遊工房・雑感

日頃のあれこれを綴る日記です

ブラックのジョーク

2013-11-11 07:07:26 | 現代美術

Img704

 

この絵の上の方に 釘の絵が影とともに描いてある

影で思い出しちゃったよ

ミロの絵の写真の影が描いたのか実際の影なのか

・・・・

これはジョークに使えると思ったら

ブラックがやってるよ

この1年前にも釘にパレットを掛けてあるような絵がある

そっちはジョーク性は薄いかもよ

本当にそういう風になっているのを絵に描いたみたいだもん

調べれば調べるほど

キュビズムはいかがわしい目で見られたりうんざりされたりしたんだな

と思った

で いったい何が描いてあるんだ

と言われたり

何でこんなに形を壊しちゃうんだと言われたりしたのだろう

現代の日本でも

今の私の周りでもそうだ

キュビズムの解説も ここにマンドリンがあると分かります

なんて書いたりするし

何が描いてあるかじゃないよ

絵を描いたんだよ

という ジョークだ

ま ほんの作者はトロンプルイユだとか言っちゃって

他のそういう絵と並べて論じたりしているけれど

・・

つらつら見て気がついた

ブラックとピカソはこの時期すごく似てると思う

頭の構造が似ているんだろうか?

と思ったが分かり合える友人では会ったみたいだ

当時盛んに発表していたキュビズムの絵の展覧会を見て

ピカソは

酷いことになったもんだと言ったそうだが

グリッド画みたいに解釈したり

色々なバリエーションのあるキュビズム風の外観の絵はいろいろあったのだ?

ブラックとピカソは そのころは隠れて

二人で せっせと研究してて

その路線と 違うキュビズムを世間はキュビズムといってたらしい

いいじゃんね

そこからピュリズムが出たり コルビジェが出たり

派生したものが現代を席巻してるし

・・・

然し 直感的には ブラックとピカソは違うとは感じるけれど

どこがどうというのは分かってなかったが

ブラックのほうが 線のずれを利用して空間を表現し

ピカソのほうが 線を通すことが多い構築的な感じがするのはそれでだ

線の 合う合わないの 東洋的遠近法の利用では

ピカソのほうが曖昧いさは使わない

・・

わたしピカソとブラックの鑑定士になれそうだ

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何が描いてあるかにこだわるなあ

2013-11-10 07:13:36 | 現代美術

Img696

 分析的キュビズムは形を解体するってよく書いてあるが

それは違うだろうと思うけれど

上の絵なんか

バイオリンとブドウがわかるから

ここにバイオリンがありますとか葡萄がありますとか

そういう見方になるんだろうなあ

 

