きのう
Yアトリエで見せてもらった本 ぱらぱらめくるうち
読みだした
「またあ 読むんだからァ」と言われた
たいてい図版しか見ないって
だいたい美術関係の本の文字は読むとむかついてくることが多い
理屈ばっかりこねたって
分かりゃしない
そういう感じ
私はよ
Yさんがどうかは知らない
山梨俊夫大先生の文章はいまだにわからない
腹が立ってくる
でもこの頃 やたら読む
なぜかというと長年抱えてきた謎が 解けてきた感じなのだ
私が将来美術に関係ある方向で生きていこうかなと思ったのは
1960年のことだ
コップの中の空気は描けないもんだなあ
描くという世界は 面白そうだなあ
と思ったのが運のつき
結局 私には才能が足りなかったな わかんない世界だ
と
挫折して
美術教育の世界に横滑り
それっきり
若いころの謎は放置
1960年代 今美術史をひもとくと 新しい動向模索して
世界中で芸術家がうごめいていた
それが
私の眼には 自己を確立するために
へ理屈こねて 相手を攻撃しているだけ
そこに何のうれしいものも見られない
と
思った
コップの中の空気が描けないのは相変わらずで
目の前の空間や色や形の謎のほうが面白かったし
年取ってから 5歳くらい年下の武蔵美出身の女性と知りあったら
「私は 抽象画しか描かない」というが
どういうふう絵を描いてきて
初老まで来たんだろう? 謎だ
と思ったが 深くは追及しなかった
一見親しくはしても
言語は通じ合わないお友達だったし
絵は見せてくれなかったし
抽象画を描きたいという気持ちは全く想像がつかなかった
マレーヴィチの正方形だって
私には
ここまで来ると
ニヒルだなあ
と思う
右の絵は
アド・ラインハートという人の
こうなると
好きだ
なんだろう?
私は 古い人間なんだろうな
絵の中に
音楽的なものや
語りかけてくるものがないと
反応できない
現代絵画の理屈っぽい(勝手にそう思ってるだけか)のは
苦手
そう思ってきたけれど
見るほうも作るほうも
時代を生きているんだと 思った
1960年からしばらく 都市の景観は変わっていった
今じゃああまりないけれど
カーテンウォールというような
ガラスぴかぴかの建造物が増えて
技術革新 資本主義の発展 そういう時代に沿って
芸術もうごめいていたんだ と なんとなく納得
空間を走り回る高速道路と
抽象画と 気分は似ている
非対象画というけれど (ラインハートの絵だってそうだ)
視覚的に対象があるかどうかではなく
絵画は時代を写しているんだなあと
ようやく 納得
そして 一つの絵の中には新しいものと古いものが同時にあるんだ
ポスト印象派展以来 だんだん現代に向かってきたようで
まだ 第一次大戦と第二次対戦の間の美術ばかり見てきて
それまでいろいろ知らなかったから 新鮮に面白いと思うけれど
ちょっと待てよ ちょっと古臭いかもと思う瞬間がよくある
大正モダンのものを見て 新しいねえ と思うと同時に
親たちの世代の古臭さを感じるみたいな
全く美術史の知識と関係なく
素朴な自分の感性で 好きと嫌いで いいとは思う
それで
なんだかよくわからないポロックだって 好きなんだから
でも
理屈をこねてくると
ポロックは
シュールレアリストたちの
オートマティック絵画の延長上にいる
厳しく幾何学的な形のこだわる人には
それなりのわけが
なるほど
あるのか とややわかった
でもそういう抽象表現は 今や 全然現代的ではないのね
世間を見渡すとおばさんの眼には
なんとも
ポップなものが氾濫して見える
今の若い感性には こういうの? って
他人事
面白かったり可愛かったりはするけれど
お派じゃないわ という気がする
抽象画描きたい気持ちはわからなかったんだから
70過ぎればポップなものも身に染みてわかるかもしれないけれど・・・
こんな
タイルの壁画
すごく好きだけど