雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

7万台への挑戦 新しいカワサキのイメージ戦略の時代   3

2020-05-16 06:29:50 | 私の生き方、考え方&意見

★ 『7万台への挑戦 新しいカワサキのイメージ戦略の時代』と題して、
 『私の生き方、考え方&意見』というカテゴリーで、1990年代のことを書いてみる
と言ってしまったのだが、これからどのように進めたらいいのか?  ちょっと困ってしまっているのである。

普通なら『時系列』に並べていけばいいのだが、『私の生き方、考え方&意見』というカテゴリーで、当時の私自身の発想などがベースなので『書くことが多すぎて、何からスタートしたらいいのか』迷ってしまっている。

この時期に限らず、現役40年間の記録は結構きっちり残っていて、当時がどんな時代で、何を考え、何をしてきたのかはほぼ正確に解るのである。

 
★ 父から特に多くのことを言われたわけではないのだが、
男は自分の言ったことには責任を持て』と言われたことが、何故か心に残っていて,
ちゃんと責任を持つためには、自分で言ったことは『紙に書いて残す』のが一番だと思っていて、現役時代の自分の言ったことは、殆どが正確に残っているのである。


7万台への挑戦』というテーマの講演会は冊子になって残っているが、それ以外での発言もいろいろ正規の書類として残っている。
社内でも、いろんな人がいろんなことを言われるのだが、
あとになって『あの時言った意味はな』などと言い訳するようなことも多いので、私はそんな訂正が出来ないように『紙に書いて残していた』のである。

もし間違ったら『間違っていました』と素直に謝ればいいと思っていた。
そんな生き方』は、今も同じように続いている。



★ この時代の『7万台への挑戦』がスタートしたのは、1988年10月1日からなのだが、昭和で言えば最後の年昭和63年で、3か月後には平成が始まっていたのである。

そのスタートダッシュの時期は、ざっとこんなことをやったと纏められているが、
今見ても、大きな課題に取り組んでいるなと思うし、新会社ケイスポーツシステムも半年後の4月には設立されているのである。
私は少々大きな仕事でも『半年で目途は立つ』と思っていて、『半年で出来ないものは10年経っても出来ない』と思っていて、何事も一応は半年目途で対策することにしている。

ユーザークラブKAZEもこの時期に、KSSで本格的に取り組み、その会員カードは『JCBカードを使用することにしている』のだが、このことがホンダ・ヤマハ・スズキの各ユーザークラブが消滅する中で、ひとりKAZEだけが、30年経った今でも存続している理由なのだが、お解りになりますか?

流通業とは「自分の仮説の正当性を問うビジネス」と言われていて、当時私の建てた仮説が正しかったという証左なのだが、


 その具体的な理由などはまたの機会に。
 兎に角、『アタマを使って考える』 
 そんな『ソフトの分野』やそこから生まれる『新しい仕組み』こそが
 利益の源泉だと考えていたのです。


    
    

★88年10月に『レースでも頑張る』と宣言してスタートしているのだが、
半年後の『鈴鹿4時間・6時間耐久』を優勝で飾っている。

その6時間耐久のライダーは、今でもFacebook でお付き合いのある当時はジュニアだった北川・鶴田組だったのである。 
北川圭一は世界チャンピオンになったりしているが、京都の吉川健一くん(ヨシケン)に頼まれて、チームグリーンに私が紹介したのだが、長くレースは関係があったが、ライダーを紹介したりしたのは北川くんが最初で最後なのである。
そんなことで立派になった今でも当時と同じように付き合ってくれるし、鶴田竜二くんも二輪業界で成功されているが、今でもFBに毎日のように『いいね』を頂いているのである。
   


★ 私は、極端に『せっかち』でもたもたしてるのは嫌いだから、
 この1988年10月に国内市場を担当しその1ヶ月目も相当精力的に動いている。
 そんな記録もちゃんと残っていて、その1ヶ月がどんなものだったか、
 明確に解るのである。


10月1日から国内担当なのだが、その日は『オリンピック閉会』などと書いているが、これは『ソウルオリンピック』にジェットスキー・チームでの参加をオリンピック委員会から要請されて、開会式の当日漢江でデモンストレーションを行ったのだが、その団長としてソウルを訪問していたのである。

『家も見れたのは印象的』とあるのは、戦前子供の時に住んでいたソウルの家を見に行ったら、見つけることが出来て写真を撮ってきたりしたのである。
 


 


だから、国内の販社担当は実質2日からだが、
この月もざっと見るとやらねばならぬことは殆ど全てこなしているし、
全国を飛び歩いて忙しく過ごしているのである。

この中で特筆すべきは、15日に一泊どまりで行った
竹園ホテルでのレースOB会開催』である。

こんな会合を最初のイベントとして開催したのは、今後のカワサキのレース活動を本格的にやるという『私の決意表』みたいなものだったのである。

そんな意気込みを25年前のレース創生期を担当した錚々たるメンバーに、
明確に表明したかったし、二輪車新聞の衛藤さんも招いて、記事として全国に報道されたのである。
これくらい大きくやり且つ新聞記事などにすると、と中途半端なレース活動など出来ないので、自らをそんな立場に追い込むのが『私自身のやり方』なのである。

 

 その時集まったメンバーだが、
こんなブログにもアップしたので、ご覧になった方もおられるだろう。
   
   


既に、この世を去られた方も多いのだが、

今も尚、ネットなどを中心に繋がってる人たちも多くて、
私自身の生き方』のベースは、どんな方とも『お付き合いのあった時代のままに』お付き合いすることをモットーにしていて、ここにお集まりも方たちも、社会的な地位の高くなられた方や、有名ライダーばかりなのだが、ずっと昔のレーススタート当時と同じようなお付き合いが続いていたのである。

Facebook で毎日のようにお会いしている山本隆・多田喜代一・大槻幸雄さんもおられるし、和田も宗和も杉本もいるし、平井稔男さんも、田崎雅元さんもいる。
この日のOBライダーでは星野と清原が一番若くてOBの席では二人が末席だったのである。



★ 人の人生は、その人の実力・努力もあるが、『運かな』と思ったりもする。

私はご縁があって川崎航空機に入社するのだが、3年目に肺浸潤で1年程入院し、退院する時にちょうどカワサキの単車の営業部が出来たのでそんな新しい部門に異動になったのである。 入院がなかったら多分違う部門には異動したような気がする。

これなども『運があった』と思うのだが、
若し単車に行かなかったら、
単車でも担当がレースとか販売第1線でなかったら、
ライダーやレース関係の人とも出会えていないし、販売店の人たちとの出会いもなかったので、
結果的にはこんなオモシロい人生にはなっていなかったような気がするのである。

レースで出会った人たちは山本隆金谷秀夫星野一義もみんな超有名ライダーになるのだが、それぞれ持って生まれた才能や本人の努力も勿論だが、何となくそれぞれ『好い運』をお持ちだったと思う。
 
特に金谷や星野は、彼らの給与が月2万円からのお付き合いなのだが、周囲のライダーたちのふとしたことから、その『デビュー』が待っていたりして、そんなご縁を不思議に思うのだが、私も当時ライダーの契約関連を担当していたので、それをジャッジする立場にはあったのである。

そういう意味では、私自身にも運があったし、何となく私に出会った人たちも好運だったような気もする。 

振り返ってみると、私と出会ったというか、密接に関係のあった方たちは、
川重では大庭さん田崎さんと社長になられたし、山田さん、髙橋さん、佐伯さんと3人の副社長もおられるし、成功された方は多いのである。
レース界では、ロードの金谷秀夫、モトクロスの山本隆、4輪の星野一義など、
販売店では、仙台の服部、堺の伊藤、ジェットスキーの福井さんなど、
その若い当時をよく知っているので、不思議なほどの大成功なのである。


定年後、ふとしたことから、KAWASAKI Z1 FAN CLUB の登山道夫さんに出会って、今もいろんなお付き合いがあるのだが、

登山さんがKZFCを作られた時、私も会員になったのだが、
その時頂いた会員カードのNOが、『No. 29』 なので『なぜ?』と聞いたら
福の神』だと仰るのである。


 Kawasaki. Let the Good Times roll !
  
 髙橋鐵郎さんはそれをいつも
 『Kawasaki に出会う人たちがハッピーになるように展開します』と言われていて、

 何となく Kawasaki を 古谷に置き換えて、
 『私に出会う方が、ハッピーになるように行動したいな』とは思っていたのだが・・・

 第3話は、こんなところで。

 
 
 


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新型コロナ対策  いろいろ     雑感

2020-05-15 05:45:34 | 発想$感想

★ 緊急事態宣言が発令されたのは4月8日のことだった。

  



 
 
  それから1ヶ月半なのだが、それがどうやらこんな形で、
 解除される方向のようである。


 


 
    ただ、『緊急事態宣言』が解除される方向ということであって。
 『新型コロナ問題』が終わったわけではない。




★この数か月間、毎日『コロナ問題』で明け暮れているのだが、
 マスコミやテレビなどでは、専門家と称する人たちをはじめとして、
 いろんな意見が飛び交っていて、マスコミがそれを扇動している節がある。
 
 私なども含めて、このようにネットでも取り上げたりするので、
 『1億総評論家状態』になっているのだが、
 ちょっとその度合いが過ぎるきらいがある。

 
 特にこのような『安倍政権のコロナウイルス対策』の評価などは馬鹿げている




  

 


 『コロナ対策』は政府は勿論だが、その主役はむしろ国民の方ではないか。

 少なくとも、世界の先進国に対して、
 感染者数も死者数も圧倒的に日本は少ないのだから、
 そういう意味では、現段階では『大成功』と言っていい

 3月の初めには、今世界で一番の感染者と死者になっているアメリカが
 日本より下にいたのである。
 
 もし、日本がアメリカのようになっていたら、一体どのように言うのだろうか?