昨日のミロの会に KINU洋画会や彩友会の人を誘ったけれど

ダメだった

ああいうのはちょっと とか やっぱり何が描いてあるかわからないと

興味ないとか

そういう感じだった

然し

昨日のミロの講座も そういうところ

何が描いてあるとかなんだとか そういう風に絵を描いてた人たちだった

大塚先生の説明は

幼児の意味づけ期と結びつけた説明をなさって

子供にはなかなか還れない

そういう風におっしゃっていたけれど

子供の美術教育上の発達段階と

美術の歴史と対応するものは確かにあるけれど

ミロはあまり理屈っぽくないから ルネサンス以降の世界観の破壊

なんて意識はなかったように思うけれど

意味づけ期に退行しようという話じゃないよな

と思った

そしてやっぱり これはネズミに見えるとか

細胞核だとか そういう何を描いたかという話になっていってた

来年度何をやるのかお聞きしたらまだ決まってない

とおっしゃり

学芸員は忙しいのでかわいそうかもと 言ってた

講義を担当した学芸員は講義のあとは一切顔を出さないでさっさと帰ってしまったから

実はその仕事は嫌だったのかもしれない

大塚先生のご自分はパワハラだったかも

って

仰ったのはその辺かもしれない

わたしはキュビズム

ピカソ デュシャン ドローネ とやればいいと思うけれど

一般的ではないし客が来なさそうだから

そんなのパスだ

大塚先生は

それよりピカソなら 

青の時代バラ色の時代

キュビズム

古典主義

とおっしゃったが ピカソも一般的ではないのだよな 多分

客はあまり来ないかも

後期印象派とか

セザンヌ ゴッホ ゴーギャン

それは興味を惹くかもだな

多分これで行くだろう

この三人の理解もわたしは浅はかだから

これがいいわ

さて 上の絵

ピカソのだけれど

分析的キュビズムは形態を分解したってよく言うけれど

違うだろうと思う

よく 学期が描かれているのは 象徴的ではないかという気もする

音楽的に 響き合う形を 取り出して 

繰り返しとか 同じ方向の線とか

そういうもので探っている絵だと私は思うのだけど

武道もしばしば出てくる

彩友会のYさんの絵にも出てくるなあ

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歩いて行けば視点が変わるということ

2013-11-09 23:05:54 | 現代美術

多視点 というのをそういう風に説明するものがあって

ピンとこなかったが

そうか

透視図法的なものの見方は

物を 向こうへと追いやる見方で 

キュビズムはそれを自分の方に向かってくるものとしてとらえようとしたのだ

という記述があって

やっとそういう考え方がわかった

Img662

この絵もそうなのだ

これはたぶん記憶の中の絵

だからこのドアを開けて入っていけば

こうあるわけで

見えない位置にあるものも

透けているように描いてあるけれど

それは入っていけばこうあるというのは

よくわかっている眺め

そういう風に

時間の経過も絵の中に取り込むことと

多視点 って

関係あるのだな

ということが分かった

その

時間の経過を踏まえてとらえる

というの

かなり問題になったようで

それを一枚の絵に描く

というのを4次元っていうのか!?

4次元って 単純に 三次元の空間に時間軸を加える

みたいに理解していたけれど

絵の場合

軸を変える 視点を変える ということで時間を包含して

表現というのに凝ったわけだ

それが デュシャンなんかによくよく見られる表現だ

S110202g04

この絵が時間を表してるとか 動きを表してるとか

そりゃ みりゃわかるけれど

それと 多視点とは結びつかなかった

で 物を見るものに近づける  というのとは花タイのものの見方が透視図法的

って

確かにそうだ

消失点を意識させるのだから

遠くを見晴るかすというか

結局視線を 遠くに押しやる

なるほど

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布地を背にした女 1907

2013-11-08 10:05:56 | 現代美術

Img688

 

この絵は とても分かりやすいので

ほっとする

然しこの顔の

刺青状の斜線は この年の絵の顔のほとんどに出てくる

わたしは プリミティブな像から得た線だという風に思うけれど

実際は

頭部には交差する線があるのだからな

それでつらつら 大学時代の恩師を思い出している

学生にたたきこもうとなさったのは

このあたりのことだったのだよな

それが 基本だからだろうか?

美術の教育を受けたものは皆あの手の教育を受けてきているのだろうか?

少なくとも大塚先生は違う

絵画専攻だからかもしれない

●線が回る

●鉛直

●力が入れ替わる

●縄をなうような形

●存在は弁証法的なものだ

弁証法的にとらえろ

●交差する平行線

●力は行ったり来たり 弾むように見ろ

●響き合う色と形

こういうの みんなピカソの絵にある

わたしの指導教官は日本美術史界の重鎮(自称 でも本当かも知れない)

だそうだけど

ピカソ研究したんじゃないか?

それともセザンヌピカソを研究するのは常識かもしれない

大学時代を思い出すと

わたしとY君が彫刻専攻の中で

両翼だとよく言われた

Y 君は宮大工の息子で

アカデミックに保守的に緻密な仕事をする

だから最右翼

わたしは先生の忠実な弟子だったので(自称)

バサバサ 暴れて作る

だから最左翼だというのだ

教授の話がわけわかんないと旧友はよく文句を言い

何となく 本当に一番分かってたのは自分のような気がする

(自称)

もう一人の彫塑の教授は

(作家としては私の指導教官は作家として名はなしてないからな)

作家としては美術年鑑的に言えばハイソだったけれど

指導ということで言えば

小手先のことしか教えなかった

言葉にするのは苦手だったのだろう

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メルヘンチックな少女の絵

2013-10-25 18:14:14 | 現代美術
今度の日曜に
どういう風に描こうか考えてて気になる絵があったのだが
画像がなかなか見つからなかった

見つけた
Img668


このえは二つの横顔を組み合わせて正面像を作ったと解説にはある
6年後のこの絵も同じ構図だというのだ
Img669

横顔二つってみりゃそうだけど
違うだろうと思う

それにしても
絵に描かれているものが面白い
読み取ったものを取り入れて
描いてみようと思うよ

Img623

これとはだいぶ違うけれど
でも
プリズムの人が泥棒したものはあるね

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並べただけの絵じゃないかと言われたわけ

2013-10-25 05:56:03 | 現代美術
前に大塚先生に↓の絵について言われた

1203202


どこのどういうところの未熟さについて言われたのか理解できなかった

ここの所
頭の中で壁画を見比べてる
ピカソとミロとリベラと
それでやっぱりピカソが一番洗練されていると思い
洗練されていると思うのはなぜだろう?と思っていた
思い浮かべていたのはゲルニカなのだが

