じじい日記

日々の雑感と戯言を綴っております

少し泣いた・・・!!!

2013-07-26 10:25:16 | 日記的雑談
昨日から孫悟空ごっこをしています。
もちろんおっさんが悟空です・・・が、顔は猿ではありません。

孫悟空になるなら是非相方としては夏目雅子が良いと思うんですが、おっさんの孫悟空ごっこは一人です。

で、孫悟空ゴッコが始まるときまって、おっさんの頭にある緊箍児がじわーっと締まって来るわけです。

いや、夏目雅子の三蔵法師になら緊箍呪を唱えられてみたいとも思うわけですが、ただ今現在の状況は、何処のドイツがおっさんの頭を締め上げているのか・・・頭痛いです。

頭痛い・・・コレもアレです・・・言葉って難しいです。
ホントに頭痛い・・・頭痛です、が、目眩とか頭痛って、頭痛く無くても使いますよね。

請求書をみて目眩がしたとか・・・借金取りが来て頭が痛いとか。

ああ、そうか・・・月末だったな・・・頭痛もするわけです。

鈴木大拙の本を何冊か買い求めて適当に拾い読みしているんですが、この年寄りは英語が堪能で「禅」を英語に訳して苦労したんで、それでかえって日本語の表現に疑問を持ったり限界を感じたり、漢語との意味の違いなんて事で「禅」を考えるわけで、読んでいて意味が分からずとても苛々します。

で、凡夫のおっさんなんかは、頭痛がするとか、目眩がする、と言う表現の時にも、仮に対話でも文章でも、その時の話しの脈絡と状況から、ホントの頭痛の事では無く、まっ、比喩とも違うし・・・ナンでアレ、例え話し、感覚的表現、と言う事で、伝えたい事は十分伝わると思うんですけど・・・大拙先生程の人になると、言葉そのものの意味に相当こだわっちまうんですね。

で、凡夫は思うわけです・・・頭が痛い、と宣ったとして、通常は頭痛の度合いに目盛りを付けて表現する事も無いので、たぶん、頭が痛いと言う状況の認識は作れたとしても、痛みの質と言うか度合いと言うか、そう言う事までは伝わらないと思うし、仮に、痛みに度数を付けたとしても、痛みを感じる感覚器官が万人皆等しいと言う事も無いわけで、やっぱし同じ痛みはわからないと思うわけです。

だったら、頭痛いぃ~頭痛がするぅ~・・・あら、どんな風に痛いの? 孫悟空の輪がギューンて締まったくらい、でも良いんじゃないか? と、朝っぱらからホントーにどうでも良い事を考えるわけですが・・・言いたい事は、頭痛が酷いんですけど、と言うのをとても面倒臭く宣ってみたと言う事ですね。

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トレカってナニさっ?

2013-07-24 18:11:46 | 日記的雑談
ハイカは知ってる・・・使ってたし、コレクターなんで使い古しを何百枚も持ってるし。
テレカは知ってる・・・使ってたし、営業用に名刺代わりに貰ったのとか未だ持ってるし。
スイカも知ってる・・・この辺だと尾花沢スイカが有名なんだけど、甘くて美味いし。

しかし・・・トレカってナンですかぃ?

いや、車で走っていてGEOの看板みたら「トレカあります」だか、トレカコーナー・・・云々と描かれていたのを見ても反応出来ずに固まっちまった訳ですが・・・ジェネレーションギャプ? 時代遅れ? それとも、単なる無知?

まっ、ゲオで扱っているんだから年寄り向きなはずは無いし・・・ガキや若造向けのものなんでしょうから、ゲームの類いが絡むんだろうな、と言うのは想像つく訳です。

アレか? 時々テレビでやってるCMで、ナンだこれ?と、思う、キレイっぽい絵の描かれたカードの事か?

あんなもの、ドーせ、特定の絵柄は少なくして中々手に入らないようにして射幸心を煽ってガキから銭を巻き上げようって言う魂胆の代物でしょ?