  



  

 
ただ、韓国の例を見ても、油断をすると急にぶり返したりする。
この問題は世界中が収まらないと本当の解決にはならないのだから、
一喜一憂することなく、国民全体が冷静に対応する必要があるのだろう。

日本は先進国だと思っていたが、
感染症の検査システムなどでは、全くの後進国であることもよく解った。

検査の数が少ないから、感染者の数が少なく出てて『ホントはもっといる』などと言う専門家もいるが、仮に居たとしてもその数は大した数ではないはずだ。

死者の数が昨日までで710人なのである。 
仮にコロナ感染者に数えられなかった死者が別にいたとしても、
それが若し沢山いるのなら、その周囲での感染者がもっと出て当然なのである。



★ 私は結構、なんでもマーケッテングするようなところがあって、
 末端の実際の状況が気になるのである。
 
 一番問題にすべきは感染者累計などではなく、現時点の感染者実数なのである。
 
 
 緊急事態宣言が出た翌日から、私なりに
 
 感染者累計ー死者ー退院者=実質感染者数

 をずっと『実質の感染者数』を追っかけてきたのだが、
 そのピークは1万人あたりで5月の連休までは続いたのだが、



 


 それからは『減少傾向』に入り退院者も増えて
 今は4月10日あたりのレベルにまで下がり、5500人なのだが、
 今後はさらに減少するスピードが上がるはずなのである。




 

 
 
 『いい時期』での緊急事態解除の方向だと思うし、
 
 そういう意味では、日本政府の採った対応方針も、日本国民の生活態度も、
 世界水準を上回って『みんなで最高に上手く対応した
 と評価して然るべきだと思っている。



★それは兎も角、3月から私の生活態度は『100%コロナ対策』に徹してきた。
 この2ヶ月半、家内以外と喋った時間は皆無と言っていいレベルなのである。

 朝8時から10時頃までは、三木総合防災公園でスロージョッギングなど、
 運動を続けたら、体調は最高によくなった。
 
 昨日の実績はこんなところで、
 1万歩をクリアして、アクテイブタイムも1時間を越えたし、
 体脂肪率は初めて22%台を記録した。

 そういう意味では『コロナウイルス様様』なのである。

 





 
 3月2日が誕生日なので、87歳から新しい生活が始まったのだが、
 スロージョギングは歩くぐらいのスピードなのだが、
 『軽やかに走ってますね』と褒めて頂けるほど、
 大袈裟に言うと現役の運動選手のようなジョッギング・リズムに近づいて
 10本近くやる50メートルダッシュも、
 野球のベース間の距離ならそこそこの速さでスムースに走れるのである。
 決して『ドタバタ』ではなく、
 80歳ごろから始めたダッシュだが、今が一番早く・リズムよく走れている。


★このコロナ問題、簡単には終わらないと思うのだが、
 都会に住んでいなくてよかったなと思っている。
 都会なら、こんな風には行かないのではないか?
 1週間に1・2度家内の買い物に付き合う時以外は、マスクも付けたことがない。
 
 三木総合防災公園から家まで6分ほどだが、こんな環境なのである。


 公園の中も、これくらいの人で、

 マスクをせずに散歩してる人も多い。

 


 
公園からの出口の交差点、人も車もいない。




 右に曲がって500メートルほど 




 そこから坂を上ると、 関西国際大学がある。





 そしてこんな住宅街、 この写真のまっすぐ前、1キロほど先に我が家がある。





 Stay Home なのか、 人も少ないし、車も少ない。




 これから先、果たしてどんなことになるのだろうか?

 コロナ対応で、 さらに『新しい生き方』を前向きに考えたい。

 世の中も、いろんな『新しい対応』が生まれているようである。
 私も、頑張る



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7万台への挑戦 新しいカワサキのイメージ戦略の時代   2

2020-05-14 05:57:15 | 私の生き方、考え方&意見

★ 『7万台への挑戦 新しいカワサキのイメージ戦略の時代 2』 は、
小林茂くんの講演会での発表がどんなものだったかの紹介から入りたい。 

スライドを使っての話だったのだが、
彼の話の切り出しは、こんな女性の裸を大きく扱った広告の話から始まっている。

       

固い会社のイメージしかない『カワサキらしくない』ビックリするような広告なのである。
こんな写真を冒頭に持ってきたことで、川重の部課長さんはびっくりしたであろうし、彼の話を聞く気になったに違いないのである。

話の入り方が、やはり広報の専門家だなと思うところがある。 


        



 この時期の基本コンセプトが『新しいカワサキのイメージ創造』なのである。

 『イメージ』とは『他人の評価』なのだから、
 まず最初に、周囲の人たちに『関心を持ってもらう』 ことがない限り、
 『イメージそのものが湧かない』のである。

 小林くんが語っているように、ホンダさんが『やりましたね』と言ってくれたり、
 販売店など業界の話題に自然になるように仕組まれた戦術展開なのである。

 当時、二輪業界の目は間違いなくカワサキに向いていて、自工会の会合などでも『1強3弱』などと言われたりしてたのだが、HY戦争の時などと違ってKawasakiの動きは、

Kawasaki .Let the Good Times roll !

『Kawasakiに出会う人がハッピーになるようにカワサキは行動する』というコンセプトの通り、二輪業界全体がハッピーになる、そんな動き方をしていたので、結構好意的に受け止めて頂いていたのである。

カワサキの二輪の長い歴史の中で、私ほどホンダさん、ヤマハさんスズキさんと仲が良かった人はいないのではと思ったりしている。
現役時代、社内ではいろいろ言う人がいたが私は車はホンダアコードだったし、娘のバイクはスズキ、ゴルフのクラブはヤマハだった。
特にヤマハさんとは、ジェットスキー関連で同じ協会だったこともあって、ホントによくして頂いたのである。



★1980年代のカワサキオートバイ販売の社長は大庭浩さんが兼務されていた。
数ある世界の販売会社の中でも、カワサキオートバイ販売の社長は常に事業本部長が兼務されていたのである。
これはずっと昔、トヨタ自販・トヨタ自工があった時代、
カワサキもカワサキ自販があってその社長は川崎航空機の専務が兼務されていて、当時は事業部(明石工場)の上位に位置していた会社だったのである。
トヨタは合併したが、川崎航空機はその後川崎重工業と合併したこともあって、その後は事業本部長兼務となったのである。

今の現役諸君は、多分そんな経緯はご存じないと思う。

そんなことで、大庭本部長も社長を兼務されて、大庭さんにとっては、はじめての『社長職』だったこともあって大いに乗り気で『7万台』などと言う数字も大庭さんが言われたのだが、それは途方もない台数だったので、長期目標だけで現実には何の動きもなかったし、堅実な黒字経営に拘る会社として『カワ販』は存在していたのである。

大庭さんが川重に戻られてからは髙橋鐵郎本部長が社長を兼務されていたのだが、1988年10月に突然、『7万台の販売目標』と共に私に国内を担当するよう指示があったのである。

当時のカワ販も事業本部長の高橋さんが社長だったし、私自身も専務職で出向はしたのだが、未だ川重籍だったし、事業本部にとっても当時は事業部への利益貢献度もアメリカを抜いてTOPを走っていたから、事業部に対するリーダーシップも相当に持っていた、そんな時代だったのである。


★ 『7万台』という数字は途方もないもので、二輪だけではとても無理だと思ったので、ジェットスキーを加えて『何とか挑戦しましょう』と、『7万台、売上高400億円』を数値目標として、このプロジェクトはスタートしたのである。

約束した限りは、少なくとも『実現するような方策』を採らねばならないのだが、
従来のカワサキのイメージを変えない限り、7万台はとても無理だと思ったので、
従来のような販売店への販促対策ではなく、
イメージ創造の主役である末端の二輪ユーザー』に直接働きかける方策を模索したのである。
その具体的な施策として、SPA直入という日本ではじめて一般ユーザーが走れるサーキットの建設や、二輪ユーザーの組織KAZEなどの展開を本格的な『ソフト会社ケイ・スポーツ・システム(KSS)』を設立して本格的に対応したのである。

従ってこの時期の主役は、販売会社や営業ではなくて、KSSであったと言っていい。
そこを中心に『遊んでいても自然に売れるそんな仕組み創造』を目指したのである。



★これは私が担当した直後、
博報堂が調査した『1988年の二輪4社のイメージ』なのである。

余談だが、こんな調査は結構高くて何十万の単位ではなくて『何百万円』の単位なのだが、こんなことから入るのは私ぐらいで、普通は金額を聞いて止めてしまうだろうと思う。

 ただ、本気で『7万台に挑戦』するのなら、現在の自らの実力をちゃんと知った上での対策がない限り、闇雲に突進では、目標が実現したりはしないのである。
 そのあたりは『マーケッテングの基本』の分野なのである。

   
  

 これを見て頂くとお分かりのように、
 当時のカワサキは『個性的なデザイン』で『玄人受けはする』が、
 『広告のセンスがなく』『レースに弱く』『常にチャレンジしない』 
 そんな固いイメージで、これを変えない限り、
 『7万台など夢のまた夢』だと思って
 『新しいイメージの創造』を基本コンセプトにしたのである。


 この時点では、それぞれのイメージ項目もさることながら、
イメージ総量』が小さすぎて、『イメージがない』に近いのである。
そんなカワサキのイメージを向上させるためには、よほど変わったことをやらない限り、他人に関心を持たせることなど難しいので、
例えば広告でも小林くんの『カワサキらしくない広告』がMUST なのである。


