雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

7万台への挑戦の思い出

2008-07-07 04:56:45 | 7万台の挑戦の時代
7万台への挑戦の時代のカテゴリーでブログに纏めてきた。
この時代商品にも恵まれて少なくとも私の永いカワサキの歴史の中で最高の時代であったと思っている。

もう60才に近かったし、3度目の国内担当でこれが仕上げだと思っていた。
国内の販社は常に単車の最高責任者が社長を兼務する慣わしで、
大庭社長から、単車創生期の時代からこの事業を支えてきた高橋鉄郎さんに社長は引き継がれていた。

最初のレース時代も、カワ販が苦しかった時代も、CKDの市場開発プロジェクトも、カワ販の危機に時代も、そして事業部の存亡の危機であった時代も、
何故かご縁があって、一緒に仕事が出来た。そして何とかなったのである。



昭和63年10月(89年10月)国内fグループを引き受けるとき、
その高橋さんと、45000台の実績の台数を7万台まで、売上高400億円、事業部への限界利益100億円という、途方もないお約束をしたのである。
高橋さんとのコンビならひょっとしたら出来るかも知れないと思った。

正直、高橋さんとだから出来た約束であったと思う。
出来るかどうかの自信などはあったわけではないが、
定期入社の一期生の富永君や2期生の山田、南、古石、竹内君などの連中がようやくグループのトップレベルにあったし、この機会にチャレンジしないと永遠に出来ないと思ったのである。


その具体的な対策の課題は『新しいカワサキのイメージの創造』
この1点に絞って対策のスタートを切ったのである。

ゼファーと言う商品にも恵まれ、国内市場に新商品として持ち込んだジェットスキーも軌道に乗って、幸運にも恵まれたが、
これが達成できたのは、全て業界の常識を越えた新しい次元へのチャレンジであったことと、それに果敢に挑んでくれた人たちの努力だと思う。

特に、ケイスポーツシステムを中心にしたソフトの事業化やKAZE活動、販売網対策など時代を先取りして業界の先頭を走った。モペットを持たぬカワサキだから遣り易かったと思う。

視点をバイクに関心を持つ全ての人たちを視野に入れての活動であったと思っている。
競争相手は他メーカーではなくて、二輪業界以外の他業種だと思っていた。
何時の時代もそうなのに、つまらぬシェア競争に走って業界がやせ細ってしまうことも事実多いのである。

カワサキOBの特約店の人たちの応援も大きかった。
永年積み上げてきたカワサキのグループの力が実力以上に発揮できた時代であったと思う。



昭和の年号で言えば、昭和63年10月に掲げた7万台の目標は、
年号が変わった平成3年6月1日に2年と8ヶ月の歳月で達成しているのである。


最近また思い出したようにいろんな人といろんなことをやる機会が多いのだが、
みんなこの時代に身についたソフト、ノウハウが基本になっている。
こんな難しいことも出来たので、大概のことは出来るのではないかと思ってしまう。

それとつくづく思うのは今のネット社会はホントにいい時代である。
こんなシステムが使えたらもっともっと簡単にもっと面白く出来たのにと思ってしまうのである。


70才を越えて初めてパソコンに触れた。
メールなど打つことが出来るようになって、丁度2年。
ブログをはじめて、1年10ヶ月。
SNSをはじめて、1年近い。
このネットの社会は使いようで、素晴らしいものになると実感している。


来年の今頃、果たしてどんなことになっているだろうか。


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兵庫県三木市は頑張っています

2008-07-06 05:54:51 | 樋渡啓祐さんのこと
今日の武雄市長物語、環境問題の話題だがその中で、
兵庫県の三木市は頑張っています』と書いて頂いて、さるとる君のブログにリンクを張って頂いている。


ブログのテーマ自体は全国青年会議所の呼びかけに呼応して、武雄青年会議所も
『全国一斉月ほたるin SUMMIT』というキャンペーンに協賛されるようである。
そのあとに、自動販売機の夜間照明を切って環境問題をという呼び掛けが続いている。



