ぼんくら放浪記

Blogを綴ることによって、自分のぼんくらさを自己点検しています。

避難路

2012-06-15 05:00:00 | 田舎

今日から1週間九州旅行です。この間にコメントを頂いても返事は出来ませんのであしからず。尚、記事はこの先も続きますので、休むわけではありません。引き続きご愛読をお願いします。

金星が太陽の全面を通る日食のあった当日の紀伊姫の駅です。太陽の大きさに比べると金星はとても小さ過ぎて、肉眼では日食グラスで見ても何も見えないので、9時半にコメリに行く用事も出来たので、この駅でいつも思っていた疑問を解決するために、コメリからの帰りにチョッコっと寄ってみました。

             

疑問と言うのは他でもありません、駅構内の窓に貼付されている“紀伊姫駅 避難経路”の終着点が何処なのか知っておきたかったから。このような地図は風吹山に登った時、紀伊有田駅にも貼付されていたので、何処の駅にもあるのかも知れません。

             

“駅を出て直ぐ左に進む”旧道ではありません、線路の真横の道を歩くのです。

             

“堀踏切を渡り”まではいいのですが、“山側を左に”の説明の意味がよく解りません。地図を見直してください。踏切を渡るとほとんど右へ右へと曲がって行きます。

             

踏切を渡る時、ついでに紀伊姫駅方向の写真も撮っておきました。

             

このT字路でどちらへ行くのかと言う説明こそ肝要だと思うのですが・・・迷ったけど300mなら右へ曲るのが妥当なようです。

             

ここでもう一度右へ、“幅50cmの細い道”では無いけれど、だんだん細くなっていくような感じです。どうせなら無人の家の間の道とでも書いておいた方が判り易いと思うのです。

                       

すぐにお地蔵さんがあって、階段がありました。このまま溝沿いに進むと私の家の方へ行ってしまいそうです。

             

階段を登って10mも行くともう行き止まりでした。歩きだして、途中写真を撮った時間もありますが、5分経過しています。

             

その地点からの展望、地はこの目線より150cmは下でしょう。海から何メートルぐらいの高さなのでしょうか、姫駅前が海抜8mぐらいですから、15mぐらいでしょうかね。20mの津波が来ればお陀仏ですね。もう10mは高い地点まで道を造らねばなりません。

             

駅付近から避難地点を見ています。正面の小高い山の下方、コンクリートで防壁され、柵が立っているところが最終地点でした。駅周辺の人が皆この避難場所へ逃げるのは無理です。広さが足りません。ついでですから、もう10m高いところへ広い避難場所を造るべきです。私は避難するには駅までは遠いので、野池から姫川の村落の方へ逃れます。

             

この日ついでに駅で『紀伊姫駅ノートpartⅡ』を広げてみました。2つ書き込みがありました。

ボールペンが無くなっていたので帰阪するときに補てんしておきましたが、何故あんなつまらんペンを持ち去るのか不思議でなりません。なのに蛍光ペンは1本も無くなっていなかったのです。

                       

いや2つではなくまだあったのですが、表紙には“何を書いても良い”とは書いてあったけど、こんな意味の無いものを書く人も居るんですね。

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中古車を買う

2012-06-14 05:00:00 | 田舎

紀伊姫の家へ一度でも来たことのある方ならお分かりだと思いますが、最後の曲がり角を曲がるとそこはとてつもなく狭い道、いや車が通るには十分な広さはあるのですが、両側に建っている壁が圧迫していてギリギリ感を演出するのです。壁が無ければ細いと言えども何ともない道幅なのですが、やはり壁が与える圧迫感は強い、だいたい両側に何もなければ車輪さえ脱輪せねばいいのですから、例えばタイヤの幅が10cmあれば、9cmはみ出しても車は通るのです。

             

まぁ、ガソリンも高騰していることですし、田舎の山道を走るのは結構ガソリンを食うし、田舎の生活には大きな車は不要だと思い、この際軽自動車を買おうと思ったのでした。決して買い換えたわけではありません。

今や景気の低迷で軽車輌を求める人が多いので、競争が高いとは聞いていました。

             