1年経って、いろんな活動の結果
幾らか『レースにも強く』『常にチャレンジする』カワサキになっているが、
特筆出来るのは『広告センス』が大きく伸びたことと、
全体の『イメージ総量』が大きくなって、この1年間の活動は大いに評価すべきものであった。

  


そんなカワサキの採った方向を3年続けて、漸く販売台数にもその実績が現われた時期でのこの講演会だったのである。



★そんな意味で、講師に選んだのは
常にチャレンジするソフト会社のKSS』
『レースの強いカワサキを目指すスポーツ推進部』
『イメージ創りの根幹である広告宣伝課』の担当の
3人のメンバーを講演会の講師として選んだのである。

 
私の発想は、常に普通の方とはちょっと違っていて、
●レースサーキットの『SPA直入』や、
●新しいソフト会社『ケイスポーツシステム』や、
●本格的な『ユーザー組織KAZE』など
当時は全く世の中にない新しい存在で、『世の中にないことの説明』はムツカシいのだが、それをやるためには、川崎重工業の決裁は必要なのである。

それが何となくそれが出来たのは、当時の川重の大庭浩社長に絶大な信頼があって、何となくそれらしい説明をすると、そんなに確りご理解はなくても、
古谷がやるならいいか』ぐらいで通ったのだと思うのである。

私の直接の上司は髙橋鐵郎さんという当時でも10年以上一緒に仕事をした方がおられたし、そんな環境に恵まれていたのである。

 
★ ただ、『成功する・実現する』ことが信頼の基盤になるのだが、
7万台という目標が実現しそうな段階での、この講演会だったのである。

もう一度、小林茂くんの講演の内容をこの冊子から一部をコピーしてみます。
沢山喋った中での最後の部分なのだが、なかなかいいことを言ってるので、
時間のある方は是非お読みになって頂きたいと思います。 


     
      

                 
          
  
       

             
      


 ざっと、こんな感じの講演会だったのだが、
 今回のテーマは、この時期カワサキがどんな発想でどのように動いていたのかが
本題なので、今後そう言った課題を中心ご紹介を続けていきたいと思っています。

 ご期待ください。


 
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最近思っていること  雑感

2020-05-13 05:12:45 | 私の生き方、考え方&意見

★ 日本国中が『新型コロナウイルス』の影響を受けている。

 私自身の生活も、3月初めから全く変わってしまった。
   私自身の生き方の基本と言えば、敢えて言えば『差別化』だろうと思う。

 子どもの頃から、終戦・戦後の社会に出るまでの環境の変化も、
 社会に出てからの40年間の『現役生活』も、
 定年からほぼ20年近くになろうとしている『定年後の生活』も、
 間違いなく一般の方たちからみたら『変わっていて
 こんな『生き方や発想』をした人は少ないことは間違いないのである。

 だから、普通に言えば『ちょっと変わっている
 少しカッコよく言えば『差別化できた生き方』だったのだろう。



★ そんな生き方だったのだが、
 この2ヶ月、コロナウイルス問題が日本でも現実対応が必要になって以来、
 さらに『変わった生活』になってしまったが、自分では結構気に入っている。
 
 3月2日が誕生日なので、『87歳になってからの生活』が変わったと言っていい。
    それまで続けてたジムでのトレーニングから、外の公園でのそれに変わった。
 約2時間、スロージョッギング・ストレッチそしてダッシュで仕上げている。
 それも、ジムに行ってた時よりも、より確りと出来ている。
    家の体重計に出る数値はどんどんよくなって、
 昨日は、体脂肪は23台になったし、年齢ははじめて72歳と出た。

 10時過ぎには家に戻るので、夜寝るまでの時間はたっぷりあって、
 その時間を兎に角『独りで過ごす』ことになって、
 Stay Home だから時間があり過ぎるのだが、
 『時間を持て余す』というようなことは全くなくて、いつの間にか寝る時間になる。

 『環境の変化』には子ども時代から今まで『柔軟に対応』することには慣れていて、
 今回も『ちゃんと対応できている』のである。

 端的に言えば、今までよりはちょっとだけ『広い範囲』で物事を見たり、
 今までの『生き方』から『更に何か新しいこと』などと思ったりしている。
 そんな『考え続ける時間』が出来て、何となく充実感がある。

 

★ これは今朝、防災公園でストレッチをしてる時、見上げてた空の写真だが、
 こんな空を見ながら、いろんなことを考えたりしている。

  



 公園の芝生のあまり手入れされていないところには、
 こんなクローバとたんぽぽがいっぱいなのだが、手入れされているところより、
 こんな『自然に近いのはいいな』と思ったりしている。




 それが『特にどうだ』ということでもないのだが、
 今まで見えていなかったものが『見える』ということは進歩だろう。


 もう10年以上続いている『この雑感日記』をちゃんと考えて、
 時間をかけて書き出したのは、ごく最近のことで、
 今までは単にさらーっと書き流していたのだが、
 読み返して校正したりするのは、初めてのことなのである。
 


★ そういう意味では『コロナウイルス・様様』なのである。

ネットをやっててよかったな』と改めて思っている。
ネットではコメントなどで話も出来るし、外の様子もよく解るのである。

私は、どんな方とでも同じように接することが出来るのが『特技』で、
そう言う意味では『ネットはみんな横一線』だから、非常に私に合っている。

世の中には『社会的地位や職位の高い』いわゆる『偉い方』がいるのだが、
不思議なほど私は、
例えば『会社の社長』などを『偉い方』などと思ったことがないし、
そんな方に対しても『普通の年上の方』とまったく同じ対応で通せたのである。
運動部育ちなので、先輩には『敬意を』、後輩には『気安く』で通している。


中学1年生の頃だったが、世の中の大人の方と初めて話をした方が、後、川崎重工業の社長になられた砂野仁さんで、伯父の知人だったのだが、私にとっては単なる『おっちゃん』で、その時はまだ『偉い方』とは思わなかったのである。

伯父宅で飲んで、お宅まで、お送りしたことも何回かあったのだが、
その時、明石公園の中で大きな声で歌を歌われる砂野さんを知ってたから、
大会社の社長さんになられてからも身近に感じてたのかも知れない。
私は砂野仁さんのコネで川崎航空機に入れて頂いたので、人生の恩人なのである。


大体87歳でネットなどやってる方が珍しいのだと思う。
昨今『人生の先輩』などと持ち上げられることもあるのだが、
長く生きた』からいろんな経験があるのではなくて、
普通の方は見逃すような『つまらぬ?こと』にでも関心を持ったりするので、
それが積み重なっただけだろう。
それは一言で言うと『好奇心』かなと思ったりする。


★人間は『生きてきた経験をベース』に今を生きているのだと思う。
だから、どんな経験でも経験は貴重だし、
新型コロナウイルス体験』もまた新しい『貴重な経験』なのである。

特にこの『コロナウイルス問題』は、間違いなく世の中の発想を変えそうである。
日本は先進国だとばっかり思っていたが、ウイルス検査などの分野では全くの後進国だということがよく解った。

いろいろ言われているが、
今のところ感染者の数も、死者も世界に比べて桁違いに少ない。
これは国やリーダーたちの方策の成果というよりも、
状況を理解して適切な行動をとった、日本民族が優秀だったということなのだろう。

ただ、ホントの評価は、終わってみないとよく解らないのだが、
コロナ問題を契機に
世の中がいい方向に変わった』と言えるようになればいいなと思っている。

私自身は間違いなく、既に『いい方向に変われている』のである。



 
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薔薇が咲き出した

2020-05-12 06:36:03 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★ 5月11日、今年もバラが咲きだしました。
 
今年は暖冬で桜などは早かったのに、
薔薇は2,3日例年より遅いような気がします。


いつものことですが、 黄色い薔薇から咲き始めます。

 
 



ただ全体としては、ホントに咲き出したばかりなのです。


  



 
  陽当たりのいい前庭は、まだ蕾も多いが、こんな感じにはなりました。

 



 銘花・アンクルウオルタの香りが素晴らしい。

  



 まだ蕾がいっぱい です。




 

ピエールド・ロンサール や アンジェラ が咲き出しと本格的になりますが、

もう少しです。

 




 いつもは連休中に咲き出すのですが、

 この花の名前 お解りですか?
 

