昨日 二つの翻訳文を比較することがあった
そこで思ったこと
昨日はKINU洋画会でご高齢の方が
先生が絵の中にフェルメールの絵を取り込んで描いていらしたのを見て
すごいなあ
どうして あんなにそっくりにかけるんだろう
わたしは 描けないものだから
とおっしゃった
そっくりに描く
というのは
絵の場合だとデッサン習ったりすれば
だいたい誰でも描けるようになるものだ
もっともどうもうまくいかない
という人もいることはいるけれど
若いうちに(たぶん頭が柔らかいうちに)訓練すれば
ある程度は
かけるようになるものだけど
それでも
人間は自分が見たいように見るものだから
どれだけ対象を描いているつもりだって
全てが自画像だ とは よく言う話だけど
そのことを
二つの翻訳文を比較してみて (アハハ なんでもそうなんだ)
と そこから関連して
いろいろ考えた
展覧会なんかやると
これ誰の絵?サイン入れないと誰んだかわかんないよ!
と文句が聞こえたけど
サインなんかなくたって
分かるって
そうです その人の顔しているんだから
翻訳と言えば
画家をテーマにした文学
サマセット・モームの月と六ペンスなんかは
わたしは読むに堪えない
ゴーギャンについての解釈が
気持ち悪いほど違うからで
つまり 私が勝手に解釈してきた ということでもあるんだけど
デッサンというのもそうだ
訓練をすると
対象物についての 自分の勝手な解釈はそぎ落としていって
ひたすら
対象物の中の存在の法則を掴みとろうという風な
謙虚な?姿勢の訓練でもあるのだろうけど
それでも
そっくりに描いたって 自画像なんだよなあ
と
二つの翻訳文を比べて ひらめいたのだ
今みたいに自由な世の中じゃなくたって
絵は
こういう風に描くものです
って
決められて
そのように描かなきゃならないとしても
いくらでも自由にかける
これが絵だよなあ
ゥヒヒ うれしいなあと思う
絵を描いて自分の独特の世界なんて作ろうとする必要はないのだよ
どうせ 自画像だから
自分のものの見方考え方表現の仕方を ひたすらあれこれやってりゃいいのだ
絵に関して色々検索してたら
ある絵画教室では デッサンはその対象物の法則をつかむことですよ
と教えているようだ
それいいじゃないかと思う
私の師は デッサンがなっちょらん学生には
ちっとは 弁証法ぐらい勉強して来い!と叱った
法則をつかむということを
その町の絵画教室では
どういう風に展開しているんだろう?
・・・
大塚先生はそういう風ではないんだよなあ
そういうふうじゃないところが大塚先生の自画像でもあるんだけど
・・・・
クロッキーについても
どうすれば早く描くか じゃないのです
大事なのは中心線を見つけることです
って
そこでは教えている
ホホホ
これも法則なのかもしれない
わたしは
重心線と思っているけれど
同じことだ
垂直線です いえ 鉛直線です でもいいし
それとの関係 でもいいし