そこに『兵庫県三木市はがんばっています』が挿入されているのである。

『兵庫県三木市は頑張っています』などそんなに褒めて頂いたことなどあまり無いのでそれ自体も、結構嬉しいのだが、
この全国キャンペーンの機会を逃さずに、ちゃんと一行加えて頂いている樋渡さんの対応が、私にはあらためて樋渡さんの細かな心遣いを感じたのである。

といっても、何故?とお解かりにならないのが普通だが、
これには経緯があってそれを辿っていくと、人の繋がりや対応の姿勢が読み取れて、非常に興味がある。
こんなリーダーには人は自然についてゆくと思うのである。


少し前のことだが、『100万人のキャンドルナイト』の全国キャンペーンを三木の町屋でもやろうというときに、
さるとる君が『武雄も一緒にやりませんか』と樋渡さんにお誘いをしているのである。
その時点では、「九州ではまだ盛り上がっていないので」と市が一緒に動くことは出来なかった。
調べてみたが、『100万人のキャンドルナイト』キャンペーンは地域で格差があって、九州はまだ全然と言っていいほどの状況であった。


今回武雄の青年会議所が同じような趣旨のキャンペーンに協賛する機会に、三木を紹介して頂いているのである。
それも三木の一市民のさるとる君のブログの中味も読んでおられて、それをさりげなくリンクしておられるのである。

簡単なことのようで、これはなかなか出来ないことである。
確かに三木市とは提携関係にはあるが、個人のブログまでなかなか目は届かないのが普通である。


そんなことは『市長の仕事か?』
確かに、そんな意見も出るかも知れぬが、『末端の理解』『末端の動きを知る』マーケッテングの精神はこんなところにあるのだと私は思っている。

こんな出来事も、三木の方でもこの一行からその経緯を読み取れる方は少ないだろう。
でも、マーケッテングとは本来そのようなものである。
マーケッテングマインドとは末端の人がどんな思いであったか、それを知ってそれに応える心遣いを言うのである。


人事交流と言う提携を結んでいる『三木と武雄』
人事交流をしたり、市長同士の訪問や会談をやったりするのも、市長の仕事だが、
今回の役所も、JCも、一般市民もみんながヨコ一線で取り組んでいる三木のキャンペーンをさりげなく褒めて頂くことは、

なかなか出来ないが、より効果のある『市長の仕事』のような気がするのである。

そこに、他の市長さんと違った私の好きな樋渡さんをまた見つけた。

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『どこ竹の親子竹とんぼ教室』@みき

2008-07-06 05:47:04 | みっきぃふるさとふれあい公園
昨日の朝、ヨネさんから電話があった。
『今日ですよね』

どこ竹の竹とんぼ教室のことだな、とすぐ解った。
この町の緑が丘公民館の主催で、『親子の竹とんぼ教室』をやろうという話はだいぶ以前に打ち合わせをした。

大年さんを中心にこども会のアラケンさんや役所のミキスケさん、議員のヨネさんなどと打ち合わせをしたことがある。
日程や場所は決まった。

材料の手配などはミキスケさんが、手伝ったりしたのだが、何組かを集めるだけで大掛かりにはしないということであった。
その後、連絡が無かったのでヨネさんは私に電話をしてきたのである。

兎に角、現地に10時までに行っているということで電話を切った。



1回目のおそるおそるの開催であったが、大成功であったと思っている。
人員も全部で30人近くになったし、受講者の親子も当然だが、
4月に講師資格の研修をして合格をした人が大年さんの応援に多数駆けつけてくれたのである。



こんな様子を見ていると、大変ではあったが4月に30名の多数の受講者を集めて、『どこ竹の竹とんぼを飛ばそう会』を開催したのはよかったと思った。

30名の受講者の内、現在半分の15名が認定に合格をした。
そんな中から、今日は大年さんを中心に5名の人たちが手伝ったのである。工作の実務はみんなで手分けして手伝って指導して、
子供たちが作った竹とんぼは2階の研修室で上手く飛んで大喜びであった。