 


 
 あやめ や 菖蒲では なくて  杜若(かきつばた) です。

   もう少しすると  隣の 花菖蒲 が咲き出します。


   



 ちょっと、 遅い 早い はありますが、

 季節は間違いなく、巡ってきます。



    
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7万台への挑戦 新しいカワサキのイメージ戦略の時代       1

2020-05-11 06:48:15 | 私の生き方、考え方&意見


★ ごく最近小林茂くんが
  Facebook に私の現役時代の写真をアップしてくれたのだが、
  その1990年代の私の現役時代最後の10年間のテーマが、

 『7万台への挑戦 新しいカワサキのイメージ創造』だったのである。
 
 そんな当時の基本コンセプトについて纏まっているこんな冊子がある。



   
 


この冊子の冒頭にこのように紹介されていて、
当時の事業本部の部課長250名に講演会の形で話したものを要約することなくそのまま文章にしたものなのである。

この冊子を作ってくれたのは『岩崎茂樹くん』で、私とは親交があったのだが、
この紹介文を見ても、当時の私や国内販売の基本コンセプトを、間違いなく理解してくれていたと思っている。

 それはこのように紹介されている。

日本国内市場を担当しているカワサキオートバイ販売が、ここ数年の間、取り組み且つ相当の成果を挙げ得た一連のマーケッテング活動をご紹介致します。
これはさる1月29日、明石に於いてCP事業本部部内関係者約250名を集め、講演会の形で披露されたものを、要約することなく、そのまま文章にしたものであります。
 皆様方にお汲み取り頂きたいのは、そのユニークな手法ではなく、なぜそうしたのか? 何を狙っているのか? といった、一貫して中を貫いている ”哲学”=基本的な考え方であります。
特に、取扱商品をハードウエアとしたとき、それに絡んでくるソフトウエアの部分をビジネスとして捉え、ハードウエアだけでは、最早、競争相手との差別化が困難となったこの時代に、このソフトウエアのビジネスをイメージ構築の柱とした、ダイナミックなマーケッテング活動を、市場環境や、ユーザーの意識の変化に即応して展開していく姿勢をも学んでいただきたいと思います。
そうして頂くことによって、手法の一つ一つはそれぞれ、ご担当の市場に適用できないまでも、貴市場独特のマーケッテング活動計画策定に、必ずや一灯を投じる役割を果たし得るものと信じます。
   

         


★この1990年代の約10年間は、私の現役時代の『集大成』と言ってもいい時代で、
 『7万台』という途方もない目標も達成できるのだが、
 それ以上に『新しいカワサキのイメージ創造』がホントは中心課題で、
 『7万台達成』はその結果だったのである。

 この時代のことを、いつかは書きたいなと思っていたのだが、
 突然Facebook に小林茂くんが、
    この講演会のこんな写真をアップしたので、
 その時代のことを纏めてみようかなと思いたったのである。


 

 
 
 ★今までこのブログでも『カワサキのこと』はいろいろとアップしてきたのだが、
 『カワサキの歴史』 をその中心課題として纏めてきた。 
 
 今回は『7万台への挑戦 新しいカワサキのイメージ戦略の時代』と題して、
 その時代の私自身や、周囲の人たちの動きなどを中心に、
 そのベースにある『私自身の発想や生き方を』を、
 『私の生き方、考え方&意見』というブログのカテゴリーで纏めてみたい。

 
 今日が第1回なのだが、『第100回』ぐらいまで続いたらいいなと思っている。
 どれ位の期間になるかは解らぬが、『100回分』ぐらいの材料は多分あるだろう。
 
 その第1回は、小林茂くんがそのきっかけを作ってくれたので、
 そんな彼に関係のあることからスタートしてみたいと思っている。


★ この講演会は、髙橋鐵郎本部長(カワサキオートバイ販売社長兼務)から、
私が依頼を受けたのだから、私一人で喋っても勿論何の問題もなかったのだが、
目標達成のために頑張ってた営業以外の3人も講師に選んだのである。

 
講師のメンバーと内容はこんなことだったのである。


  



講師は私と、ケイ・スポーツ・システムの南常務、スポーツ推進部の重本部長、そして広告宣伝課の小林課長で、
聴衆は当時の事業本部の部課長250名なので、
そんな人たちに対して、私は兎も角、
子会社の若手のこんな3人が話をすること自体が異例なのである。
 
3人が話す内容等、私は事前には何の報告も受けずに、
ぶっつけ本番みたいなものだったが、
日頃やってることを話すのだから『任して、大丈夫』という私の発想なのである。

当時、彼ら3人がやってたことは、『それなりに高度な水準』だったという自信があったからそんな判断になったのである。


ただ、私は大勢の聴衆の前で話す機会は何度も経験していたのだが、
多分この3人にとってはこんな経験ははじめてだから、
そんなに上手く時間調整なども出来ないかも知れぬし、
講演の時間は決められているので、それは最後に『私が調整すればいい』とぶっつけ本番でのスタートだったのである。


その出来栄えがどうであったかは、
こんな冊子に纏めて社内は勿論、
海外販社には英文にして、
さらに高橋本部長は当時の川崎重工業の大庭浩社長以下全役員に配ったりしているので、『想定以上の評価』であったことは間違いないのである。

私は後、大庭さんから、全役員に国内市場のことを話すように指示を受けたりするのだが、機会があればその話もと思う。



★この講演会で、小林くんがどのような話をしたのかは、次回に譲るが、

 Facebook に小林くんは、こんな投稿もしているのである。


  



★私の話は兎も角
 
●南常務の『KSS とKAZE活動

KSSとはケイ・スポーツ・システム という「ものを造る川崎重工業」の中では珍しいソフト会社なのだが、そこでは30年経った今も尚続いているユーザークラブKAZEを片手間ではなしに『ソフトビジネス』として捉え、ソフト会社の中心課題として、真正面から取り組んだのである。 

HART ・YESS など他メーカーのユーザークラブが全て消滅している中で、
KAZEが残っているのは如何にその取り組みがホンモノであったかの証左だろう。 私は今も現役のKAZE会員なのである。

● 重本部長の『スポーツとレース活動

それまでのカワサキはレースに力を入れていたとは言い難い状況だったのだが、
この時代のTEAM GREENは、カワ販で担当していて、ロード・モトクロスとも、相当の力の入れ方だったのである。
ファクトリーに 宗和・塚本・多田、
TEAM GREEN に 北川・鶴田などがいた時代で、
オモシロかったのだが詳細はまたの機会に。

● 小林課長の『広宣活動

 どんなことを喋っているのか?
 これは次回にでも譲ることにして、
 カワサキの初代の広告宣伝課長が私で、2代目が岩崎茂樹さんなのである。
 
 小林茂くんは、確か榊君の後の4代目だと思うが、
 カワサキの歴史の中で一番長く広報を担当したのではなかろうか?

 広報とか広告の世界は、なかなかその評価もムツカシイのだが、
 『新しいカワサキのイメージ創造』という基本コンセプトを実現のための、
 非常に重要な役割を担っていたと思う。


広報については、私自身が専門に近い分野だったが、
小林くんが広告宣伝課長時代に、彼に具体的な広告の指示など出したことはない。彼は清水君と二人で結構自由にやっていたと思う。 

 

この講演会の講師にも、迷うことなく選んでいるのは、それなりに信頼していたのかなと思っている。

当時のカワサキの広告は結構ユニークで、
広告代理店とは私は結構密接に関係していたが、
それは基本コンセプトの分野で、具体的なことには『口を出したりはしていない


私は部下に仕事を任すというか、権限を渡すときに、
権限とはその人に与えられた誤りの量である』という認識で臨んでいて、
仮に、小さな誤りがあっても、それをすぐに指摘するなどは意識的にしなかった。
誰でも、自由に任したら、そんなに大きな誤りなどしないものなのである。


★これは、2013年の私自身の旧いブログだが、
その中で広告の話に触れていて、
こんな広告と一緒に、小林茂くんも登場している。

時間のある方は、リンクをお読みください。



 
 
 
 
 では第1回は、まずはこんなんところで、
 
 第2回をご期待ください。


 

  
 




 
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私の人生 いろいろ  雑感

2020-05-10 07:03:43 | 自分史

★私の父方の祖父は、
私の生まれた時はもうこの世にはいなかったから知らないのだが、
母方の祖父は知ってはいるが、
孫が気軽に話をできるような存在ではなかった。

87年人生を生きているが、振り返ってみると、
いい環境の中で生きられてよかったと思っている。
私自身は物事に対して、『不満』などあまり感じたことはない。

職業や職位』など『何になりたい』と思ったことは一度もない。
何となく人が決めてくれた道を歩いてきた。
人に頼まれたことを素直にやってきただけである。

現役時代も最高にオモシロかったが、
1980年代からは、私の異動を決めてくれたのは川崎重工業の副社長の方たちで、
結構内容はムツカシイ課題だったが『上手くやるように』と頼まれたので、
自分の思う通りに動けた』のである。

1990年代の最後の10年間は、国内市場を任されたのだが、
当時の川重社長の大庭浩さんから、『君はマーケッテングは専門家だから技監を』と今まで技術屋さんしかなれなかった『技監』の職を頂いて大満足だったのである。


★ただ、強烈にその時々『自分のやりたいように』
それには一直線に向かっていったようなところはある。

そんな性格や、生き方は『遺伝の要素』があるのだろうか?

私には男の子ばかりだが、4人の孫がいて、夫々違うのだが、
何となくそれぞれ私に似たところを持っているようにも思う。
 
息子よりも、むしろ孫の方にそんな性格的なものは『似たもの』を持っているので、
私の性格は、ひょっとしたら『祖父が持ってたもの』に似てるのかなと思ったりするのだが、その祖父がどんな性格だったのかがよく解らないのである。


★父は元気だったのに、戦後脊髄カリエスになって、52歳で亡くなってしまった。
父とも、二人で話などすることもなく逝ってしまったが、厳しいところがあって、甘やかされた経験など一度もないのだが、私はそんな父が好きだった。


  

 

伯父が本家だったが、
私が子供の頃は、後継ぎがいなかったので、
お前が継げ』と可愛がってくれたし、
小学生の低学年の頃から、伯父が遊ぶ夜の世界などにも連れまわされて、
大人の宴席がどんなものかは、コドモの頃に知っていた。

 右が父、左が伯父である。
  
  
 


父は、高校3年の時に亡くなってしまって、
大学も、就職もすべて伯父の世話にはなったのだが、 
私が『お金に何の興味もない』のは、お金があるのは『あまりいいことではない
と伯父の生活態度など見て、なんとなくそう思ったからだと思う。

お金はないと困る』が、必要以上にあるのはいいことではないと思っている。
だから『お金を増やそう』と思ったこともないし、増えたりもしていない。

父からも、子どもの頃から『こどもは金など持つものではない』などと言われて、
小遣いもお年玉も貰ったことはないのである。

私は現役時代も今も『小遣い』など貰ったことはないし、
財布の中には大金など入っていたことは一度もないのである。
金のことは一切家内任せで、
アメリカに行くときなども、私は一切ドルなど持っていかないのである。