ゲルニカのことも実はスペインのその事件とのかかわりで
あの絵を偉大な絵と思っているので
絵として
なぜミロもリベラも凌ぐと感じるのか
良く分からなかった

色がなあ 二人のはダサいところがあるからかしら?とか思ったんだけど
色じゃないよな

そこで
思い出した
Img667

アヴィニヨンの娘たち
このえの解説を読んでも訳が分からず
意味不明 と思っていた
この絵はエポックメイキングな絵だ
と どこを見ても書いてある
だからどうエポックメイキングな絵なんだ?

わからん
第一なんで右二人お面みたいな顔に描いて
左の女の足は画面に溶けちゃってるんだ?

どうしてこのように描いたのかは相変わらずわからないのだけれど

並べただけの絵じゃないかと言われた身にはわかったことがある
まるでザツキンの彫刻のように一塊の世界として画面ができている

それまでの 何かを描いて
それを巧みなとか かっこいいとか 
そういう風に構図とか構成力を駆使して画面を作るのとは違う
別次元に突入

なるほどそういうことか
そういう風に解説してよ
と思ったけど
そういう解説にあったことがないから違うんだろうけど

私的にはこれでいい
そう思って改めて
アヴィニヨンの娘たちを見ると
この魅力 手にできた気がする
ところでザツキンとピカソって
どうつながってたのか調べて 面白い
今から100年前ごろって 私には目を見張るようだわ


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多視点

2013-10-24 06:24:51 | 現代美術
この言葉を聞いたのは
セザンヌの絵の話をしていた時だけれど
よく意味は分からず
今だってわからない
どこかの解説には
人間は一か所から見て暮らしてないからさ
と書いてあって
あちゃあ
この人も理解に苦しんでこんなこと書いてら と思った

多視点という言葉はもう述語の一つだから
絵を描く人にとっては
普通のはなしなんだろうし
展覧会に行くとそういう絵は多い
静物画が特にそうだ
普通に見えてるように描いてる静物画なんてないくらいだ
だから人々には普通のことなんだろうけれど
なんでだろう

ピカソのドラ・マール
20100420164319fc7

とかさ
横顔と正面を組み合わせた絵を
物の本には
キュビズムはこういうもんだって書いてるがな
私は違うと思うんだよな

彩友会のKさんと話した時
彼女は 概念的なとらえ方の話をしたら
意を得たり という顔をした

その真意はつかんでないけど・・・

物の見方の革命期
ルネサンス以来の視覚的リアリズムを
脱していこうということだったと思うんだよな
その時
概念的な形態に気持ちが動くというのは私には良く分かる感じ
エジプトの昔もそうだし

1



この画像を借りてきた人の記事にもあった
子供心に
エジプトの絵は
子供が描いたみたいって思ったって
昔だからそうなのかって

実は私もこの側面性と正面性の組み合わせは
幼稚に見えた

すごい洗脳だね

しかしエジプト文明の中での哲学があるのだ
物の本質を典型として表す

何をどう見るか表現するかというのは
時代を超えてみてみると面白い

いかに自分が固い価値観に毒されているか
焦っちまう

さてよ
これはオルガを描いたものだと思うけれど






オルガって
どうしょうもない女だったねとも思うけれど
そうじゃないか
決定的な女観獲得か
とも思った
こういうところから来た破壊的な形態は私は女だからな
わけわかんない(言葉的にはわかるけど)世界だ
あと 横顔と正面の組み合わせも
花ぺちゃの日本人である私には
横顔が概念的な天恵ではないからな
だから縁無き世界だな
とも思った





Img666_2




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セザンヌから始まったこと

2013-10-23 07:19:56 | 現代美術
http://www.ritsumei.ac.jp/~tut07770/special/special3/CezanneB.htm
この論文見つけた

セザンヌのことって
考えてみれば
全然わかっちゃないんだけど
若者のころ仲間はわかっているようだった
多分みんなセザンヌの手紙も読んでいたのだろうが

総合大学の文学部一回生向け概説講義を想定して同等レベルの入門書を引用してみた、ということにでもしておこう

こういう文があって
ええ!?
絵を描いてきたわけじゃない18歳くらいの子達相手の授業で
この話が通じるのか?
と思った
長年絵を描いてても私にはわかりにくい話なのに

