遊工房・雑感

日頃のあれこれを綴る日記です

自分が東洋人だということ

2013-12-27 05:42:01 | 非西洋

なんか 西洋の絵とか文学とか映画とか

そういうものに触れるときと

東洋のもの(日本のものも含めて)に触れるときと

自分の感じ方はずいぶん違う

自分の中の東洋人的な感性というものはあるのだろうか?

この頃考えている

絵について友だちの言うことを聞いていると

ちゃんと教えてもらいたい

上手になりたい

そういう要求がうんと強いのにこの頃気になってしょうがない

それに人々の頭ってかなり固い

自分を含めそういうものなのだろう

こうでなければならないという規範を示されないと

不安ということがあるのかもしれない

日本で絵を習うと 多くは狩野派に入門するみたいだけれど

これが日本のアカデミズムか?

中国は画院というものがあり 朝鮮もそうだ

宮廷とか 日本だと幕府だとか そういう権力と結びついたところに

美術のアカデミズムがあるって東西共通だなあ

と思った

中国の場合 院体画と文人画と対峙して言われるらしいけれど

どこがどう違うのか わけがわからないでいた

↓ 米 芾 の絵 (この人のは文人画)

ファイル:Mi Fei 001.jpg

職業画家が専門教育を受けて

技術にもこだわって

緻密に描くみたいな

宮廷趣味に合うみたいな

そういうのが 院体画 らしい

徽宗の絵などは教科書にも載っている

文人は 職業画家を貶めるような物言いをしたようで

だいたい そういう なんか教養があることが前提の文人画

というのが

東洋の思想に根付いてしまったようで

厭な感じ

技術者を貶めて見下す

というのも韓国ドラマを見て なんでそうなるの!?

思ったが

これらは 科挙が浸透させた思想に違いない

文句たらたらな気分だけれど

私の中にもそういう価値観は深く浸透しているのに気付いた

多分お父さんが酔っぱらって私に言い聞かせたことが

血肉になっているのだ

多芸多趣味アマチュアリズム反俗性孤高性養生隠逸志向

↑のようなことを言うみたいだ

・多芸多趣味 って結局教養を誇るみたいな

学識豊かじゃないと分からないことをほざくというか

ペダンティックなものいいとか

私や智のような薀蓄垂もそうだ

ああ いやらしい

・アマチュアリズム これは 職業的に訓練を受けたものを

蔑視する そういうことだ

日本人には そういうのはないよな

職業的に訓練を積んだ者には敬意を払う風潮がある

でも カルチャーとか 生涯学習系は

アマチュアリズムを謳歌する風を取り入れた方がいいよな

・反俗性

俗物根性を卑しむのは 中国由来かあ

金や名誉にこだわるのをさげすむ風って 私にもあるけれど

考えてみりゃ まやかしでもあるよな

素直じゃない

・孤高性

私は本質的には 人懐こいのだが

ツンとお高く留まってた女の子だった時期がある

そういう時期さ

孤高性って やせ我慢でもあるかもしれないけれど

人を見下すのが好きな人に 孤高の人は多いかもよ

人とうまくやっていけない

上手くやっていけることをよしとする方が

いいという気がする

庶民は助け合って団結しないと 沈没するもん

・養生ってなに?

と調べたが 健康志向?

文人に絡めては分からない

なんか 文人って お酒が飲めなきゃいけない感じ

飲んだくれてばかりいる感じだが

・隠逸嗜好

竹林の七賢みたいに 俗世を離れという感じね

俗世とお高く見下すのが 文人というわけだ

ふむ だいぶ自分のなかの東洋人が 見えてきたかも

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画の六法

2013-12-25 22:37:02 | 非西洋

中国の絵の評価法に

画の六法というのがあるんだって

一、気韻生動 気と韻(生命の流れとリズム)が生き生きとしている
二、骨法用筆 線の力 筆の用い方に骨がある
三、応物象形 デッサン力 物に応じて形を写す
四、随類賦彩 色彩感 物の種類に従って色をつける
五、経営位置 構成力 物の位置をはかり構成する
六、伝移模写 古画の模写をとおし最良の伝統をどれだけ受けとめたか