★これは伯父も父も未だ早稲田の学生時代で、
祖父・祖母など当時の一家の珍しい写真だが、
私はここ明石市上ノ丸2丁目720番地で生まれた。


  
  

 明石公園の外堀に面していて、今は何十軒の家が建っているので
 『上ノ丸2丁目720番地』という住所は存在しなくて、
 私の本籍だけが残っている。

 
今頃になって、私が一番知りたいのは 祖父古谷虎雄のことで、
ひょっとしたら、私は『祖父に似ているのでは』と思うのは、
伯父とも父ともあまり似たところがないと思うからである。



★こんなブログをアップしたのも、昨日何となく『古谷虎雄』と検索したら、
 こんなページが現われて、
 その中にある『明石紳士録』の中に祖父のことが書かれていたのである。

 

 
はじめて知ったが、祖父は幼少の頃は『孤独で不幸な境遇』と書かれている。
会社を立ち上げて『明石第一の大会社』にしたようである。






さらに、その後朝鮮に渡り、太田電気の経営に当たり、
私が物心ついた時はその太田にいたのはよく覚えている。


  


 
その後、南鮮合同電力となって、京城(今のソウル)に移ったのである。
伯父はその南鮮合同電力のオーナー副社長で新聞に人事往来なども載ったりしていた。



★私自身は、子供の頃のこんな恵まれた境遇の中で育って、
 上ノ丸の家には伯父がプールを作ってくれたり、
 戦前なのに自家用車があったりしたのである。
 
 戦後一転して大変な生活も経験するのだが、
 不思議なほど自分の人生が不幸・不運だったと思ったことはなくて、
 『常に最高の人生』だったと思って生きてきたのである。

 あまり一般の方は経験しないような、そんな人生だったのも
 『運がよかった』と信じて疑わないのである。

 そんな人生だったが、私の孫たちは、『私と祖父との関係』とは全く違って、
 今でも『トモダチづき合い』のような気軽な関係なのである。
 孫たち4人の中で、特に意識したわけでもないのだが、
 
 一番関係があるのは、息子の方の古谷仁
 娘の方では次男の門野真也で、

 真也の方は昨日もFacebookにこんな動画をいっぱい送ってきてアップしてくれ
 と言うし、こんな絵を画く才能は誰に似たのか、
 コロナウイルスで閑なものだから、
 弟の哲也のこんな似顔絵を毎日1枚書いてそれを私に送ってくるのである。

 3月から毎日1枚、書いていてもう2ヶ月も続いているようである。
 何でも『熱心にやる』ところは似てるのだが、
 その熱心さの『度合い』が半端ではなくて、真面目なのである。


   


  


 

 絵を画くというと父も趣味でこんな絵を画いていた。


   

  



今日はFacebook の『7日間 ブックカバーチェンジ』で
古谷仁が責任者で纏めたこんな冊子の紹介をしてやろうと思っているのである。


  
  
 
古谷仁は、本当にちょっと変わっていて、
慶応大学の卒論を書くために1年留年して世界を廻り、
それを卒論にして優秀賞を頂いたりしたのだが、
すぐ就職などせずに、この『Ripple Room 』などに携わり、
好きなことをしていたが、
今年『クルート』に入社したようだが、今年入社出来てよかったなと思っている。
自分のやりたいように生きる』ところは、私にも似てるのかなと思っている。


★いろいろあった人生も『残り多い』とは流石に言えない歳になった。
 ホントにコロナが、世の中を変えるだろうか?

 祖父も、伯父も、父もみんな早く亡くなってしまったのだが、
 私がこんなに長生き出来てるのは、
 間違いなく、103歳まで生きた母や、
 102歳まで生きた祖母の遺伝子だろうと思う。

   

 いろいろあるが、人の人生などホントは決まっていて、
 素直に生きるのが一番だと思っている。


 

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7日間 ブックカバーチャレンジ  6日目

2020-05-09 06:06:05 | ネット、Twitter & Facebook、Instagram

兵庫県立大学の松本茂樹先生から、こんなメッセージが届いてスタートした。

7日間ブックカバーチャレンジ!』
 読書文化の普及に貢献するためのチャレンジで、好きな本を1日1冊選び、本についての説明はナシで表紙画像をFacebookへ7日間アップを続ける。その際毎日1人のFB友達を招待し、このチャレンジへの参加をお願いする。 

どんな本にしようかなと思ったのだが、
著者の方とお付き合いのある本ばかりを並べてみようと、
こんな順序でスタートした。


● 1日目は、浜脇洋二・大槻幸雄・アランマセック・稲村暁一・富樫俊雄・多田憲正・百合草三佐雄・清原明彦・山本信行・竹端精士・種子島経・斎藤定一・野田浩志・古谷錬太郎という

カワサキの皆さんが書かれた『カワサキZの源流と軌跡


      




● 2日目は現役時代から密接にお世話になったマーケッテングの服部吉伸先生
 その後立命館大学の教授などもなさって今は独立、
 Facebook でも繋がっていた。


      




● 3日目は、佐賀県武雄市の市長などもされて、今は超有名人の樋渡啓祐さん
この本はまだ読んではいないにだが、
反省しない』は私の性格テストで強烈に指摘された『私の欠点』なので、
非常に興味があったのである。

樋渡さんが総務省から高槻市役所の市長公室長に出向されてた時代、
ホームページに書かれた樋渡さんの文章に惹かれて繋がったのである。
このブログを書きだしたのも、
樋渡さんの『ブログ・ブログ・ブログ』という文章の影響なのである。


      

 


 ● 4日目が電動バイクのテラモータースの徳重徹さんの世界に挑め!
まずはテラモータースの社員の方からネットで私に連絡があり、
直接お会いしたりしてたら、それが社長の耳にも入ったのだろう。
徳重さんから『神戸でお会いしたい』などと連絡があって繋がったのである。



       



● 5日目は、カワサキ時代からレース関係でも密接に繋がり、
 今も密接に繋がっている大槻幸雄さんの『純国産ガスタービンの開発
 Zやマッハの開発でもそうだったが、
 ガスタービンの開発に懸けた大槻さんの熱情は二輪以上かなと思ったりする。
 600ページにも及ぶ大槻さんらしい力作である。       



                       


 

★ そして今日が6日目である。

 6日目は『奥井俊史』さんのこんな本。
 ご存知の方も多いと思うが、
 日本にハーレダビットソンを定着させ、大型車のトップに育てられた
 ハーレジャパンの社長さんを長く勤められた奥井さんである。

 

  



奥井さんとは現実には2016年12月9日、だったからほん数年前。
カワサキプラザ大阪のオープン披露パーテーで一度お会いしただけなのだが、
ホントに不思議なご縁で繋がっているのである。

その時の写真である。


    



この『7日間ブックカバーチャレンジ』のこと、
今まではブログにはアップしてなかったのだが、 
奥井俊史さんとの不思議なご縁は、一度纏めて書いておこうと思ったのである。 



★私は1998年までカワサキの国内販売の責任者として現役を務めていたのだが、
 その退任が決まって、北海道川重建機の社長が決まっていた時期だったから、
 1990年だったと思うのだが、
 大阪の船場の岡田博社長から
 『ハーレージャパンの奥井さんと会って欲しい』という電話があったのである。
 
 トヨタ自動車から当時のハーレージャパンに移られた奥井さんだったのだが、
 1989年8月に日本法人のハーレーダビッドソンジャパンが設立されている。      

 同じ自動車工業会なのだが、
 『二輪の市場は全く4輪とは異なるので』 
 そんな対策の相談を岡田さんにされたようなので、
 そんなことなら『カワサキの古谷に会ってみたら』との電話だったのだが、
 当時はほんとにバタバタしていて、お会いすることは出来なかったのである。

 私は人に物事を頼まれたら、よほどのことがない限り『断ったり』はしないのだが、
 よく覚えてはいないが、札幌に電話があったりしたような記憶がある。
 そして、これは多分私の推測だが、
 当時のカワサキの販売戦略を纏めた
 『7万台への挑戦』という冊子があったので、
 これをお渡ししたのではないかなと思うのである。



  

 
 
 この冊子は『新しいカワサキのイメージ創造』という副題にもあるように、
 当時のカワサキが採った政策を
 約3時間川重の部課長に発表したものをそのまま纏めたものなのだが、
 そこにはカワサキが採ってきた基本的なコンセプトが全て話されている。

 私自身は、この発表の中でも語っているように、
 二輪業界という小さな業界で
 他メーカーとシェア競争するなどは全く馬鹿げていて
 『業界全体が発展すること』がMUSTだという発想だったから、
 多分奥井さんにもこの冊子をお渡ししたのではと思っているのである。

 そんな風に思う『根拠』は二つあって、

 ひとつはその後、ハーレージャパンが採られた政策は、
 カワサキ以上に徹底した『イメージ向上戦略』が採られて、
 1981年には日本でのハーレーの地位を確固たるものにされているのである。

 もう一つは、2012年9月に
 『Kawasaki Z1 発売40周年の記念Reunion』がアメリカで開催されて
 私も出席しKMCも訪問したのだが、
 その当時のKMCの社長は、
 伊藤忠からカワサキに移られた寺西猛さんだったのだが、
 初対面だったにも拘わらず、『私のこと』をよくご存じなのである。