ガキはガキらしく・・・パッタとか集めてろよなぁ~ 親の財布から銭くすねてパッタを買ったおっさんが言うのもナニなんだけど・・・パッタって知らない? 全国区ではメンコって言うらしいが、仙台ではパッタです・・・鉄人とか、零戦とか、野木大将とか、おっさんがガキの頃でも未だありましたからね。

で、話はパッタになっちまう訳ですが、裏面に青インク一色で、パッタの位が描かれている訳です・・・少佐とか、大佐とか、中将とか・・・しかし、これの遊び方が良く解らなくて裏面は気にしなかったんだけれども、ひょっとして、テレビで宣伝してるカードゲームって、強いキャラとか決まっていて、それを持ってると偉いとかなのかな?

だとしたら、昭和のパッタは既にそれをやっていた訳なんですけど・・・違うのかな?

で、おっさんは街の中には滅多に出ない訳なんだけれども・・・出ても仙台の中心部なんて処には恐ろしくて行けない・・・人が多くて殺されそうな気がする。

余談ですが、人の多い街の中は超苦手で一時間と居られませんが、山に入って二日も三日も誰とも会わないなんてのは全く苦にならないと言うよりも好きなんです・・・これもいわゆる一つの変態ですか?

で、街の中でも車で動く分には未だ絶えられる訳です・・・渋滞とかも嫌いじゃありません。

例えば、渋滞でノロノロしか進まないとかの時に平行する歩道に見目麗しい娘さんなどが歩いていたりすれば、それはもう一日当たりだったな、となる訳です。

特に、街の真ん中の大きな交差点の信号待ちで横断歩道の最前列なんて言うのは絶品だと思っています。
ナンボ田舎都市とは言え、政令指定都市、百万都市の仙台の中心部ともなれば、それなりにメンコイ女子など歩いていたりする訳です。

まっ、見るだけタダ、と言うのもさもしい根性だと思うんですけど・・・いや、若い頃には触れない女子には興味持たなかったんで、テレビの中のアイドルとか言うのも興味なかった訳ですが・・・今ではすっかり目の保養と言うのが身に付きまして、目線をそらした風にして実はしっかり見ている、なんてのが特技になっちまっている訳です。

で、本日、目の保養と言いますか、学習させて頂いたのは、レタスの葉っぱみたいに何枚もひらひらしたスカートが重なってるミニスカートの芯には、レタス並みに芯があって、しっかりと、ブルマー見たいのをはいている、と言うのを学びました。

山で熊にあうのと、街で娘を見るのと・・・どっちも楽しいと思うおっさんでありました。

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旧い話し・・・

2013-07-24 13:53:32 | 日記的雑談
息苦しいときって、あるよね・・・わけも無く、意味も無く。

今から40年以上も前、やっぱし息苦しい事は時々あって、眠っていたはずなのに何故か苦しくて目が覚めた事がありました。

あの時は、一緒に寝ていた娘が、朝方、知らない間におっさんの口を塞いでいたりして・・・目が覚めると「起きちゃったんだぁ~」と言いながら、既に起きちまっている息子に手を伸ばしたりして・・・。

今から10年近く前、やっぱし息苦しい夜があって、フト目を醒ますとも女房の顔が目の前にあった・・・あっ、驚くと女房が一言「死んでっ」と言いつつ、おっさんの首を絞めていた・・・いや、これは半分創作です。

さて、実話は、40年前でしょうか? 10年前でしょうか?

でねっ、息苦しいのは今なんですよ・・・一瞬死ぬんじゃないかと思う程苦しかった。

いや、右腕を蚊に喰われちまったわけです・・・痒いんだわコレが。
店の裏口のすぐ前は公園の植え込みなんで蚊なんかナンボでも居ますから・・・誰かが出入りした時に紛れ込んだんでありましょう。

で、やられっちまった後とは言え、復讐しないと気は済まないわけで、見えない敵に向かって殺虫剤をコレでもかと噴射したわけです・・・郷ひろみのアースジェットです。

そしたら、小型扇風機がおっさんに向けて廻っているんですけれども、噴射した殺虫剤がそれに押されて全部おっさんの顔めがけて襲いかかってきちまったわけです・・・それで死ぬ程息苦しくなった、と・・・おもしろく無い? アッそーですか?