田舎で乗り回すことやし、何でもエエやろと思って、GW明けに随分付き合いの長い自動車屋に軽バンを頼んでおいたのです。金環日食を観に姫へ帰る頃に「オークションでエエ車見つけた」と電話がありました。

メーカーや車の名前、年式、車体の色、装備など一切報告はありません。「どんなんか見るか?」とも連絡が無いのです。私としては何でもエエとは言いながらもとても不安なのです。まぁ車屋の言う「エエ車や」という言葉だけを信じていたのです。

             

いつまでも車屋に預かっておいてもらうわけにもいかず、かといってソフトボールの無い恒例の第3土日は九州へ誘って貰っているし、急に先週の月曜日に「明日帰るから車持って来て」と頼んだのでした。12時前になってやっと持って来てくれました。自分が田舎に帰るときには4時にでも出発するのに、他人が何時頃には着きたいかなどは考えてないのですね。お陰で前日タモの柄を買った財布には4000円しか入って無く、銀行に行ってる時間もありません。

             

やって来た時は何の変哲もない車やなぁという感想、所謂ポリシーが無いのです。ポリシーといえば何の変哲も無いところと答えられるかも知れません。でも乗ってみて、とてつも無いものを買わされたと思うのです。まず、運転席のシートが破れています。中古車とはこんなものなのか、中古車を買ったことのない私にはよく分かりません。

ガソリンの残量が不安だったので、ガソリンの注入口を開くための装置が走行中いくら探してもありません。電話で問い合わせると「ガソリンスタンドの奴が知ってる」という返事、売りつける方がそんなんでエエの?と思ってしまいます。結局ドアの下部に・・・それもキーで開け閉めするような代物です。

             

こんなものは慣れの問題なのでしょうが、ブレーキとアクセルの間隔が狭過ぎて、アクセルがうまく踏めません。何時まで経っても走らんと思っていたらタイヤの上の盛り上がった床を踏んでいました。こんなことって後ろから車が来てたら危ないですよね。

初めて乗って高速道路へ出ると言うのも酷な話ですが、時速80kmも出すと五月蠅くて仕方ありません。外に対してどんな音を立てて走っているのか、環境に対して気を使います。おまけに自分の頭までヘンになりそうな喧しさなのです。速度を上げようと思っても車輌のパワーもさることながら、私に与える生理的な現象もあって儘にはなりません。

             

軽自動車はガソリンを食わんと思いこんでいる私ですが、タンクの容量が違うとは言え、メーターの指針はクロスロードとあまり変わりありません。つまり家を出る時満タンにしたクロスロードが串本に着いた時のメーターの指針はこの角度とほぼ同じ、この軽は紀ノ川のインターで満タンにしてこれです。クロスロードの満タンが60リットル、この軽が40リットルだとすると、同じ指針なら3分の2の量のガソリンで到着できる筈ですが、家から紀ノ川インターまでを走った距離が加算されねばなりません。これでは燃費を倹約しようという思いはパァになってしまいます。

             

オートマですがレバーがこんなところに付いています。これには辟易です。ワイパーのレバーも短くて扱い難いし、間欠ワイパーではありません。

パワーウィンドウでは無いので、走行中(走行中で無くても)の窓の開け閉めが大変ですし、反対側の窓の操作は出来ません。

             

後部にもひどい穴が見受けられます。ホントにこんなものが商品になるのか疑ってしまって仕方ありません。

             

今はキーを持って近づくだけで解錠され、離れると施錠されるシステムまであり、キーレスエントリーが絶対必要とは言いませんが、欲しいと思うものは付いていません。でもこんな不要なものが装備されていました。喫煙しない私にとっては、これを見るだけでヤニの臭いがしてきて、おぞましい思いです。

全く持って不可解なのは運転席のドアで施錠しても全部のドアは施錠されません。全部一つ一つ施錠して回らなければならないし、逆もまた然り。いつか中の物が盗難に会うような気がしてなりません。

             

後部座席には未だ座ってないし、よくは点検していませんが、先ずはシートベルトがありません。今の道交法ではアカンでしょ。

             