もしかして私ってすごくバカか?
と思ったがうそ
本心は
この上田という先生は絵を描くのに苦悩したことがあるのかよ!
という反感を抱いたが

KINU洋画会のYさんなども時々セザンヌを引用するけれど
本心は もうちょっと縷々喋ってもらいたいんだけど
自分があまりわかってないから
会話にもならないのだ

しかしパッサージュ という言葉の理解も
私はすごく頓珍漢を思っているようだ
輪郭線とずれた線が視線を誘うって
そういう風に見るようだけど
輪郭線とずれた線と意識してみたことはない
私はあくまで線的に見て
その方向性が画面の中に パッサージュ (通路という風に思ってた)を作り出すと思っていた

別の人は 色の諧調が パッサージュ 方向性を作るみたいに言ってる


開設する人は自分の芽が見えるものだけをもとにいろいろ言ってる
そういうことだろうけれど

その形や世界を貫くパッサージュ それをくみ取って
画面の中に(平面の中に 力の行きかう様を描いたのが
キュビズムの絵だと思ってた


セザンヌの 立体の基本形に還元して見ろと ベルナールにあてた手紙は有名だけど


自然を円筒形と球形と円錐形によって扱い、すべてを遠近法のなかに入れなさい

これって世界史でも習ったのだろうか?
でもこの言葉も勝手に独り歩きしてて
死に戸は別のところに行ってるのではないか?


でも1904年のセザンヌの回顧展が
キュビズム発祥の 一撃だったのは確かだったのだろうなあ


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2013-10-22 07:00:12 | 現代美術

Yさんが田圃に落ちる影の絵を描いていた

なんか

影 の絵 描きたくなった

Img662

これはピカソの

影という絵

影って実態より多くのことを表現するかもしれない

ピカソの絵は解説に寄れば

フランソワーズ・ジローとの暮らしが終わる頃の

その愛が終わるころの絵だそうだけれど

影を使って描きたい絵が二つある

やろ!

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ミロのこと

2013-10-03 06:11:48 | 現代美術

昨日縷々記事書いてたのが消えて

いじけた

この農場のあとミロは変わったというのだ

この農場の絵は ヘミングウェイが買ってくれたそうで

(ヘミングウェイもまだまだ有名人じゃなく ミロとはボクシング友だちだったそうだ)

それでもミロはまだまだ貧乏だったらしい

この農場の絵は

よくよく見ると

どういう風に描いたのか 想像がつく

一つ一つ しっかり描いて 画面も しっかり構築して

そういう描き方は 生涯変らなかったように思う

でも

次からの絵は いわゆる変な絵だったから 

シュールレアリズムの擁護者だったという画廊主も

変っていくミロに この農場のような絵に帰るといい と言ったという

なるほどな 人々は やっぱり 何が描いてあるか理解しやすいのが好きなんだ

そういうことに 挑戦的なミロだったようだ

ピカソとはよい関係だったとはいえ

批判的な言辞も残っていて

ピカソが いわゆる ものすごくアカデミックな絵はうまかったことが

人々にとっては

商標になっている

何時でもピカソは アングルみたいな絵も描ける

というようなことを言っているが

ミロは 絶対何が描いてあるかわかりやすい絵には戻らない

そういうことが挑戦的 という風に自負していたような気がする

次の年の

Img621

耕地という絵

こういう風に変わったと書いているけれど

基本は同じだと思うのだ

一つ一つ具に描いて画面を構築する

ただ その 一つ一つのモチーフが

面白くてたまらない

Miro

もう この犬には笑っちゃう

上のは何だ?

ああ 馬がおっぱい飲んでいるのか

右下のとんがり帽子は トカゲだと!

おお!メルヘンチック!

この絵では 現実にある さまざまな対象物を ユーモラスに

表現していて

よくわかるけど どんどん それがエスカレートして

だんだん わけのわからない 抽象的な 記号のような形になっていくのだけれど

膨大なデッサンスケッチを通して

ドンドン 造形主としては 自在になっていったような気がする

ヒントは 物のあととか シミとか 具体物は連想しないものから

発想もつかんでいくみたいで

オートマチック って言えば オートマチック

でも

農場の時と同じ 一つ一つ 具に描いていく という姿勢は

持って生まれたものなのだろうと思う

最初に通った ピカソも通った アカデミックな授業展開の美術学校では

合わないで

病気になっちゃったそうだから

そういう いわゆる アカデミックな対象物のとらえ方は

合わない脳みその持ち主だったのだと思う

多分 世の中には

絵を描く人の脳みそにはいくつかタイプがあって

ピカソとミロは そこん所が 違うタイプなのだろう

でもミロが農場には戻らなかったように

ピカソだってクレーだって戻りはしなかったよなと思った

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