次回は7月26日、三木ホースランドパークでキャンプを実施中の子供たちを対象に、今度は草間さんが中心に開催するという。
その打ち合わせも行なった。
次回の準備もさることながら今日の実績を踏まえて、『どこ竹のみき支部』も立ち上げる方向で検討された。

明日の『100万人のキャンドルナイト』で忙しいさるとる君の紹介で参加して頂いた「老人会の若手委員会」という妙なネーミングの会の丹羽さんも今日は参加して頂いて、自然にヨコの広がりを見せている。

最近、市民ふれあい課長の要職で忙しいミキスケさん代わりの若手?も子供連れで参加してくれたし、ミキスケさんからは家にわざわざ『行けなくてすみません』と電話があったようである。

市民の人たちも、役所の人も、議員さんも、 全部三木市民の資格で、ヨコイッセンに同じ目的で活動できる。
そんな運営と、コンセプトがいいと思っている。

今夜は、愈々『100万人のキャンドルナイト@みき である。
天気は大丈夫だが、夕立などありませんように。












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刃物を使う授業は手や心を育てる

2008-07-05 04:55:12 | ネット、Twitter & Facebook、Instagram
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天声人語に刃物、小刀、ナイフについて触れていた。
刃物について最近のニュースはみんな暗いものばかりである。

刃物は凶器というイメージだが、人が生きていく上で刃物と無縁では生きていけないのである。
すぐ危ないなどと直結しないで、もっと積極的に付き合う方向で考えて欲しいものである。
昨今の発想はみんな単細胞で『人間らしさ』に欠けている。

天声人語から概略を

『「カッパ先生」という人の思い出を、心理学者の故・河合隼雄さんが書いている。
ある日カッパ先生は、生徒が小刀で、机に彫り込みの落書きをするのを見つける
▼だが怒るどころか、「お前の刀の切れ味は相当なものや」。いっしょに木版彫りをやらないかと勧める。
▼中学校で美術を教える方だ。「刃物を使う授業は手や心を育てる」と書いていた。「ありがたさや怖さ、物づくりの喜びを味わえば、刃物による罪を犯せない」と説いている
▼秋葉原の事件のあと、刃物をめぐる議論が盛んだ。
▼刃物をいつも持たせる学校が、長野県にある。池田町の会染(あいそめ)小では、入学すると折り畳みナイフの「肥後(ひごの)守(かみ)」をみんながもらう。筆箱に入れて鉛筆を削り、工作に使う。手入れも怠らない。「ナイフに親しむ週間」を設け、6年生が1年生に教えるのを伝統にしてきた
▼「正しい使い方も身につく。教えることは教えて、あとは子どもを信頼します」ところで、冒頭のカッパ先生と木彫に励んだ生徒は素行が改まったそうだ。「今の先生方のヒントになれば」と河合さんはつづっている。』





肥後の守に「フリカナ」を打たぬと読めぬ時代になったのか。
その肥後の守は三木で永尾元佑さんが一人で作っている。
今年の4月『どこ竹の竹とんぼを飛ばそう会』の時、長尾さんにも来て頂いた。
三木で作る竹とんぼだから、是非肥後の守の使い方もも思ったのである。

長野県池田町の会染小学校の子供たちからは毎年長尾さんに沢山の手紙と感謝状が贈られてくる。
永尾製作所の事務所には、子供たちが作って送ってきたこんなのが掛かっている。

いつも紹介されるのは長野県の会染小学校の話である。
それはそれでとてもいい話なのだが。


地元の三木ではどうなのか?
地元の小学生も見学に来ているし、お礼状も届いている。
でも、一向に話題に取り上げられないのである。

何故だろう?

