いや、表題は単なる奇を衒った掴みです・・・愛だの恋だのという言葉を入れると訪問者が増えるみたいで面白い訳です。
ただ今、中島義道センセーの「ぼくは偏食人間」と言うのを読んでいまして、これがナンと申しましょうか、数冊の著書を読んだだけで軽々しくのたまうのもナニなんですが・・・中島センセーを心の師と仰ごうかとさえ思っちまう訳であります。
偏食人間と言うのは、おっさんの解釈では、自分の感性と相容れない物をわざと見つけて大騒ぎする人・・・ですか?
いや、先月読んだ「人生に生きる価値は無い」よりも随分と熟れていると言いますか・・・自分が変態である事を十分に認めている所が素晴らしいと思う訳です。
まっ、読んでもらえれば、抱腹絶倒とは言いませんが、終始、ニヤニヤしたり、軽く吹き出しそうになったり・・・まっ、面白い訳です。
「人生に生きる価値は無い」も面白いですけど、軽く中島センセーの毒気に当たりたい人はこの本の方が良いかもしれません。
しかし、面白いだけの文章なら他にもナンボでもある訳でして、中島センセーの文章は「哲学」の基本構造の上に成り立っている物でありますから、意味する所がちゃんと読めれば、そこには深遠なる人間の性の本質などが描かれていたりする訳です・・・多分。
それにしても、中島センセーの生き様と感性と申しましょうか・・・全部とは言いませんけれども、社会に対して、お前等が間違っているのだ、皆して馬鹿野郎だな、と言う態度のほとんどにおっさんは共感しちまって、我が意を得たりとでも申しますか、自分がかねがね思いつつも言葉にはできなかったアレコレを見事に炙り出している訳です。
一部面白かった所を紹介しますと・・・↓
美の求道者は美しさと同じように醜さにも敏感である訳ではない。むしろ醜さに鈍感な者が多い。美がより良く見えるようにするために、醜を見ないようにする技術を体得した者が多い。
・・・ここまで無断引用・・・↑
いや、この事であります・・・おっさんが社会のいろんな事に腹がたって怒っちまうのと同じ視点であります。
ただ、おっさんは中島センセーほど純粋ではなく、銭儲けも出来る人間なんで、美を求め人達の鈍感さが「必然」から来るモノじゃないか? 要するに、知っていて、その方が自分にとって有利だから気付かない振りをする・・・と、言う事なんじゃないかと思ったりしますけど・・・。
うん? 中島センセーの言う事と同じか?
いや、アレだ、上記の文章は矛盾してないか?
先に美に対して鈍感と言っておいて、後で醜を見ないようにする技術を云々と言うのは、気付いていると言う事で鈍感じゃない訳で、矛盾してると思うんだけど・・・。
まっ、中島センセーの本が面白いと思うおっさんですから臍曲りの屁理屈屋なんでアレですけど。
で、中島センセーは巷にあふれる騒音に怒って行動を起こし、時には自分が追い込まれたりもしている訳ですが、それでも自分の信念に妥協する事無く「嫌なモノは嫌だ」と宣い続ける訳です・・・偏食者の鏡でありましょう。
社会に対しての疑問や怒りを飲み込んじまう事でしか生き延びる術を保たない一般大衆は、ホントはいろんな事に気が付いているんですけれども、しかし、それを言って飯が喰えなくなるよりは、腹に収めて知らん顔して、取り敢えず長い物には巻かれとこう、と言う暮らし向きにしかならないと言うのも、センセーは知っていて書いているんですゼ、たぶん。
しかし、見なかった事や気付かなかった事にして無関心を装って生きる癖をつけちまった都会の人達・・・敢えて都会の人と断りたいんですけど、その理由は、中島センセーの話しの全てが、ああすればこうなるが成り立つ「都市型生活」の中でしかあり得ないからなのです・・・見ざる聞かざる言わざるを実践する事で自分の生活や身の安全が守られる日々を過ごしていると、感受性は麻痺しちまって、終いには何も感じなくなり・・・それが当たり前になった人達で構成されるのが「都市型生活」になっちまう訳です。
で、ありますからおっさんは街には住めない訳であります。
中島センセーのように騒音の源に苦情を言いに行く根性も体力も持ち合わせて這いませんから。
あっ・・・昼飯時だ。
ただ今、中島義道センセーの「ぼくは偏食人間」と言うのを読んでいまして、これがナンと申しましょうか、数冊の著書を読んだだけで軽々しくのたまうのもナニなんですが・・・中島センセーを心の師と仰ごうかとさえ思っちまう訳であります。
偏食人間と言うのは、おっさんの解釈では、自分の感性と相容れない物をわざと見つけて大騒ぎする人・・・ですか?