ラゲッジスペースはキズだらけ、いったい何処が良くてこんな車を選んでくれたのか、どの点をとって「エエ車や」と判断したのか、選んだ人のセンスがこんなものだったのでしょうが、その人を信じた私自身が自己嫌悪に陥りそうです。私だったら10万円ぐらいなら買うかも(あくまでも“かも”です)知れませんが、それ以上なら絶対に買いません。私にとっては体裁から実用まで、それぐらいの価値にしか相当しないと言うことです。

             

あまりの装備にこの車は何年式なのかとリアウィンドウを見ると、平成12年の排出ガス低減の認可を受けています。つまりその当時のもの、12年も乗り回していた車です。私のカリブは10年で廃車にしたはず、それ以上乗り回していたなんて信じられません。

因みにこの車、いくらしたと思います?聞いてビックリ!52万円です。いくら親しいからといっても、自分の価値だけで判断した物を他人に押しつけるようなことをしてはいけません。自分が気に入った(エエものや)と思っても、他人が気に入るかどうかは分からないからです。ネット上で探せば写真やプロフィールはちゃんと載せていますし、それぐらい出せば、軽車両なら新古車でもありそうです。値段はさておいても、実物を先に見てたら手を打たなかったでしょうね。

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還暦同窓会 Ⅱ

2012-06-13 05:00:00 | 大阪にて

6月3日日曜日、午後5時から難波のスイスタワーホテルでまたまた還暦同窓会と銘打った高校の同窓会が催されました。今回も他所のクラス、小学校からの付き合いがあるK川君のクラスの同窓会です。前回は3月11日、心斎橋(きっと先週、自殺願望の男が自殺できずに二人も殺人したのはその辺り)での開催でしたが、未だ還暦に到達していなかった方も居たのではないか、今回は6月の開催ですから、もう還暦を過ぎた方が居られたのかも知れません。参加者は14~5人だったように思います。

             

3月の同窓会は担任の先生は病気で来られていませんでしたが、今回は担任の先生も元気に参加、歳を伺えば77歳なんと喜寿です。そのお祝いを言うと君らの還暦の方が大事だからと逆にお祝いを述べてくれました。

             

暫らくビールを飲みながら歓談した後、例によって夫々の近況などを述べる時間、それはしっかりと聞く時間でもあります。2番目に発言して気分が楽になった私は、いろんな人が居てるもんやなぁと、感心させられながら聞いていました。2年ぐらい前にも初めてこのクラスの同窓会に参加させてもらっているので、近況はその後のことで良いのだろうと思うのですが、前回誰が何を喋っていたのか覚えて無いもので、皆さんの喋る内容がたぶん前回と同じような内容であっても新鮮に聞こえます。

             

3月の時は確か東北へのカンパも込めて6000円の参加費でしたが、今回は1万円、豪華とは言えませんが、料理が次から次へと出てきます。ホテルなので給仕をしてくれる係りの人も慣れているようです。

             

そういえば3月の同窓会に来ていた女の人が一人、今回の同窓会にも来ていましたね。私と同じ他所のクラスの同窓会荒らしがもう一人いたという訳です。

             

この料理までは完食しました。他所に座って喋っていたせいもあるのでしょうが、その後が食べれません。

             

野菜も食べなアカンなぁとは思うのですが、手が伸びるのは焼酎の水割りグラスばかりです。きっと一番食べなかったのだろうと思うけど、一番飲んだんだろうと思っています。

             

チキンライスが出て、食べたいなぁとは思うのですが、手がスプーンを掴みません。

             

なんと美味しそうなデザートでしょう。それもフルーツを入れたら何種類もあります。これ等の中から一つ選ぶのではありません、一人一つづつ当たるんです。当然のことながら私はどれにも手を出していません。そんなん食べるくらいなら野菜とチキンライスを頂きます。

             

2時間の宴会時間を終えて、何処のクラスもやることは同じですね、カラオケです。でも前回と違って7時過ぎと時間が遅かったので長時間飲み、唄っていたわけではありません。

喜寿を迎えた先生が居られたので気付いたのですが、参加したどちらの同窓会も、私たちが還暦に到達したから『還暦同窓会』と名付けていました。でも実際に還暦同窓会って卒業してから60年目の開催ではありませんか?

