雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

戦時中の 小学生の頃の記憶

2020-10-18 06:43:27 | 自分史

★ 人間の記憶は、何かつまらぬことは、何年経っても忘れないのだろうか?

 そんな記憶の話なのだが、

 大東亜戦争時代、私は小学生だった。
 小学校とは言わずに『国民学校』と言われていたが
 当時は『間違いなく日本だった朝鮮京城今のソウルにいて、
 京城府城東区新堂町桜ケ丘に家があり、桜ケ丘国民学校に通っていた。
 
 番地までは流石に忘れてしまったが、
 当時の本籍兵庫県明石市細工町20は番地までよく覚えている。


 戦前のソウルはなかなか立派な街に創られていて
 市電も当時内地と呼ばれていた内地の市電よりは立派だったし、
 三越も当時の神戸元町の三越よりは立派だったのを覚えている。

 これは戦後ソウルオリンピックの時にソウルに行く機会があって、

 母校京城桜ケ丘国民学校の写真を撮ってきたのだが、
 戦前の建物とは思えない、なかなか立派な建物だった。
 教室は冬対策で『スチーム』が通っていたのである。



    


 京城は日本人が創り上げたいわば新興都市だったから、
 住んでいた住宅なども、内地の家などに比べるとモダンで広かった。
 住んでいた桜ケ丘は、殆どの家が300坪以上はあった新興住宅街だった。



★ 終戦の年が中学1年生だったから、それまでの小学生時代は
 『まさに戦時中』だったのである。

 『学徒動員』などもあって、中学の上級生は兵役に動員された時代だから、
 小学生時代も、高学年になると何となく大人と同じように扱われて、
 小学5・6年では兵隊さんが来て教練があったりした。

 毎月8日は『大詔奉戴日』でこんなムツカシイ詔書を全校生徒の前で、
 校長先生が読まれて、それを直立不動の姿勢で聞いていた。

 


冒頭の部分の

天佑を保全し、万世一系の皇祚(こうそ)を践(ふ)める大日本帝国天皇はは、忠実勇武なる汝有衆(ゆうしゅう)に示す。
 の部分は今でもよく覚えている。

人間の記憶は、小学校時代に覚えた軍歌の歌詞なども、
80年経った今もよく覚えているから不思議である。

 この愛馬新軍歌など今でも3番ぐらいまでは覚えていて、
 自然に歌詞が出てくるから、ホントに自分でも不思議なのである。


   




こんな歌もあったのだが、

  

青いバナナも黄色く熟れた男所帯は気ままなものよ
 と歌っていたら、父に『こどもはそんな歌を歌うな』と怒られたりして、
 その時は何故そんなことを言うのかと思ったのだが

今思うとどうやら『青いバナナ』も
男・所帯』『男・女体』とカン違いしたのではないかと思ったりする。
そんなツマラヌことをよく覚えている。


★ 終戦の年昭和20年は、中学生になった年なのだが、

 その夏休みに『軍人勅諭』を覚えてくる『宿題』が出ていて、
 ぼちぼち覚えなければと思っていた時に『終戦』になったので、
 これは全然覚えてはいないのだが、

 こんなにムツカシク長い勅諭なのである。

  


 もうひと月、終戦が後になっていたら、
 この『軍人勅諭』も暗記して覚えているかも知れない。

覚えられませんでした』などの言い訳は通用しない世の中だったのである。

 
 長い人生を振り返ってみて『いろんな記憶』があるのだが、
 それらはみんな中学生時代までで。
 高校以上では新しいことは『殆ど何も覚えていない』のである。
 野球ばかりやっていた。

 そんな戦後の中学生時代に覚えていることを
 次回、続けて纏めてみたい。






 
 
コメント
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