いや、歳をとって無理の効かない身体と言うのはよく耳にしますが、無理の効かない心ってのはあまり言いませんかね?
なんかの本で、心を病んでいると訴える人に、治してやるから心を出してみろ、と応じた僧の話がありましたけれども、実際自分の物ですけれども、心ってのはどこにあるんでしょうかね?
そこそこの年月を生きて来ましたが未だに自分の心の正体がわからないから不思議であります。
いや、お前は何を言ってるんだと言う向きもありましょうが、今まで小一時間ばかり読書などしつつ、くだらないことを考えたり思ったりしていたわけであります。
で、ずーっと昔の「今様」とか言う歌の本を読んでいたんですが、これが面白いんであります。
いや、心の問題から恋愛、そして仏心もあるし、軽妙な語呂合わせか、なんてのもありまして、昔の人の心と言いますか、思いや想いなんてのが分かるようで楽しいものであります。
「われらは何して老いぬらん 思えばいとこそあわれなり 今は西方極楽の 弥陀の誓いを念ずべし」
半端な覚えでナニなんですが、浄土信仰が庶民にも広まっていた頃の歌である、と思うんですが、その頃から1000年経っても人は変わらず、信心も精進もせず未だに、思えばいとこそあわれなり、であります。
で、本を読んでいて気づいたと言いますか、面白い表現だなと思ったのが「葛」であります。
自分は半人前の植木屋なんですが、荒れた庭や花壇には葛や屁糞葛が伸びているわけであります。
蔦類は刈り取るったって切り刻むったって難儀でして厄介極まるものであります。
が、このころの表現によると「蔦葛」の絡みは色っぽい事を表すようでありますが、到底飲み込めない話であります。
葛や蔦の絡み合っている様から情事を思うとは、どんだけ発想が豊かなんだか、と驚くよりも呆れるばかりでありまして平安末期の日本人は相当な好き者であったのは確かでありましょう。
で、植木屋として興味深かったのは当時の庭の作りと見方であります。
枯山水を除けば池泉回遊式庭園が一般的と思うんですが、池は船を浮かべて遊ぶものと古い絵で見ましたが、船など入らない規模の池は月を愛でるために配されたのだなと思った次第であります。
月夜であります。
月を愛でようと誘って夜の庭に出て、後はうふふやむふふ、と言う塩梅だったのかと思わざるを得ない平安の人の助平心は大したものであります。
なるほどなぁ・・・そーなると松やもみじの陰にある東屋の存在も腑に落ちるわけでして、古い文学も斜めに読むと面白いと思ったんですが、解釈に色がつき過ぎてますかね?