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北畠公園

2012-06-12 05:00:00 | 大阪にて

姫松の交差点を左折して東へと向かい、あべの筋に戻って北へと帰途につきます。途中住吉市民病院が無くなっていて、広い更地になっているのに驚きながら、ゆっくり走って10分ほどで北畠公園にやってきました。12時を相当回っていたので昼食をとりたかったのですが、まぁ我慢して散策します。

             

対面から全体を撮ると、公園と名のつく割には遊具が全く無く、樹が多いのに気が付きます。

             

公園入口には『史跡 北畠公園』と書いた碑が建っており、信号の傍にも北畠顕家云々と書いた碑も建っていて、ここがいくらでもある普通の公園ではないことが窺えます。

             

通りに面して北畠顕家の戦績が由緒として書かれていて、武士ではない公卿の顕家が、弱冠16歳で従二位に叙せられて新田義貞や楠木正成と共に足利尊氏の叛乱を鎮圧する活躍を見せるが、再度の尊氏の反撃に高師直と激戦の末、21歳で堺の石津で戦死したというもの。

             

公園内に入ると矢鱈とハトが多いのが目につきましたが、そんな写真は撮っていません。

                       

北畠顕家卿墓という碑、下には“北畠停留所ヨリ東北三丁”とバカ丁寧に刻んでありました。この場にいる人にはそんな説明は不要なわけで、逆に北畠停留所へは南西約300mと読めばいいのでしょうか。

             

この案内板で分かったのですが、この墓所は大阪府指定の史跡だそうです。絵は住吉名勝図絵、“顕家卿 安倍野合戦の図”と書かれています。

ここに顕家が最後の決戦に臨んだ際に後醍醐天皇への上奏文が簡略した形で紹介されています。目を惹くのは“戦争で疲弊した民の租税を減免し、倹約すること”“官爵 登用は慎重に行うこと”“貴族 僧侶への恩賞は、働きに応じて与えること”“臨時の行幸や酒宴は控えること”“法令に尊厳を持たせること”“貴族・官女・僧侶のうちに政治に介入して政務を害する者あり 益のないものは退けること”等があり、今で言えば当然のことですが、当時後醍醐が如何に出鱈目な政治をしていたかが窺えます。

             

これはそう伝えられているだけですが北畠顕家の墓です。昨日の摂津名所図会の大名塚がこの北畠顕家の墓にあたると言われています。

                       

“別当鎮守府将軍従二位行権中納言×”“右衛門督陸奥権守源朝臣顕家卿之墓”とあり、残念ながら×のところが読めないし、想像も出来ないのです。

この写真でも僅かに判ると思いますが、誰かが将軍の上に“大”の字を小さく刻んでありました。いたずらではなく本気なのかも知れません。

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王子商店街

2012-06-11 05:00:00 | 大阪にて

いくら熊野街道を南下しようという試みとは言え、阿倍王子神社に裏から侵入してしまったという事実は、私に「ゴメンナサイ」という念を抱かせるのですが、“もと熊野街道”という碑を建ててまで、本来の熊野街道を最近のジャーナリズムよろしく真実に蓋をして、我が神社は熊野街道に面しているといった体裁を繕っているのではなかろうかと思うのは、実際に熊野街道を探しつつ、その過程で第5番目の王子に到達した私にとっては、神社が取り繕っていると思っても何らおかしなことを言っているというわけではありますまい。

そうです、私はここに至って“もと熊野街道”という碑はまやかしであり、熊野街道に面して阿倍王子が有ったのであり、それ(阿倍王子)を継承した阿倍王子神社の正面が熊野街道に面しているのは当たり前ということを正当化しようとしているのではないかなどとまで勘ぐってしまうのはいけないことなのでしょうか。

             

皆さんにとってはどうでもいいようなことをグダグダと書きましたが、私は本当に現在のジャーナリズムは真実を伝えると言うその使命あるいは命題を忘れ去っているのではないかと思っているのです。