刃物に対して向き合う態度がぼんやりとして、
きっちりとした意見を、『三木として』持っていないし、
仮に持っていたとしても明確に情報発信していないのである。

三木の産業を育てる観点から肥後の守に対するのもいいが、
もっと基本的な『刃物に対するコンセプト』が、
刃物の町三木としては『ぼんやりしすぎている』と思っている。

刃物に対する子供の教育を、明確に意識して考えてみてもいいのではないかと思う。
今日の天声人語を見て、『共感する、三木の一人の市民』としての感想である。


また、昨日まで取り上げてきた『元気な三木』への対応の一つにもなるだろう。
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7月7日は川の日です

2008-07-04 14:09:04 | みっきぃふるさとふれあい公園
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ホントにそんな日あったのかと思ったのですが、平成8年からあったようです。
『7月7日は川の日です』

各地でいろんな行事が繰り広げられるのだと思います。
三木市でも従来から何かイベントが行われていたのだと思います。

こんなイベントはいろいろとあるのですが、
どれも単発で、予算を組んで計画して、実行したらそれで終わり。
『また来年で終わってしまいます』

何かもう少しアタマを使って、『みんなが協力して楽しんで』そしてそれがみんなが繋がるそんなイベントは出来ないものかと、何となく思っていました。


三木では先日、これも全国規模の『100万人のキャンドルナイト』に参画して
町屋の庭のキャンドルナイトがありました。

このイベントは市民と役所の有志諸君が協力してやったのですが、
これをPARTⅠとして、
その第2弾を7月7日川の日に更に規模を大きくして、
三木独自の『100万人のキャンドルナイト』を
その前夜祭として7月6日の日曜日に、美嚢川の河川敷を舞台に行なおうというものです。

キャンドルに使う牛乳パックは三木市民のいろんな方々や、小学生も協力して既に2000本のキャンドルが作れるのではという段階まで盛り上がっているようです。

これは三木市の行政のイベントの一環としてもやられるのですが、
役所の中の市民の方やJCの人たちもその核になって成功させようと頑張っています。

天候さえ大丈夫なら、間違いなく成功するでしょう。
こんな核の一人の『さるとる君』は一生懸命です。
子供のようにてるてる坊主を作って、その日の天気を祈っています。

直接、何のお手伝いもしていないのですが、
知らぬ仲ではありませんし、
『ひょこむ』に特別のコミユニテイも立ち上げていますし、
今回は役所の内部の応援体制もちゃんと繋がっていますし、

私も天気予報を調べたり、こんなブログをアップしたりするくらいの応援なら出来るのでやっています。


アメリカの孫たちが、7月には戻ってくるとばかり思っていたのですが、
7月10日に日本着で間に合わないのは残念です。

間違いなく、素晴らしい2000本のキャンドルのともし火がこの景観に揺れるものと思います。
お近くの方々も是非、お越し下さい。
今年は第1回です。第1回を見たということは記念になることだと思います。


場所など、ひょこむのブログ、ご参照下さい。


追記


さるとる君から早速コメントが届きました。
いろんなものと自然に繋がって盛り上がっていくのがいいと思っています。
これが世の流れだと思います。

50本の笹飾り (さるとる)

2008-07-05 05:51:53

おはようございます。
「川の日」のPRイベントの告知ブログありがとうございます。
今回のイベントは、三木城下町まちづくり協議会が昨年に引き続き行われる「七夕」飾りと一緒にできるのも特徴の一つです。
その七夕飾りですが、今日から飾られます。
その数は、何と!50本だそうです。
僕もお手伝いに行ってきます。
七夕飾りに、キャンドル。
来年は、これに浴衣ショーかな。




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7万台への挑戦、イメージ戦略

2008-07-04 04:52:27 | 7万台の挑戦の時代
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7万台への挑戦も3年目を迎えようとしていた91年、一番グループが充実しきっていた時期だろう。

1月29日に当時のCP事業本部の部課長研修会で250人の部課長さんを前にこの2年間の国内のマーケッテング活動の発表をした。
故岩崎茂樹広報部長がそれを一冊の冊子にまとめてくれて手元に残っている。
英文にも翻訳されて全世界のディストリビューターに紹介されたりした。