芦雪などが非難されるとき

気韻生動がない

とか言われたんだって

何時の時代もももも考え方を矮小化して

こうでなければいけない  という考え方はあるものだな

と思った

芦雪の絵なんか

気韻生動 抜群だと思うけれど

精神性とか言っちゃって

なんか くっつけて 言うみたいだ

その精神性 というのが怪しいのに

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歎異抄のこと

2012-03-07 06:40:25 | 非西洋

親鸞の生きた時代を考えると

歎異抄についていろいろ書いた安富歩氏が「東大話法」を出したのも

関連が見えてきた

 

親鸞は日野家のボンボンで

政治的にはきわどい 危険な立ち位置にあるお家柄だったように思う。

O0456077510205577901

親鸞の祖先が建てた法界寺の阿弥陀如来

この像と 柱の絵を見に行ったことがある

ここが幼い親鸞の遊び場だった とは想像しなかった

また行きたいな

親鸞の兄弟がすべて 比叡山に いわば当時の東大みたいなところに行ったわけだ

そこで修行を重ねた結果

親鸞は飛び出して法然のところに行くのだけれど

当時の比叡山の蓄積された叡智と腐敗ぶり

本当に 似たことはいつの時代にもあるのだなと思った

 

子供のころは 念仏を唱えれば 悪人だって阿弥陀様の元へ

浄土に行ける

すでに 皆救われている

それが 阿弥陀様の本願である

って

 

意味不明 ご都合主義 としか思わなかった

 

その底に流れている思想を考えるのが

これほど興味深いというのが 面白い。

遠藤周作のキリスト教のとらえ方って

仏教的ではないか?って前に書いたけど

http://yuukoubo.blog.ocn.ne.jp/yuu/2011/09/post_1159.html

遠藤周作を異端ととらえ バルバラを無神論と非難する

そういうキリスト教って

頭固いな

救済ということを

キリストもブッダも親鸞も

あまねく 人々の上にもたらしたいと思ったところは

そっくりではないかと言う気がする

苦悩の時代

それはいつもだけれど

これから日本は 大変な苦悩の時代に突入するだろう

もしかすると世界が かもしれない

どういう風にそこから人々が救われるのか

親鸞の自力作善と言う考え方が

不遜な科学者 不遜な政治家に重なって見える

ともかく人間の手でどうにかできるようなスケールではない自然を前にして

畏敬の念を持って

なんやらかんやらするというようなことが

念仏 と言うことなのかもしれない

カラマゾフの兄弟の中では. スメルジャコフ 「神がいなければ、全てが許される」. こういうセリフがあるらしい

と前に書いたけれど

そういう発想って 日本人はあまり持たないな

もともと神がいない人が多いからかな?

 

西洋の場合

神があるのが前提だから

罪を犯した 罪なのかもしれない

そういう苦悩が 神とともに(いないという前提に立っても)

湧いて出てくるのだな

子供のころ 教会に通っているクリスチャンのお友だち

悪さをすると 神様に叱られる

というので

この子 本当にそう思っているのか?

と思ったっけ

日本人の場合

おてんとうさまが見ているよ

と言う言い方をする

仏教について

何も知らないけれど

どこぞの王子だったシッダルタが人々を救おうと

バラモンに合流し 修行したけれど

それでは救えないと バラモンを離れて

菩提樹の元で悟りを開いた

と聞いてきた

菩提樹ってもともとの名前ではなく

菩提 って 悟りを開いて光明を開く

そういうような意味があるらしい

菩提を弔う という言葉しか知らなかったが

いずれにせよ さまざまな宗教は時代とともに

言うことも言葉も いろいろ変わる

そういう変遷に耐えられるようなものが

(いろいろな解釈を生み出せるということでもある)

宗教として残ったのかな

奥の深い 詩みたいなものだな

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自力作善

2012-03-01 18:54:06 | 非西洋

いろいろ読み飛ばしたがよくわからないので

自分の稚拙な言葉で書いたほうが

今感じることは正確に伝わる気がする

表題の自力と 親鸞の言う他力と

かつてはよくわからなかったんだが

ものすごく苦しんでいる子供

まじめであるほど自力作善の罠にはまっていくのは

目の前にしてきた

人間は自分の指向や研究で 何ごとも打ち砕いて突き進んでいけるように思いがちだ

うまく行かないときは

誰かのせいに

何かのせいにしたくなる

そうやってあがいているものに

あるがままでいい

ゆっくり深呼吸して

自然体で身をゆだねていい

と言うことが しみこんでいけば おのずから

楽になるがなあ と思うことがしばしばある

そういう感覚で言うと

他力本願と言うのは分かる気がする

 