私たちというか私たちの先輩は満州事変(その前からなのかも知れませんが)から太平洋戦争終結に至るまで、時の権力のいいなりの報道しか知らされなかった歴史があります。そのことが僅かの日本人民を除いては、戦争に(或いは侵略に)熱狂させられたのであり、信じていたのだからこそ、タエガタキヲタエなければならない結末になってしまったのです。運命共同体だから仕方がないと言う論理は通用しません、真実が国民に伝わっていなかったから。真実が伝わっていたら戦争(或いは侵略)に反対する人はもっと多かったのではなかったという希望的な憶測を抱いています。

             

私は全く以ってジャーナリストなどでは有りませんし、こんなどうしようも無いぼんくらな人間ですが、地域の草の根から、ウソを言って恥じないような言動、行動、開示・・・は監視・考証しなければならないと思っています。こういった真実を伝えると言う究極は職業としてジャーナリストだから出来るのか、雇われている身だから出来ないことなのか、それはその人の人間性の問題なのかも知れませんが、事実は人間性だからといって変わっては困ります。

             

勝手な話を書いている間に写真は阿倍王子神社の対面の王子商店街に足を踏み入れています。結構大きな商店街です。大阪(全国何処でもですが)は大きな資本の進出に拠って、小さな商店は閉鎖を余儀なくされてきました。

             

それが良いのか悪いのか、それは人夫々でしょうが片方にお金が蓄積され、片方が資本を失ったのは確かです。だけど日本人はどこまでも寛大、寛容、お人好しです。自分が悪くなっても人の悪口を言わない、そんな儒教的な信念が身に纏わりついているのでしょうか。

でもここでこの商店街が潰れることなく、いや潰すことなく続けている一因を見ました。『生々楽々ホール』なのか『楽々茶房』なのかよく分からないのですが・・・

             

要するに体制批判です。いや体制批判ではありますまい。自分たちがどうしたいのか、どうなれば満足なのか、それを自らが自覚すること、こうやって生きていく希望を体制批判に託することもあるでしょうし、もっと具体的な要求もあるのだとは思います。

             

あべの筋に戻って来ました。対面から見た阿倍王子神社。

この記事は姫の家で書いていますが、独りでいるといろんなことが書けてしまいます。家でいると話などがあって、綴り事はいつも直線的になってしまいます。

             

戻ってきて南側の入り口、この神社は北側からの入口はありませんが、残り三方から入って来ることが出来ます。

             

拝殿の前を通って元来た熊野街道に戻って行きます。もう“もと熊野街道”とは呼ばせません。だって真の熊野街道も現の熊野街道も示されてはいないのですから。

             

南へと下る道を進むととある公園に経塚と書かれた碑が目に見えました。経塚など探せばいくらでもありそうなものですし、それが決定的に何かを意味しているという代物なら、一項を設けなければなりませんが、上町台地にはいくらもあると思うのでわざわざ一項を設けることはしなかったのです。

             

経塚とは経典を写経した巻物を何かに入れて埋納した跡のことでしょう。有名なのは金峯山に埋納した藤原道長の経筒ですね。

             

ここで紹介されている摂津名所図会では熊野街道沿いの阿倍王子神社が王子権現と称され、大名塚、小町塚と並んで経塚があります。熊野街道と王子権現の位置関係からして、図絵の上が東であり、今の松虫以南のあべの筋はこの当時は無かったものと推察されます。

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阿倍王子神社

2012-06-08 05:00:00 | 大阪にて

昨日の安倍晴明神社から僅か50mほど南へ行くと熊野街道に沿って建つ九十九王子の5番目の王子、阿倍王子神社がありました。大阪の八軒屋を起点とする熊野街道ですが、1番目が窪津王子、次に坂口王子、郡戸王子、上野王子と続いていくようです。今年の冬に行った藤白王子は37番目の王子だそうです。

                       

鳥居の左側にあった道標、何故か熊野街道のうえに“もと”の字があります。ということは現の熊野街道があるということでしょうか。

             

案内板がありますが、“もと”の意味の解説がありません。

                       