 これがその時アップしたブログだが・・・・






 『なぜご存じなのですか?』 と聞いたら、
 『ハーレージャパンの奥井さんからいろいろ聞いている』と仰るのである。

 寺西さんが伊藤忠時代、トヨタ担当でそのトヨタの方が『奥井俊史』さんで、
 そんなことで非常に親しい間柄だということなのである。

 現在寺西さんは国内のカワサキモータースジャパンの社長をされていて、
 いま、カワサキの新しい販売網政策『カワサキプラザ政策』など推進中なのだが、
 奥井さんはそんな寺西さんとの関係で、
 カワサキプラザ大阪の開店披露パーテイーにも顔を出されていて、
 私もお会いすることが出来たのである。

 船場の岡田博さんには、ホントにお世話になったのだが、
 そんな岡田さんの申し出にお応えすることが出来なくて、
 気に掛かっていたのである。
 昨年だったか、久しぶりに株・船場にお伺いしたのだが、
 そのときも、奥井さんのお話が出て、
 カワサキのパーテーの後、船場に寄られたそうである。


 いろんなご縁で、いろいろと繋がるものである。



★ さて、本題の 『7日間 ブックカバーチャレンジ』 の7日目は明日だが、

  それはこんな表紙の『Ripple Room』 にしようかなと思っている。


 

 
 そこには何も書かれていないが、
 この冊子は Team Ripple のメンバーたちで創られていて

 その代表者は 孫の古谷仁 なのである。


   


  全国ののストリートダンス・チームを訪ねて、2冊にまとめ紹介していて、
 1冊2500円と結構な値段で、2000冊印刷したらしいが、
 ほぼ順調に売れているらしい。

 慶応大学のダンス部のメンバーたちで製作したようである。
 資金はクラウドファンデイングで集めたようで、目標額以上が達成できたとか。
 『最近の若いもんは』 なかなか立派だと思ったりしている。


   
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自分の写真 いろいろ    雑感

2020-05-08 05:56:28 | 発想$感想

★ つい先日、小林茂さんがFacebookにこんな2枚の写真をアップしてくれた。

 カワサキの現役時代の写真なのだが、
    中島直行さんと一緒に写っているので、
 1988年ごろ、65歳の頃である。





 もう1枚は、もう少し前1900年代前半ごろではなかろうか?






★信じられないかも知れぬが、
 カワサキの現役時代40年間の自分の写真など殆ど持っていないのである。

カメラも持っていなかったし、
自分の目で確りと観ればいい』などと変に拘ったところがあって、
現役時代の40年間は他の方たちが経験しないような世界の貴重なところに行っているのだが、そんな写真が1枚もないのである。


今思えば、ホントに『残念なこと』だったのである。
晩年に、こんな時代になることが解っていれば、
間違いなく沢山のいい写真を撮っていたはずなのである。

●1960年代に入社し、
1965年から二輪事業に関係し、広告宣伝を担当したり、
カワサキ創成期のレースに関わったりもしたのだが、
その当時の写真は1枚もない。

●1971年には当時は多分日本で初めての
二輪販売店100人余りのアメリカ市場視察旅行もやっているのだが
西海岸のサンタナや、ロス、サンフランシスコ、帰りにハワイにも行っているし、
ハワイもレンタカーを借りて島を一周したりしているのに、
写真は1枚もないのである。

●1975年からは川重に復帰し、開発途上国市場を担当したので、
かっての王政時代のイランの各地や、タイ・インドネシアは勿論、
アフリカのナイジェリアなどもレンタカーで自分でハンドルを握って、田舎にもラゴスにも行っているのだが、
このころの写真も1枚もないのである。

●1980年代の写真もないのだが、
この当時コンビを組んでいた田崎雅元さんが、当時の写真をいっぱい持っていて、ごく最近私に送ってくれたので、このブログでもご紹介したので、この当時の写真だけが何枚か、ネットで保持している。



★そんなことなので、この小林さんがアップしてくれた写真は貴重なのだが、
定年後はパソコンやブログなど、ネットの世界に入ったので、
逆に結構沢山の『自分の写真』も持っている。

ただそれは定年後だから、『70歳・80歳代の写真』ばかりなのである。


これは2012年だから、79歳の頃だし、


       



  
これは久しぶりに、
昨日はFacebook の中でお会いした樋渡啓祐さんと
神戸でお会いした2014年7月のことだから81歳の頃の写真である。
 
   
 


 なぜ突然、樋渡さんと?
 実はFacebook でいま行われてる
 『本の紹介を7日続けて7冊やろうというプロジェクト』で、
 私は、現実にお付き合いのあった方が書かれた本ばかりをを紹介中なのだが、
 
 そんなことで、この写真に持っておられる本にしようかとも思ったのだが、

 

 
 『反省しない』というこんな本があって、
 実は私の性格調査では『反省しない』が強烈に表示されるものだがら。
 まだ読んではいないが、この本をご紹介したのである、




 ちょっと、脱線したが、
 これは1昨年の春だから85歳当時





 そしてこちらは孫と初日の出を拝んだ、今年の元旦86歳である。





★ お蔭様で、結構元気にしているので、

 自分でいうのも何だが、65歳当時とあんまり変わっていないような気もする。

 この現役時代最後の頃が、間違いなく体力的には最低な時代で、
 体力が復帰しだしたのは、70歳から始めたストレッチのお陰なのである。

 この3月からは、『コロナウイルス』のお陰で、他にやることもないので、
 毎朝、きっちりとランニングなどやりかけたら、
 この2ヶ月で間違いなく体は確りとして、
 我が家の体重計でも2ヶ月前は77歳前後と表示されていたのだが、
 この数日『73歳』と表示されるようになったりした。


 これがごく最近の『自撮り』の写真 87歳である。

   



 将来、また観ることもあると思うので、『自分のために』纏めてみた。

 
 そんなきっかけを作ってくれた 小林茂さん、ありがとうございました
 お礼を兼て、近いうちに『小林茂さんのこと』 書いてみたいと思っている。




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今年のゴールデンウイークが終わった。

2020-05-07 05:52:19 | 私の生き方、考え方&意見

★ こんなゴールデンウイークがあるなど、今まで想像すらしたことがない、
 そんな今年の『ゴールデンウイーク』が終わった。

     


     
 今後も、世の中は一変するかも知れない。
 今年の新型コロナウイルス騒動は、いつどのように終わるのかは解らないが、
 この2ヶ月、私自身も『コロナウイルス』のお陰で、新しい体験がまた出来た。

 今年で87年、激変と言える戦前・戦後の時代を生きてきたのだが、
 人生の最後に、また新しい時代に出会えるかもと、
 少々不謹慎かも知れぬが『よかったな』と思ってるし、
 『長生きできてよかった』と思ったりしている。



人間、危機に遭遇すると思いもしない力を発揮するものである
 このゴールデンウイークの街の様子を見て、戦時中を想い出した。
 日本人の団結力というか、基本的に持っているものは素晴らしい。
 世界のどの国よりも優れた民族だと改めてそう思った。
 国が地方の知事がお願いをしたら、これほど素直に辛抱できる国民なのである。

 
    同時に、危機になるとリーダーの力が発揮される。
 大阪が日本の中心になったような、日本のトップを走っている昨今である。
 10数年前は、日本の中で消えかかっていた大阪なのに、
 橋下さん・松井さん・吉村さんと続いて、大阪は生まれ変わったようである。

 橋下さんがずっと『吉村さん』を褒めていたが、今回の対応を見ると流石である。
 具体的な対応の仕方が素晴らしい。
 確りとした『仕組みで対応』されているところがいい。

 このような具体的な指針を数値で大阪だけが示すことが出来たのは、
 それが出来る『大阪独特のシステムでの対応を続けてきた結果なのである。


  




★現役時代にお付き合いのあった服部吉伸先生はこのように言われていた。
  
世の中には原因のある問題と原因のない問題の二つがある。 原因のある問題は、原因の追究、把握、対策と言う思考ステップで課題を解決する。原因のある問題の解決に必要な能力は創造力と呼ばない。 創造力の源泉はアイデアであり思考ステップの特徴は「絞り込んで考え続けるというところにある
仕組みを造るのは、非常に高度な仕事である。仕組みを造らずに放たらかしの形にして、創意工夫してやりなさいというのは酷である。損なやり方である。
人が自分の価値を発揮できる状態を造りださない限り、人はコストにしか見えないだろう。人はコストではなく価値創造者である。』
 
 
   原因のある問題に対する対応は、日本人は得意なのだが、
 新しく『仕組みを創る』のは、何故か日本人は不得意で、
 今回のコロナ対策でも『仕組みを創って対応した』のは大阪だけかも知れない。



  ★このような『大阪の戦略的な対応』を
 ご本人は今回の危機に対する具体的な『出口戦略』と表現されたのだろうが、

 



国の西村経済再生相はその方向はには賛意を示しながらも、
緊急事態宣言からの出口戦略』としては、『言い方が違う』と
文句をつけたような表現をされたようだが、何故このような言い方になるのだろう?

 


国が出来ないことを、大阪が先にやったのが、気に食わないのだろうか?



『「出口戦略」(exit strategy)という用語』はベトナム戦争時にアメリカ国防総省内で使用されたのが始まりで、 損害が甚大な状況下で、いかに人命や物資の損失を最小限に抑えて軍を撤退させるか、といった検討や実施に対して出口戦略という用語が用いられるそうなのだが

大阪府の吉村洋文知事は、緊急事態宣言が5月末まで延長されることを受けて、
出口が見えないトンネルではなくて、出口が見える戦略を示してほしかった」とコメントされたようで、これが気に食わなかったのかも知れない。



★いろいろあったが、このゴーデンウイークは、日本中がStay Home で辛抱した。
 
 日本全体では、未だに感染者0の岩手などもあるのだし、
 全国一律の対応はムツカシイのだとは思うが、
 安倍さんも、政治家としての思い切っての対応をぼつぼつ決断されたらと思う。

 感染者の延べ人数は増えているが、
 退院者を差し引いた『実質感染者は増えてはいない
 勝手なカンだが、 今後『減少傾向』に入って落ち着いてくるのではと思う。

 『コロナ危機』を乗り越えて、新しい世界がどんなことになるのか?
 そんな『新しい世界・新しい日本』を見てみたいと思っている。
 

★『はじめて体験したゴールデンウイーク』だった。
 今後も『新しいこといっぱいの世の中』が当分続くと思われるが、 
 それに対して世界は、日本はどのように対応していくのだろうか?