当時業界でも注目されていた面白い活動であった。
この冊子は高橋本部長が川重の全役員に配ったりしたので結構話題になった。

全体のテーマは『7万台への挑戦、新しいカワサキのイメージ戦略』であった。

基本的な考え方を私が話し
KSSとKAZE活動を南常務
スポーツとレース活動を重本部長
広宣活動を小林課長

打ち合わせなど一切なし、ぶっつけ本番で望んだ。
2時間ちょっと、内容は技術や生産を担当している人たちばかりなので、新鮮であったと思う。

販売会社は営業でモノを売っているとばかり思っている人たちに、イメージ戦略や遊びやイベントの話が大部分でビックリした面もあったのだと思う。


4万台を5万台にするのなら兎も角、7万台と言うべらぼうな目標への挑戦であったから、
今までのカワサキのイメージをそっくり一変するようなことでないと達成できないと思っていた。

レースに弱く、宣伝のセンスがなくて、大衆的でない、常に挑戦しない、海外に強く、個性的なデザインで、玄人受けがする   
最初の調査のイメージは、こんな大変なものでイメージ総量も小さかった。
海外は兎も角国内のイメージがないに等しいのである。
こんな博報堂の市場調査からスタートしている。

2年が経過しての調査では、まずイメージ総量が4倍ぐらいになった。
一般がカワサキを意識したということである。
特に宣伝のセンスもよく、常にチャレンジするという評価に変わった。
これが成果であった。この研修会の発表者を営業ではなしに、イメージ担当者ばかりにしたのもそこに全力投球していたのである。
台数もゼファーの好調とジェットスキーで大きく伸びたが、イメージは完全にいい方向に動き出したのである。


ゼファーが売れて、KAZEが一世を風靡し、レースもそこそこ勝って、面白いイメージ広告が並んだ90年代初頭、当時のカワサキのイメージ覚えておられる方も多いと思っている。


この時期、博報堂のマーケッテング部門と付き合った。
少々金は掛かったが、広告代理店も本社スタッフは本当に確りしている。
世の中の流れを読む目は正確であった。


新時代の予測事態   90年代のジレンマ

1.自分の快適、他人の迷惑
2.日本の快適、世界の迷惑
3.人間の快適、地球の迷惑
4.昔納得、今不満
5.造り手満足、使い手不満

90年は『社会性消費』 広がる生活 かかわる社会

こんな時代になるとの予測だった。
台数などもことは、あまり一生懸命にならずに、こんな対策を大真面目でやっていた。

二輪の営業はシステム販売である。いい商品をいい時期に流せば自然に売れる。
一番売りたいのは販売店自身であって、売れないときは何かの理由で売れないのである。

時代を読み、時代の要請にあった動きをすることが、一番大事だと思っている。
時代の流れにあった販売網構築が販社の社会的責任の一つだと思っている。
これを間違うと、販売網自体の力が失われるということだと思う。

2008年、今の時代の要請にあった販売政策であって欲しい。


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ドコモのロゴタイプ

2008-07-03 04:29:09 | 発想$感想
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私のお気に入りのブログに大西宏さんのマーケッテングエッセンスがある。

世の中には、意外にマーケッテングや広報について論じる人が少ないのだが、
常にマーケッテングの視点から意見を述べておられる。
ブログのテーマが「マーケッテングエッセンス」だからそうであって当然のことかもしれない。

然し、広報はプロの分野で、解っていない素人が手を出すと火傷をするというそんな例題みたいなものである。

その大西さんのブログがドコモの『新しいロゴ』について取り上げている。


私は携帯電話を持っていないが、ドコモは知っている。
半ば官みたいな大企業だという認識である。

従来のドコモと言うロゴタイプは知っていたし、そんなに悪い印象は持っていなかった。
このたび7月1日から新しいロゴタイプに変わるようである。


詳しくは大西さんのブログをご覧いただくとして、こんな風に言っておられる。
よくある話のような気がする。



『 ドコモのロゴタイプ評価のアンケート結果が紹介されていますが、本当に気の毒な結果でした。
新旧デザインで、どちらが好きかという問いに、旧デザインとした人が82%であった。