そもそも 親鸞に至ったのが スピノザを研究したからだ

と言うので

戸惑った

スピノザなんて 世界史で名前を聞いただけで

なんだかわからない

調べてみたが 汎神論か それが 無神論ととらえられ

異端であるとされたのか

汎神論が無神論とされる

と言う一神教って

対象として 絶体神を 区切ってイメージするのか?

こういう風に 真理が神と言う名で

対象として 観念に取り込めるって 自力の信仰だなあ

と思った

私から見ると 胡散臭い

汎神論と言う考えで言うと

仏教は世界的にみると汎神論だ と言うのはよくわからない

今親鸞を熱く語る人たちの考え方は 汎神論と言う感じがする

もしかすると

それ 古代の神道の流れを持つ日本独特のものの考え方ではないのだろうか?

今原発事故を受けて

この 傲慢だった人間の所業が巻き起こした厄災を

自力作善の所業と考えられるのは

私には まさにそうだ としか思えない

たかだか いくらか科学的能力(?)を手に入れて

うまくやれば制御で来て 夢のエネルギーを人間業で引き出せると

思っている もう そこに 頭がくっついちゃっている人々がいるけれど

自然の一部でしかない人間が 自然の中で

(あまねく存在する自然の営みの中で)

シャカリキではなく 愚者として 浮遊して

神が下りてくるのを(変な表現!)ゆるゆるいければいいんだが

と言うようなことを考える

もしかすると シュール・レアリスムのオートマチックって

こんなのかもしれない

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プライス・コレクション

2011-12-28 10:13:26 | 非西洋

プライスと言う人が

どういう方針で日本の江戸期の絵画を集めたのか

よくよく読んで

気が付いた

このプライス・コレクションと言うくくりで見たとき

色・形・きっちりとした仕事

描かれた意味とか思想とか切り捨てて

全てを自然(Nature)として大切に表現されているかどうか

それで

選んでいる

日本人だと

例えば蕪村のあれこれ

思いめぐらせながら

蕪村の絵を読む

プライス氏はそういうものはない

 

それが

私が細密画を見るときの目と似ていると感じたわけだった

 

これ 結構ポイントだ

芸術の背景を いわば文学的にあれこれ詮索って好きだけれど

邪道でもあるんだ

と思うと

絵を見る と言うこと また新しい地平が開かれた感じがした

バーク・コレクションと言うのもあるよなあ

と 桜の表紙の本どこにやったっけと探すが

出てこない

 

コレクション と言うときはコレクターの審美眼の表現でもあるわけだ

展覧会とか 美術館って 見学するときはその作品を見に行くんだけれど

キュレーターだの所有者だの 館長だのの思想を浴びているんだ

当たり前だろうが 改めて 感じ入った

こりゃあ

笠間美術館は かなり 大塚先生の表現である

と言う部分も出てくるんだな

館長業をやる人は そういうこと 面白いのだろう

一つ初めて気が付かされたことがあって

メモ代わりに書いておかなきゃ

Img_0045

源氏物語の屏風

上が朧月夜と光源氏の出会いの場面

下は女の童が送られたモミジの枝を紫の上に届ける場面

前の記事でも書いたけれど

日本人だと

こういうところに書かれた物語をどう表現しているんだろう

と言う興味で見るがな

そういうことは切って捨ててみていいわさな

 

で屏風って 面白い

Img821



この屏風は六曲一双だから一つながりなのよ

この真ん中の一つながりの渡り廊下

直線にも見え 雁行する空間も作り

そういうことだ

図版だと ひらべったいから 気づかないが

 

これから展示を見るときは

視点を変えたら違う見え方

意図しているものかどうか

見て来よう

プライス氏の美術館は

光りも含めて 展示空間を作ることにも情熱を掛けたらしい

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デジタルな感じ

2011-12-05 06:32:33 | 非西洋

言葉があっているかどうかわかんないけれど

昨日のKINU洋画会で●×氏がどういう絵を描くか

興味があった

何しろ几帳面な作風で

例えば額縁なんか手作りし

木を45度に切ってぴったり合わせるなんて 超お上手

そういう方

コンパスや定規を使ってきれいに引かれた線を

きれいに塗っていた。

油絵で筆で描いているのに

何でそんなにきれいに描けるんだろう?