 『人間の知恵』に期待したい。




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5月5日    雑感

2020-05-06 06:17:46 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★毎年5月5日は端午の節句、ゴールデンウイークでもあるのだが、
 1年中が休みの、定年後の生活になって、
 この時期はいつも『ばらのスタート』の季節なのである。

 蕾がやっと膨らんで、
 今から始まる『春薔薇のシーズン』に心弾む時期である。
 

  
 

 
今年もこのように沢山の蕾もついて、
一面が薔薇で埋まるような日も近い。

 



 ただ、今年は若干いつもとは違って、

 先日4月30日にもブログにアップしたが、
 実のなる植物、みかんと葡萄がどうなるかが関心事なのである。

 昨年、何故か一粒の実もならなかったみかんだが、 
 今年はこんなに花が付いたので、大丈夫だろう。


  


 
 問題は葡萄、小さな苗から育てて今年で4年目、
 昨年は、樹は大きくなったが、残念ながら実が付かなかった。
 実が付かなかったというよりも『花が咲かなかった』のである。

 今年は、それが気になって4月30日にも写真を撮っている。
 こんな感じだった。

 今年は大丈夫だとは思うが、記録を残すために、こんなブログをアップしている。
 これが4月30日なのである。

  
 

たった5日間だけだから、あんまり変化はないのだが、
少しだけだが伸びたし、葉も立派に育っている。




 
こんな感じだが、これが花なのかどうかがよく解らない。




 
 ネットで調べてみると、花とはこんな感じで、
 このようについた花を『少なくする』作業が要るらしい。

 人間でも同じだが『育てる』ということは、
 育てる目標を絞る、『入学試験』があるのと同じことのようである。


   


 薔薇でもそうだが、育てる枝を明確にして『剪定』をしないといい花は咲かない。

 みかんや葡萄も、育てる実を明確にして、『育つ数』にすることが大事なのだろう。

 日数的にはもう何日かで、こうなるはずである。
 もし今年ダメだったら、この記録が来年役に立つように頑張りたいと思っている。

 『桃栗3年、柿8年』とは聞いたことがあるが、

 苗を植えてから、2~3年目で実がなり始めます。 成木(一人前の木)に育つには7~8年かかります。 ぶどうの樹は何年ぐらい実がなりますか。 30年以上実をならし続けている樹もありますが、だいたい20年くらいで新しい樹に植え替えていきます。
 葡萄は4年で実が付くのだろうか?




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さつきの季節

2020-05-05 05:00:35 | みっきぃふるさとふれあい公園

★ 毎年、5月の連休と言えば『さつきの花の盛り』という感じの三木市である。

 三木市の花は『さつき』がシンボルとされていて、
 街中『さつきの花』 が溢れるように咲いている。
 

  



 昨日は雨上がりの朝、三木総合防災公園でスロージョギングをしながら、
 『さつきの花』の写真を撮ってきた。

 公園の東の方の外周道路にはこんなにいっぱいの『さつき』なのである。


 東側の入口を入ったところの下り坂、まだちょっと咲いていない。

  



 野球場を右手に見た下り阪、
 



 

 そしてさらにこんな感じに繋がっている。

 
 

 
 サッカー場の右手の道路、この辺りが毎年綺麗に咲く。
 





 この150段ほどある階段の両側のさつきは見事である。

 



 雨に濡れた花弁が綺麗。





 
サッカー場を見下ろす位置である。






 もう一度、外周路に戻って、この辺りは、満開である。






 同じ場所から、来た道を振り返るとこんな感じ。




 

 そしてこの辺りから緩やかな登り坂になる。

 走り出してから、 約30分。

 


 

のぼり詰めた、最終コース辺り。





 これは公園の橋の上から、 道の両側がさつきなのだが、まだ咲きが悪い。




 西門の入口あたりは、白いさつきが植えられている。





 先ほどの橋の上から見た大きな道路を通って、
 西に曲がり、関西国際大学への道にも、さつきがいっぱい。




★ そしてこれは私の住んでるまちのメイン道路だが、
  『ここのさつきは見事』である。

  毎年、写真を写しに来るが、毎年綺麗である。

  










★ 7時半に家を出て、三木防災公園で約5キロを走り、
  帰り道に『街のさつき』を撮って、
  家に戻ったら9時半だった。

 
  5月4日は、娘の誕生日なのである。
  アメリカは時差の関係で、日本時間5月5日の今日なので、
  誕生日祝いに、三木のさつきを贈りたい。
  
  『誕生日、おめでとう
  


 
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だんだんと子供の頃に戻ってきた私

2020-05-04 06:54:50 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★ 10年ほど前、このブログで『自分史』なるものをスタートさせたとき、
私の人生、川の中で始まった』 というこんなブログをアップしている。


その書き出しなのだが、


私の人生、川の中から始まった?
2010-06-19 04:00:16 | 自分史
  
★皆さん、幼児期の思い出、最も旧いものは何ですか?
ちゃんと覚えておられますか?

私の記憶で一番旧く一番鮮明に覚えているのは、
『私の人生の始まり』とも言える記憶は、今の韓国のちょうど真ん中辺りに位置する、『大田の川の中』から始まっている。

お隣の竹内さんのお兄ちゃんと、家の直ぐ近くの川の中にいた。
鯉か鮒か、何かよく解らぬが魚を捕ったのか、捕ってもらったのか?
とにかく、魚を持って大喜びしたところから、私の人生はスタートしたのである。

成長してからも、魚が無類に好きで、ずっと魚釣りをしたり、家で熱帯魚を飼ったり、鯉を飼ったりしたのは、この人生のスタートの印象が強すぎるのかも知れない。



★ なぜか魚に興味があり、魚釣りも好きだったし、
 何よりも、魚を飼うことに異常なほど興味があった。

 子どもの頃は、家に池があっていっぱい魚がいた生活だったが、
 戦後は『魚どころではない』生活がずっと続いていたのだが、
 三木に家を建てて、もう50年にもなるが、駐車場の下を池にしているし、
 一時は本格的な池を造って、鯉を飼ったりもしていたのである。


 

   
    今は、小さなT字型の池には金魚とメダカとエビなどがいっぱいいる。
 金魚は毎年こどもを産むし、
 エビは6月頃には水面いっぱいになるほどの数になる。
 そんなエビはもう10年も前、孫と三木の川でとってきたものである。


   



★ コロナウイルス問題で、Stay Home の毎日、
 午前中は、公園に走りに行ったりするのだが、
 家にいる時は 池の横に座って金魚やメダカに餌をやり、
 ずっと眺めてる時間が相当に長いのである。

 魚の動きを見ているだけで心休まる感じなのである。


 そのほかに3鉢、メダカを飼っている。
 何の変哲もない『普通のメダカ』なのだが、
 これは1昨年 10匹ほど入った瓶ごと買ってきたのがスタートで、
 昨年から『メダカに仔どもを産ませる』ことに熱中しているのである。




 
 知らなかったが、メダカは毎日卵を産むので、
 昨年は、その数200匹ほどにもなった。
 小さな池だが池があるので、メダカなら幾らでも入るのである。

 5月、メダカが卵を産み始めた。 
 腹にいっぱい卵を抱いて泳ぎ回っているメダカを飽きもせずに眺めている。

 メダカの寿命は1年か2年だそうだから、
 今年生まれたメダカでも秋には卵を産むほど成長は速いので、
 増やす積りなら幾らでも増えていくのである。

 今年は卵を産み出して未だ1週間も経っていないので、
 コドモはまだ生まれてないが、もうすぐ毎日メダカが生まれる日が続くだろう。


★ メダカも今は人気で高いものは、何万円もするらしいが、
  我が家のメダカはそんな高価なものではない。
  錦鯉は池の費用なども入れると何百万円もかかった道楽だったのだが、
  今は、金魚もメダカも、お金は殆ど掛からない。

  まさに『こどもの頃に戻ったような、純な気持ち』で毎日魚と付き合っている。

  そして『家で過ごそう』という今の時代、
  『何が楽しいのか』と思われるかも知れぬが、
  結構、満足した時間が過ごせているのである。

  メダカとエビは、今年もいっぱい子供を産むのは間違いないのだが、
  3年間、コドモを産み続けている金魚がどうなるかが関心事なのである。



 
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大槻幸雄さんの日本自動車殿堂入りを祝う会

2020-05-03 06:12:48 | カワサキワールド

★ カワサキの関係者の方はご存知だと思うが、
 カワサキの名車Z1の開発責任者であった大槻幸雄さんが
 日本自動車殿堂入りをされたのは昨年のことなのである。

 ちょっと遅くなったが、今年の4月18・19日の両日、
 大槻さんのご出身の綾部に、
 全国のZ1ファンが集まって、お祝いをしようと企画していたのだが、
 この『コロナウイルス問題』のために、
 9月26・27日に延期開催することにしているのである。


★ そんな催しのことが この度『あやべ市民新聞』のトップ記事に
 こんなに大きくその内容が掲載されたのである。


   



 この催しは カワサキのZをこよなく愛する、
 『KAWASAKI Z1 FAN CLUB 』のメンバーたちが、
 全国から集まって、大槻幸雄さんの受賞のお祝いをしようという試みなのである。


 その催しのことも、記事には記載されているのだが、
 



 KAWASAKI Z1FAN CLUB は、
 NPO The Good Timesの団体会員で、ネットをベースにした活動なのだが、
 Facebook にもこのような展開で活動しているので、
   是非一度クリックしてみてください。

   その活動内容がお解りになると思います。



   
 世界の超有名なZ1ファンたちもその会員に名を連ねた格式高いクラブで、
 ご覧の通りのネットベースだから、自然に世界展開となり、
 毎年、どこかで様々な催しが開催されているのである。

 これは何年か前に三木のグリーンピアで開催された時の写真だが、
 その時も大槻幸雄さんをはじめカワサキの錚々たるメンバーも顔を揃えたし、
 海外の有名ライダー、業界著名人たちなどいっぱい集まっているのである。

 なかなか、こんなメンバーが一堂に会するなど、
 『仮に川崎重工業が主宰しても、ちょっと無理かな』と思うほどの
 多士済々なメンバーが、全国からお集りなのである。



 


★ 今回は、9月末の開催なのだが、
  果たしてその時までに『コロナウイルス問題』は片づいているのだろうか?