この碑もよく解りません。第二王子社とは2番目と言う意味でしょうか?もう少し調べてみると、窪津も坂口も郡戸も上野も現存していません。安土桃山時代には2番目、大阪市内で現在残っている王子はここ阿倍王子だけなのであり、そうなれば1番目と言っても過言ではありません。何を根拠に第二王子と刻んだのでしょうか。

             

ここから見ると広さは安倍晴明神社とたいして変わりません。左右に2本づつ、合計4本のクスノキが植えられています。

                       

それぞれの木に『多磨能木霊神(たまのこだまのかみ)』『茂杜(もと)能木霊神』『波多(はた)能木霊神』『汰紀(たき)能木霊神』の名前が付けられていました。

空を仰ぐと鬱蒼としたクスノキの葉が茂っています。

             

クスノキのある参道を抜けると広い境内に出ます。そこに拝殿がありました。この構図が安倍晴明神社とは違うところです。

                       

拝殿の対面に古びた『遥拝地』の碑、古くからここにあったものなのでしょうか。

             

どんどん奥へと進んでいくと、あべの筋側に出てきました。こちらが正面入口なのですね。どうやら私は裏口からお邪魔したようです。

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安倍晴明神社

2012-06-07 05:00:00 | 大阪にて

松虫の交差点で分かれた熊野街道を南へ200mほど進むと安倍晴明神社があります。これは勿論、夢枕獏の小説『陰陽師』の主人公・安倍晴明に関係のある神社なのでしょう。

最近、松虫という名前が頻繁に出てきますが、阪堺電気軌道という電鉄会社の上町線に天王寺駅前駅から乗ると2つ目の駅が松虫という駅なのです。高校当時私は未だ南海電鉄の経営下にあったこの上町線の松虫駅で乗降して、学校に通っていました。1両編成で沿線には学校が多いため、朝はいつも満員で遅れることもしばしば、電車が遅れたのに学校では遅れたのはお前が悪いとばかりに叱る先生もいて、まだまだ民主的な時代ではなかったと振り返ったりもしています。

                       

安倍晴明はこの近辺で生まれ、浄瑠璃の『蘆屋道満大内鑑』云々と書かれていますが、肝心のその浄瑠璃を知らないので理解が出来ません。蘆屋道満の名前は前述の夢枕版『陰陽師』に出ていたので覚えています。

             

創建は1007年となっており、きっと5年前には1000年祭と称してイベントがあったのでしょうか、訪ねてくる晴明ファンも多かったのではないかと思います。5年前の私はこちら方面に来ることなど滅多になく、覚えているのは3年前の夏に母校でサッカー部のOB会が開催されたときに自転車で通ったことぐらいです。

             

あまり広い境内ではありません。安倍晴明所縁の神社であれば、それに因んだものでも売ってそうなものですが、そんな商魂は無いようです。

                       

ここで言われているよく知られているという『葛の葉子別れ』伝説も私は全く知りません。夢枕獏の『陰陽師』にもそのような話は無かったようです。

             

この辺りの町名を晴明通、近くには晴明ヶ丘小学校と言うのもあります。近所にあった郵便局が保名郵便局、安倍晴明のことを知らないと何の由来で付いた名前か解りませんね。

拝殿に向かって右側にはいろんなものが並んでいます。孕み石というのは昔の船の碇に使っていたものだそうです。

             

左の葛之葉姫図の文を読んでいると、『葛の葉子別れ』伝説はどうやら和泉市の信太の森に関係がありそう、一度信太山へ行ってみなければなりません。

             

安倍晴明の像、野村萬斎の晴明像とは全く違うようです。それにしても狐の姿がよく見かけられます。狐は憑き物ですからですか?

             

神社の外、西側です。この辺りは上町台地の頂上ですから、家々の屋根は徐々に下がって行っています。

             

入り口付近にあった奏名稲荷神社、晴明の父安倍保名の奏の字に変えたのでしょうか?