いや、先月読んだ「人生に生きる価値は無い」よりも随分と熟れていると言いますか・・・自分が変態である事を十分に認めている所が素晴らしいと思う訳です。
まっ、読んでもらえれば、抱腹絶倒とは言いませんが、終始、ニヤニヤしたり、軽く吹き出しそうになったり・・・まっ、面白い訳です。
「人生に生きる価値は無い」も面白いですけど、軽く中島センセーの毒気に当たりたい人はこの本の方が良いかもしれません。
しかし、面白いだけの文章なら他にもナンボでもある訳でして、中島センセーの文章は「哲学」の基本構造の上に成り立っている物でありますから、意味する所がちゃんと読めれば、そこには深遠なる人間の性の本質などが描かれていたりする訳です・・・多分。
それにしても、中島センセーの生き様と感性と申しましょうか・・・全部とは言いませんけれども、社会に対して、お前等が間違っているのだ、皆して馬鹿野郎だな、と言う態度のほとんどにおっさんは共感しちまって、我が意を得たりとでも申しますか、自分がかねがね思いつつも言葉にはできなかったアレコレを見事に炙り出している訳です。
一部面白かった所を紹介しますと・・・↓
美の求道者は美しさと同じように醜さにも敏感である訳ではない。むしろ醜さに鈍感な者が多い。美がより良く見えるようにするために、醜を見ないようにする技術を体得した者が多い。
・・・ここまで無断引用・・・↑
いや、この事であります・・・おっさんが社会のいろんな事に腹がたって怒っちまうのと同じ視点であります。
ただ、おっさんは中島センセーほど純粋ではなく、銭儲けも出来る人間なんで、美を求め人達の鈍感さが「必然」から来るモノじゃないか? 要するに、知っていて、その方が自分にとって有利だから気付かない振りをする・・・と、言う事なんじゃないかと思ったりしますけど・・・。
うん? 中島センセーの言う事と同じか?
いや、アレだ、上記の文章は矛盾してないか?
先に美に対して鈍感と言っておいて、後で醜を見ないようにする技術を云々と言うのは、気付いていると言う事で鈍感じゃない訳で、矛盾してると思うんだけど・・・。
まっ、中島センセーの本が面白いと思うおっさんですから臍曲りの屁理屈屋なんでアレですけど。
で、中島センセーは巷にあふれる騒音に怒って行動を起こし、時には自分が追い込まれたりもしている訳ですが、それでも自分の信念に妥協する事無く「嫌なモノは嫌だ」と宣い続ける訳です・・・偏食者の鏡でありましょう。
社会に対しての疑問や怒りを飲み込んじまう事でしか生き延びる術を保たない一般大衆は、ホントはいろんな事に気が付いているんですけれども、しかし、それを言って飯が喰えなくなるよりは、腹に収めて知らん顔して、取り敢えず長い物には巻かれとこう、と言う暮らし向きにしかならないと言うのも、センセーは知っていて書いているんですゼ、たぶん。
しかし、見なかった事や気付かなかった事にして無関心を装って生きる癖をつけちまった都会の人達・・・敢えて都会の人と断りたいんですけど、その理由は、中島センセーの話しの全てが、ああすればこうなるが成り立つ「都市型生活」の中でしかあり得ないからなのです・・・見ざる聞かざる言わざるを実践する事で自分の生活や身の安全が守られる日々を過ごしていると、感受性は麻痺しちまって、終いには何も感じなくなり・・・それが当たり前になった人達で構成されるのが「都市型生活」になっちまう訳です。
で、ありますからおっさんは街には住めない訳であります。
中島センセーのように騒音の源に苦情を言いに行く根性も体力も持ち合わせて這いませんから。
あっ・・・昼飯時だ。