どんな事情があったのかはわかりませんが、少なくともプロが介在した仕事とはとうてい思えないものでした。

おそらくこのロゴタイプ選定時に消費者調査をしなかったのでしょう。
ブランディングやロゴタイプデザインの失敗事例として、歴史に残るのではないかと思います。』


と手厳しい。確かにどう見ても旧タイプのほうがいい。
意見の中にある『プロが介在しなかった』『消費者調査をしなかった』と言うのが事実なら『そうか、やっぱり』とは思うが、そんな風につまらぬところに経費節減をする企業や自治体は多いのではないかと思う。


広報や、ロゴやカラーリングなどは、誰でも口が出せる。
然し、誰もどれがいいのか本当は解らないのである。
こんな判定に、職位が介入したりすると全然おかしくなってしまう。

二輪のニューモデルのデザインやカラーリングのミーテングを思い出す。
危ないことも多いのだが、意外にカワサキは上手く切り抜けて行ったように思う。
しょっちゅう機会があるからいいのだが、NTTのようにたまにしかない企業は難しいだろうとその検討場面が容易に想像できる。

これは簡単なようで『プロの領域』なのだと思う。



『まず
社内や関係者が候補として選んだものがいいとは限らない。

つぎに
トップの方や役員の方がいいと言った案でまともな評価を受けるということはほとんどありません。
トップのかたは、よほどの目をもった人でないとデザインに口を出すなです。

さらに、
候補案だけで評価というもの危ないのです。
最低限、旧デザインとの比較は必要です。

ドコモさんは、屈辱的な結果がでているロゴタイプをどうするのでしょうか。』


やればやったで難しいのだが、『ロゴやレタリングなど』幾ら言っても検討すらしない自治体などもある。
無関心なのである。
そんなところに限って、広報に熱心そうに見えるから不思議である。
ロゴやレタリングも決めずに、広報予算だけ毎年使っているようなところは、お金をどぶに捨てているということが解っていないのである。

NTTのことばかり、笑ってもいられない。


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もしもーーーたら

2008-07-02 04:38:49 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚
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昨日、明石で高校野球を見た。
その後で、明石公園を歩いてみた。
よく遊んだり、散歩したりしたのだが、もうだいぶ昔のことである。。
多分、40年は経っているのではないだろうか。

昨日の感想、一言で言うと『50年も経つと木は大きくなるものだ』
明石公園の鬱蒼とした緑を見てそう思った。


人の人生いろいろである。

1933年、昭和8年生まれ。面白い時代を面白く生きたものだと思う。
こんなに変化の大きかった70年も、歴史にあまり例のないことではないだろうか。


「もしもーーーーたら」
まず、『若しも、戦争がなかったら』

日本も、日本人も、私もみんな全然違う人生を歩いたであろう。
どうなっていたか、想像も出来ないのである。
私は、多分そのまま今のソウルで暮らしたであろうと思う。
当時の内地、日本に戻る理由がないのである。

明石も空襲などなかったであろう。


『若しも戦争があったとしてもーーー』
『川崎航空機が明石になかったらーーー』
多分、明石は空襲など受けなかったのではないだろうか?

川崎航空機の飛行機工場があったばっかりに、明石は何度もひどい空襲を受けたのである。

個人的にもそれで、叔父や叔母は「を空襲で亡くしてしまった。
私が生まれた家も爆弾でつぶれ焼夷弾で焼失してしまった。
小学校のころ休みに帰省していて、覚えているだけでもよかったと思っている。

ところが、ひょんなことで川崎航空機と関係が出来て、
そして、その関係で私は川崎航空機に入社したのである。


戦争がなかったら、若し川崎航空機が明石になかったら、
私はカワサキとは何の関係も持たずに、全く違う人生を歩いたに違いない。




昨日、明石公園を歩いて、いろんなことを思い出した。
久しぶりに高校野球の後輩たちを見て、自分の高校時代を、
明石公園の木々の成長を見てこの50年を、
焼け野原であった明石の町も淡路島が隠れるくらいにビルが建った。