  今回は9月26・27日の2日間での開催なのだが、
  初日は、Z1 FAN  CLUB のメンバーと、カワサキ関連の人たちでの開催だが、
  27日の午前中はさらに多くのメンバーたちが集まれる
  そんな催しを検討中なのだが、
  その具体的な検討と開示は『コロナ問題次第』なのである。

  
  今回、地元新聞にこんなに大きく報道されたので、
  地元の方々と共にお祝いが出来たらいいなと思っている。

  こちらが初日にメンバーたちのお宿だが、


   

 
 すぐ近くのこんなあやべ温泉のホテルを借り切っているので、
 カワサキ関係者や、業界来賓の方々は、こちらにお泊り頂き、


    


  翌日の催しは、ホテルの横にある
  駐車場をお借りして、より多くの方々と共に、

  大槻さんの殿堂入りをお祝いすると同時に、
  二輪業界の親睦を図れたらいいなと思っているのだが、

  この『コロナウイルス問題』
  その頃には果たして、どのようになっているのだろうか?

   


 
  ただ、今回大槻さんご出身の故郷綾部の地元新聞に、

  このように大きく取り上げて頂いて本当に良かったと思っている。


  



 これは、直接は関係ないのだが、
 今年2月に『片山義美を偲ぶ会』にも出席された大槻さんを囲んでの
 記念写真なのだが、
 大槻幸雄さん、カワサキのロードレース初代監督でもあって、
 片山義美さんともカワサキのGPレーサー開発でいろいろ繋がっていた。

 その時の助監督が田崎雅元さん(元川崎重工業社長)で、
 カワサキのロードレースを最初に走ったライダーが、
 不思議なことにあのモトクロスの山本隆なのだが、
 そのマシンを都合してくれたのが田崎さんなのである。
 
 綾部には、田崎さんにも声を掛けていて、もし、大槻・田崎・山本・古谷と揃ったら、
 カワサキのロードレーススタートの4人が何十年ぶりに顔を揃えることになる。
 


 
 この記念写真のメンバーも、カワサキに非常に近くて懐かしかったのである。


 
   
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維新の会が野党首位に

2020-05-02 05:15:15 | 大阪維新の会、橋下徹氏

★『維新の会が野党首位に』 こんなニュースが載っていた。
  
 政治の世界にそんなに興味がある訳ではないが、
 左翼の野党を応援する積りはないが、と言って自民党を支持するというよりは、
 所謂『無党派層』かも知れない。

 敢えて『支持政党を』と言われたら、『維新の会』と答えるかも知れない。

 『維新の会』というより『橋下徹さんファン』なのである。

 このブログでも『大阪維新の会、橋下徹氏』というカテゴリーを作って、
 今までに100回あまり投稿しているのである。
     

 


★その第1回の投稿がコレで、2008年1月30日のことだから、
 もう10年以上にもなるのである。
 
    第1回目の投稿をそのまま転記してみる。


収入の範囲の支出とする
2008-01-30 05:14:43 | 大阪維新の会、橋下徹氏
  
今度、大阪府知事になった橋下さん、こんな解り易いマニフェストを出している。
そんな中で「収入の範囲内での支出」と言い切った。
これが出来る、出来んといろいろ騒がしいが、まずそんなことよりも、「明確に言い切った」ことに大拍手である。

これで、方向、大方針は決まった。
そして、その言い方が極めて明確であり、やろうと意思が明確に読み取れた。
橋下さんは、これをやりきるだろうと思う。

今すぐ、今年の予算でそれが出来るかどうかは、問題ではない。
どんな対応をするかである。
節減もいいが、節減ではまずダメである。
幾つ止めれるかに掛かっている。ドラスチックに行くほうがいい。
不要なものを探して止めたらいいのである

改革とは体質の転換である。
それをしないで、ちょっと改革の真似事の改善をしただけで改革と錯覚しているリーダーが多すぎる。
橋下さんは、大阪を変えようと言う意識が極めて明快である。

人を減らすにしても、組織を潰して人を減らすのと、組織そのままで人員減をするのとではその意味するところ180度違うのである。意識改革など、口先でかっこいいこと言わなくても、ドラスチックにやれば意識は自然に変わる。

役所など、もともと水ぶくれみたいなもので節減する要素はいっぱいあるだろう。
それを1割や2割減らすことは可能であろうが、それではダメだと思う。
役所を見ていると、もともと必要ないことをいっぱいやっている。
止めたらゼロになるのに、節減と言うから80は残ってしまう
100減るところが20になってしまうのである。

リーダーに、確固とした方針と熱っぽさがあり、それをホンネで伝えれば、必ず追随する強い味方がいっぱいできる。そして、いつかそれは、流れになる。流れ出したら、さらに大きな流れになるはずだ。選挙で180万票もとれたのも、大衆が橋下さんのホンネと熱っぽさを認めたのである。

今年の予算で100%やりきる、魔法みたいなことでなくてもいい。
間違いなく実現するスタンスであればいい。
私は今、実現の方向に歩み出していると思う。

収入の範囲内の支出にする。
子育て世帯に絞って「選択と集中」を明確にした。
目標も差別化された手法もいい

樋渡さんとはまた違った、ファンになり応援したくなる人がまたひとり、出来た。
応援をすることに決め、新しいカテゴリー「大阪府&橋下徹」を造った。

40年間、こんなことばかりやってきた。
カワサキの国内市場環境は、ずっとこんな歴史の連続であった。
でも結構楽しかったのである。

府庁に勤める人たちは、ちょっと大変かも知れぬが、今まで府民はもっと大変だったのである。どちらのために知事は動くべきか、それは明らかである。
視点をどこに置くのか、こんなことは少しも大変ではないのである。

橋下さんの大局を見る目、視点の方向、スタンス、どれも間違っていない。
若いけれど、リーダーの資質、大丈夫である。


今朝の新聞、
東京で福田さん以下自民党や政府の幹部など、橋下人気にあやかりたいと、
ミエミエの対応だが、もう流れが出来かけている。
大阪も全国区になるだろう。
 

★読み返してみて、間違っていない。

 私自身が『現状の否定、改革』ばかりをやってきたので、
 『出来る人のやり方』はよく解っている。

 橋下徹さん、この通りにやり切ったのである。
 そんな橋下さんも、政界から身を引いてしまったが、
 今朝は、こんなニュースが載っていた。


日本維新の会が存在感を増している。産経新聞社とFNN(フジニュースネットワーク)による今月の合同世論調査で政党支持率は野党首位に急伸。新型コロナウイルスの感染拡大が進む中、党代表の松井一郎大阪市長と副代表の吉村洋文大阪府知事の対応が評価されたとみられる。大阪では圧倒的な強さを誇るが、全国的な勢力拡大には足踏み状態が続く維新。悲願の「全国政党」に向け、党勢拡大に一段と注力する考えだ。


  



★ いろんな党の方針を見ていて、自民党よりも『維新の会』の方向の方が、より視線は末端に向いているし、いいと思うのだが、大阪では圧倒的な支持があるのに、全国ではもう一つなのである。

それが昨今のコロナ対策で『吉村知事のやり方』が注目されているのだろう。

橋下徹さんは、政界を引退しているが、
昨今の『コロナ対策』に対する『持論の歯切れの良さ』が受けて引っ張りだこである。

この『コロナウイルス』は、『世の中の従来の発想を一変させる何か』を持っているように思うし、今の左翼の野党は全然ダメだと思うので、

ここから先は私の勝手な思惑だが、
自民党が二つに割れて、一つは『新自民党+維新の会連立政権』でもできたら、
ひょっとしたら、『橋下徹さんの政界復帰』もあるのかなと思ったりしている。
既に大阪は、そんな形になっていて、なかなか活発でオモシロいのだから、日本全体がそうなればと思っている。

自民党は兎も角、『安倍さんと菅さん』はなぜか維新に近いから、
安倍さんの4選』などと言うのではなくて、
もっと新しい『政治の世界』が出来ないのかなと思っている。

吉村知事』については、橋下さんは120%支持である。
その吉村さん、どこかで橋下さんの中央政界での活躍を、期待してたようだが、
ほんとにそうならないかなと思ったりしている。

もし『そんなことになったりしたら
今回の『コロナ騒動』も、大いに意義があったと、言うことになるのだが・・・・・

     


久しぶりにアップした『大阪維新の会、橋下徹氏』なのである。



 




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