを乗りつでいる。

 

★このころ兵庫県でサーキットを造っていたのが平井さんだし、

益子町のサーキット関係で手伝ってくれたのが小川君である。

そして、ジェットスキーの福井君やJSも、ケイスポーツシステムも手伝ってくれた渡部タッチャん、そして吉田君。

みんな今、NPO The Good Times の理事さんで一緒にやっている。

ライダーの山本隆君も、金谷も和田も清原も星野も金子も、みんな今年もいろいろお世話になった。

そんな長いお付き合いが出来ていることが、『いいな』と思っている。

 

一部の人は、ツイッターやFacebookで毎日お会いしているのである。

 

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コメント (2)
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