と寄って行って見たら

支持材はカンバスではなく

木製パネル

その木の肌がでこぼこしているから

じぇっそを塗ってきれいな平面を作って描いていた

さすが 神経の使い方が違う

 

それで思ったけれど

きっちり幾何学形態

きっちり平面に塗るって

パソコンのほうがうまくできる仕事だわよね

それが

人間がやると 同じ直線でも 何とも言えず暖かい

というのはなぜだろう

件の●×氏の絵も

不思議に 作者を髣髴とさせる

イスラムの緻密に積み上げられたパターンも

見ていると緻密さに圧倒されはするけれど

その緻密な幾何学形態が やっぱり それを考えた人

作っている職人

面白いだろうなあ と想像してしまうのは何だろう

こういうのってデジタルだけど アナログなんではないか?

Img784

こういう織物なんか

糸一本ずつの粒を単位に考えると

デジタルな作図だけれど

全体の印象はアナログだ

この鳥のパターンも

同じものなのに上と下 違うのは

意図的なんだか 大雑把でできた面を

アイディア アイディア

と 工夫して処理したんだか

見ていると追っている気分になるから不思議だ

パソコンは こういうものを抽出して作図機能を組み立ているんだな

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イスラム美術 幾何学模様

2011-12-03 17:04:03 | 非西洋

Img783

こういう連続模様を見ると

私がこの時代に生きていて

写実的に絵を描くのは禁止されていて

こういうパターンを作る仕事についていたら

と空想する

と・・

面白いだろうなあ

と思う

こういうのはフリーハンドでは書かない

きっちり数学的に作図するんだって

イスラム世界はそういう数学が発達していたんだって

面白そうだ

だいたい

私は数学は好きだった(数学というほどではないかもしれないけど)

私が子供のころは

代数と幾何といった

私は計算は苦手だから好きだったのは幾何

作図 なんて 大好きだった

こういうパターンをいろいろ編み出す

面白いだろうなあ

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パターン

2011-12-01 05:21:31 | 非西洋

イスラム世界では

偶像崇拝を禁じたからさまざまな模様が創り出されたといい

その半端じゃない模様 パターンに圧倒される

トルコのタイルってすごいなあと思ってきたけれど

改めてみると

もう半狂乱と言うばかりの展開。

まだ星形や十字型のタイルが創り出す細かい模様は

理解可能だけれど

立体的になるとレリーフはともかく

↓の 空間どうやって設計してどうやって作るんだ?

と不思議

Img779

これの模型を粘土で作るとしたってわけ分かんない

逆 この空間になっているほうを実体にして

プラスの立体を作るのはどうするんだ?

こう立体になるときのパターンも法則を作って造形するのって

面白いのだろうなあ

名人がつぎつぎ修行して生まれたんだろうなあ と

想像してしまう

パターンといえば

この皿を見ていたら

解説に半パルメットとある

これ

パルメットなんだ?

私は老人なので

パルメットと言えば忍冬唐草紋だと思ってきた

Img780

どこからそうなったかわからないけれど

本当はナツメヤシだろうとか

ロータス(ハス)だとかいろいろ出てくるが

コノサラの模様を見ると

これは ヤシみたい

そういえばパームヤシとかパーム油とかいう言葉は聞いたことがあり

パルメットはナツメヤシだというのもありだと思うけれど

ともかく偶像禁止ということで 植物からヒントを得て

色々な模様 パターンを作ったのに違いなく

ヤシだろうが蓮だろうがアーカンザスだろうが

いろいろ変化したに違いない

ナツメヤシはギルガメッシュの物語にも出てくるし

そもそもエジプトが原産地らしい

私の頭はパルメット紋といえば法隆寺の釈迦三尊像の光背だの

のき瓦の模様だので初めてであったのだものな

Shakasannzonn_4

忍冬ってスイカズラのことだというのも知らなくて

初めて知ったときは

スイカズラをよくよく眺めて

これからこういうパターンを作った というのは 大いに納得したものだが

どこからかスイカズラになっていったというのもありうる

シルクロードを逆にたどれば そういう変遷が見て取れるかもしれない

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一つ分かった

2011-11-26 09:14:54 | 非西洋

イスラム教では

創造するのは神のみというわけで

創作活動というのは人間のすることではない

という考えがあるようだ

これはおいらが創り出したというようなことは罪悪なのだ

今の人々はどう考えているんだろうね

 