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松虫塚

2012-06-06 05:00:00 | 大阪にて

私の家から阿倍野のハローワークへの往路は26号線の岸里交差点から松虫通を東へと上町台地への坂道を上っていくのですが、あべの筋の松虫の交差点から熊野街道に入る手前に松虫塚という玉垣に囲まれた小さな祠があります。いつもは通り過ぎるだけですが、ネタも少なくなっている昨今ですから足を止めて、どんなところなのかと見てみることにしました。

                       

塚と言えばこんもりとした小山を思い浮かべますが、ここは平坦な場所です。旅人が松虫が鳴く声に聴き入り、命途絶えたことを憐れんで供養したと書かれていますが、勝手な想像でしょう。どんな悠長な人間でも虫が命絶えるまで鳴き声に耳を傾けることなど出来るものではありません。

             

この句は松虫塚を詠ったものではありません。“秋の野に 人まつ虫の声すなり われかと行きて いざとぶらはん”という古今和歌集の詩です。こじつけてここに碑を建てたものとしか考えようがありません。

             

やたらと『松虫塚』あるいは『松蟲塚』と書かれた碑が建てられていて、いささかウンザリします。

             

ここは市有地だという説明があります。宗教活動が禁止されているそうで、道理で何のお供えも無いわけです。

             

先ほどの“秋の野に・・・”の句の説明文があるようですが、この句の意味するものは、私を待っている声がする、さぁ訪れようということであり、“二人の親友が・・・”とある説明はこの句とは関係なく、謡曲松虫のストーリーです。

             

岸里方面(西側)から上がってきたときに見える松虫塚。

             

こちらは東側から、1枚目の写真は対面の歩道から撮ったものです。

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熊野街道

2012-06-05 05:00:00 | 大阪にて

野球観戦の翌日は失業認定日、朝8時半に阿倍野のハローワークに行かねばなりません。前日の野球がしつこかったので帰宅は11時を回ってしまい、翌朝起きれるのか心配でしたが、きっちり早目に起きて、7時過ぎには家を自転車で出ることが出来ました。地下鉄に乗ると片道230円、赤バスが来れば片道100円ですが、バスは未だ動いていません。

自転車に乗って行けば健康にも良いのだろうし、何よりもタダですからこれほどエコノミーなことはありません。

             

ところが昨今の大阪市は何を考えているのやら、市民から如何にして金を巻き上げるのか、そんなことばかり考えているのではないでしょうか!?自転車で往復すると相当な距離になるので梅田までは行ったことが無いけれど、難波や天王寺には自転車を停めるためのスペースが設けられています。放置自転車の整理整頓は自治体の課題なのでしょうが、スペースを作ってくれるのはいいとしても、利用料が要るようになっているのです。確か難波は1時間は無料だったと思うけど、天王寺は端から150円取られます。他のスペースに置くと随時撤去するなどと脅しているけれど、利用者数に見合う設置台数が足りません。こんなことでは、横の何もないスペースに停めておかなければ仕方がない事態になり、撤去されてしまうこともあるだろうと思います。

             

さて以前、堺の妙国寺へ行った際、紀州街道について書きました。紀州街道の起点や熊野街道と何処で合流するのかが知りたかったわけです。

                       

JRの天王寺駅あるいは近鉄の阿部野橋駅から南下するあべの筋(同駅以北を谷町筋と呼ぶ)に沿って500mほど下ると阿倍野の交差点があります。この交差点の南西角に『熊野かいどう』の碑が建っていました。八軒屋から6kmとあります。熊野街道は八軒屋(天満橋)を起点として谷町筋を南下し更に阿倍野筋と名前を変えてずっと南下していくと思っていたのですが・・・

             

松虫の交差点を超えた地点で松虫通を5mほど西へ行くとあべの筋と並行するように一本の道があります。

             

その入り口にこの案内板があったのです。ですから松虫の交差点からは一つ西の道が熊野街道だったのです。

             

松虫で阿倍野筋と分かれた熊野街道は、安倍晴明神社、阿倍野王子神社の前を通り抜け、1kmほど走って先ほどの案内板と同じものが設置されている地点に合流します。

             

阪堺電車の軌道の右に見えている道を走ってきたのでした。

             

この軌道は住吉大社を経て、浜寺公園まで続きます。これで納得、紀州街道との合流地点は住吉大社辺りになる筈です。いや待てよ、この阪堺線は南海高野線と合流する辺りで一旦土手に上って西へと大きくカーブするし、その軌道に沿って道は続いてなかった筈、もう一つ課題が見えてきました。