カワサキでも、よく単車に配属されたものだとと思う。
発動機か単車か。ここが分かれ道だったように思う。

特に、ハードとしての単車には、そんなに関心もないのだが、
世界を相手に輸出ではなく「事業を展開した」二輪業界に入れたことは本当によかったと思っている。
そして、この業界のトップ企業がホンダであった事は幸いであった。
本田宗一郎さんの事業に対する発想が普通一般の日本企業と完全に差別化されていたことが、
日本企業の嫌な体質のなかではなしに、世界の常識の中で生きることが出来たのが大きいと思っている。

「もしーーーーたら」
結局は運かも知れない。ホントに運よく生きられたと思っている。

『つまるところ、運だな』
昨日から、ずっとこんなこと思っている。






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明石球場、夏の予選で。

2008-07-01 04:40:09 | スポーツ
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夏の甲子園を目指して県の予選が始まった。
今年は90年の記念大会で兵庫県は東西に分かれての予選である。

ずっと旧い話だが、昭和25年夏、甲子園に出場した。
どの新聞にも『名門明石』と書いて貰った。
そんなに甲子園の常連校でもなかったのに、そのように呼んでくれたのは、
昭和8年夏球史に残る『中京ー明石の25回戦』の激闘のお陰である。

昭和8年と言えば、私が生まれた年である。
明石の現役の頃、既に投手の楠本、中田さんは戦争で亡くなっておられたが、
1年生の頃は、25回戦を戦った横内さんや後、峰本さんには監督もして頂いた。
25回戦時代の野球部長の竹山九一先生にはずっと精神的な薫陶を頂いた。

常に『25回戦の伝統』を背負った野球部生活で、技術よりは精神的な面で鍛えられたと思っている。

そんな先輩たちも、みんな亡くなって嘉藤栄吉さんお一人が元気で頑張っておられたのだが、その嘉藤さんも亡くなられて昨日明石で葬儀だったのである。

嘉藤さんは生前、内外ゴムでトップボールの開発なども担当されていて、明石のOBたちが集まって寄せ集めのチームを造ったりしていたのだが、兵庫県では結構強かった。その頃からずっとお世話になった。

温厚な嘉藤さんは
『私は25回戦の話は辛いんですよ。25回、私のセカンドからの悪投でーー』と言われていたのを思い出す。
2年ほど前、母校で講演をされたときお会いしたのが最後となった。



たまたま、昨日は母校明石が三木との一回戦が明石球場であったのである。

最近は、母校の応援など行ったこともないのだが、
嘉藤さんが、『たまには、母校の応援でもしてやれよ』とそれにあわせて亡くなられたのではないかと思った。

葬儀には、明石の市長さんや、明石のOBたちも大勢顔を見せていた。
久しぶりの顔も多かったし、同期の連中にも会えたりした。



葬儀の後、本当に久しぶりで明石球場に明石ー三木の対戦を見に行った。
予選の熱気を肌で感じて、何となく若返った感じでもあった。

この球場を訪れることが、嘉藤さんの供養のような気もした。
試合は4-2で明石が勝った。

こんなところに来るといろんな人に会ったりする。
この写真は、明石側ではなくて、三木の応援席からである。
写真もいっぱい撮ってきた。

三木高校の野球部の第1期生の岩田琢磨君(現在は岩脇琢磨)は私と同期で大學での球友である。彼が来ているのではないかと三木の応援席を訪ねたのである。
彼と一緒に並んで見ていた。大學時代、二人ともこの球場でよく練習をしたことがある。

丁度15年前、兵庫の野球OBを集めてチームを造り、大阪、京都のチームと試合をしたことがあるのだが、彼はその兵庫チームのメンバーでもあった。
その兵庫チームの監督をされたのが、当時75歳の嘉藤栄吉さんだったのである。
岩田が試合中そんな話をしていた。『あの頃はお元気だったのに』

私も岩田も今、75歳である。


嘉藤さんいろいろ有難うございました。安らかにお眠り下さい。


こんなブログもアップしました。
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