アフガニスタンで文化財が破壊されたとき

すごく悲しかったけれど

なんでそんなこと平気でできるのか

先人の仕事に敬意はないのかと思ったが

そうか ないのか! ふ~~ 

モノを創り出すって人間の本能だともっていたが

 

それを抑えなければいけないのね

創作意欲がわく人には地獄だね

かわいそう

 

 

もっとも 日本でだって

今から見れば 運慶は芸術家で彫刻家で天才でと思うけど

当時にすれば 興福寺の中では

堂衆といって 寺の中では低い身分の僧侶だったんだからね

仏像を作るのは ただの僕の仕事だったわけで

 

社会のありようでは文化というのは どうにでも規定されるものだ

 

でも

ガリレオみたいに言うしかない

何を言おうが地球は回っているみたいなもんだな

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やっとよみおわった

2011-11-25 21:42:38 | 非西洋

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この著者

22歳ころまでピサロだとかユトリロ風にトルコで風景なんかを描いていたが

絵描きになるのはなぜかやめた

この本の中に

そのわけが潜んでいるのかも

イスラム教ってわからないから難しいが

ユダヤ教もだけれど

偶像崇拝を禁じているというのはよく知られているが

それが絵を描くということにどういう風になるのか

見当がつかないところがある

人間が見たということを強調するような絵は 犯罪的みたいだ

描き手の個性なんか 出ないようにしないといけない

 

キリスト教も偶像崇拝は厳しく禁じられていたけれど

いまじゃそんなこともない

この小説の16世紀には 異教徒とキリスト教徒をいい

イタリアの絵画のことが出てくる

そもそも絵を描くというときの絵は見てなんか描いちゃいけないふう

神の見るようにそれを描く手に乗り移らせるほどに訓練して描く

そういう感じで

描くのは目じゃない 手なの

しまいには究極の境地は盲目になる

盲目になれないと針で眼球を突っついて自ら盲目になる

 

わけわかんない

 

と そんなことばかり気にして読んだのが最初

今回はルネサンス以来の透視図法や遠近法

影を描いたりする写実的表現

これが異端だ というのが問題と

やっとわかってきた

イタリア絵画に関心を持ったスルタン

それは伝統的な細密画師からすると

裏切り 冒涜 そうなってしまう

秘密裏に進められた本が問題で起きる殺人事件

暴動 こういうことは

イスラム教の中身がわからないと分からない

 

肖像画が その描かれた人をほうふつとさせるようなのは

罪悪なのよ

神でもないものが 自分が見るということを主張してはいけない

というような

似姿 というのは 隠微な なんか由々しいことで

ましてそれが素晴らしい出来で

その描かれた像を礼拝したくなってしまうようだと

もう 偶像崇拝のおきて破りの異端となってしまうわけだ

調べてみた 15世紀 スルタンは確かにイタリア絵画に心惹かれ

こんな肖像描かせた

Img772

が こういうのは これだけで途絶える

これはスィナンという人が描いたメフメト2世の像

Img773

こちらは16世紀半ばスレイマン1世

描いたのは二ギャーリー

小説の時代だ

 

著者のオルファンは この西洋画の影響がトルコに浸透しているのを

納得いかなかったのだろうと思う

文化が違うところでは 全く価値体系の違う絵画がある

西洋画の浸透が当然のように浸透していくのに異議があり

独自の発展を遂げてきた日本の絵画に関心も深く

この小説 分かり合えるという期待がずいぶんあったのではないか

と思うが

日本人の感覚は 西洋画のあれこれが もう血肉になって

沁み込んでいるよ

 

ピサロ ユトリロねえ

日本人は印象派の絵が好きだし 

フェルメールなんかもたいそうな人気だ

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