             

ここは阪堺線の北畠駅。この近くに兄弟校だった住吉高校があります。

             

次の姫松駅。この駅近くにはライブハウスの『ラグタイム』があったけど探しても無かったし、入社時の友達だったN西君の家も確かこの辺りだったけど、そこはすっかり風変りしていました。洋菓子で有名なポワールはありましたね。この駅、レコードのジャケットになっていたのですよ。

             

ほらね。

この日私はここで南下を止め、東へと走って再びあべの筋を北上したのでした。

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久々の甲子園

2012-06-04 05:00:00 | 大阪にて

5月30日、旧の職場のメンバー6人で阪神応援1000円チケットを予約して、5時半に3塁アルプス席の入り口で待ち合わせ、大阪にいることもあまりないので、今シーズン初めてのプロ野球観戦が実現しました。一度体験すると得てして縁があるもので、翌日昼にはK川君から9日のチケットが入ったけどと電話が入り、これはソフトボールの練習があるので断ったけど、夕方には尼崎の飲み屋で知り合った西淀の軟式野球連盟の審判部長であるM本氏から8日のチケットが入ったと連絡があり、それは時間があるので行きますと答えたのでした。

             

待ち合わせた14番ゲート前のごみ箱、中にはすでに応援メガホンが捨てられていたのでした。これは妙な予感、別段タイガースを応援しているわけではありませんが、今日の相手はマリーンズ、パリーグの首位を走っているのでタイガースには勝ってもらわねばなりません。

             

試合開始前の和やかな風景、マリーンズのマスコット、何と呼ばれているのか名前は知りませんが、3塁側のスタンドにも愛想を振りまいています。でもここにいるのは殆どがタイガースファンなはず、わざわざケータイで写真を撮るほどのものですかね。

             

タイガースは先制したもののすぐに追いつかれ逆転され、ついには井口に満塁ホームランを打たれます。この時点で「次行こか」と飲みに行く催促です。この時点で7時半を回っていました。この試合は長くなるとイヤな予感です。

             

去年貰った帽子を被った男の子がいました。どうやらガッカリしているようです。

             

ここでこの日この試合を観に来ている小学校の団体を紹介、たぶん修学旅行なのでしょうが、古座小学校と西向小学校と下里小学校の名が聞こえ、慌ててカメラを取り出したのですが、電光掲示板に書き出された文字を撮るのには間に合いませんでした。その後の小学生の団体らしい子供を映しているシーン、西向小学校の子なら知っている子がいたかも知れません。

             

ところがその裏、ホームランを打った井口がブラゼルの何でもないセカンドフライを落球、そこから一挙5点を取り戻したのでした。この時すでに8時、未だ4回を終了したところです。

             

5回のタイガースの攻撃時にはこの手袋を嵌めて応援することになっていたそうですが、あまりそうしている人は多くなかったようです。

             

それからもリードを許し3点差、ここでも「次行くで」と飲みに行くお誘い、でもみんな帰ろうともしません。

             


6回の鳥谷選手のタイムリーで1点差です。

             


試合開始前から気になっていたマリーンズの応援風景、他球団でこんなに甲子園まで応援に来るのはホークスぐらいだと思うのですが・・・いや最近はホークスと言えども少ないか、首位を驀進しているからなのかも知れません。

             


7回裏のタイガース、ブラゼル、新井と連続三振、情けない3者凡退でした。

             

8回の裏は鳥谷の犠飛とまたしても井口のエラーで同点に追いついたのでした。まるで井口一人で試合をしているよう、この人のホームランもエラーも無かったら試合はもっと違った展開になったに違いありません。

             

この時点で9時50分、帰りは10時を回るに違いありません。この日はもう2次会はありません。梅田に戻ったのは11時を超えていました。勝っていても負けていても最後まで観なかったでしょうに。こんな混戦には困ったものです。

             

この日、入場ゲートで貰ったもの、ファイルケースと手袋です。手袋には地域の清掃に役立ててくださいと書かれてありました。

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