ンじゃぁ・・・定番の中韓叩きでもしますか?

<韓国経済>現代建設・SK建設、ボスポラス第3大橋受注

コレ、このニュースをネタにしたブログでは、完成前に橋は落ちるんじゃないか?と、揶揄されているんですけれども・・・確かに南朝鮮が、あの、イタリアと組んでいる辺りには一抹も二抹も不安は感じるわけですが・・・ほら、ドイツ人も言っているわけです・・・もう一回やるとしても、イタリアだけは外そうな、と。

しかし、おっさんは少し違う見方をしてみたいと思うわけです。
先日ネタにした中国の世界一高いビルの突貫工事・・・日本人には考えられない早さで完成を目指しているわけですが、アレ・・・テレビを思い出しませんか?

15年程前・・・世界中の空港のテレビはシャープをはじめとする日本製であった物が、ポツポツとサムスンが割り込んでき出したと思ったら・・・ただ今今日は如何でありましようか?

おっさん、日本人は昭和の高度成長期に持っちまった変なプライド・・・言い換えれば三国人の評価を変えるべきなんじゃないのか? と、思っているわけです。

日本人が他の国より抜きん出られたのは戦後の苦しい次期を乗り越える為の弛まぬ努力と、我々日本はアメリカに負けたんだ、アメリカや西洋列強の遥か下なんだ、と思って謙虚に努力してきたからだと思うわけです。

そして、西洋列強に畏敬の念を抱く一方で、アジアのかつての日本の統治領に対しては、戦後も変わる事無い、謂れの無い優越感を抱いき、見下してきたと思うわけです。

で、思うんですけど・・・時代は変わっちまったんです・・・職人がいないと出来なかった物も、今は大概コンピューターがナニしてカニしたら出来ちまう時代だし・・・まっ、工業は知らない分野でアレなんですけど・・・でも、日本独自の優位性って、随分と霞んでやしませんかねぇ?

こーやって、南朝鮮がやろうとしている事を、ダメだろう? と、多価を括って見ていられる程、日本には余裕は無いと思うんですけど。

ドーなんですかねぇ? 日本の常識は世界の非常識・・・コレ、結構ホントです。

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携帯が戻ってきた!!!

2013-07-24 12:35:04 | 日記的雑談
実は、携帯を無くした事を知らずに居たわけなんだけれども、いや、先月も山で落としてきたらしくて無くしたんだけれども、今回のは、無くした事さえ知らなかったと言う事で、こうなったら、携帯は無くても良いんじゃないか?と思うんだけれども・・・禅の感覚で行くと、持っているから無くすんで、持っていなければ無くさないんで、そう言う事なんだけれども・・・ホント、おっさんの携帯って、自分以外の人へのサービスで持っているようなもんですぜ。
ほら、突然の連絡とか・・・嘘か? この一月の間に携帯が鳴ったのって、片手で数えられるもんなぁ~。

で、先月携帯を紛失して新しいのにしたからか、毎日楽しみにしていた二つのメールも来なくなったし・・・一つが、ミニストップの携帯会員メールで、もう一つが、いつも行っているスタンドのガソリン価格情報なんだけれども、その二つが来なくなっちまったら、ホントに、おっさんの携帯は鳴りをひそめちまいましたぁ~・・・ホント、要らないと思うんだけど。

余談ですが、おっさんは電話恐怖症でありました。

小学校のとき、学校で電話の掛け方と言うのをやったんですが、受話器に向かって「もしもし」と言うのがとても不思議と言いますか、おっさんの語録の中で「もしもし」と言うのは、とても大人的な言葉合ったわけで、こんなはな垂れガキが恐れ多くも電話の受話器に向かって大人と同じように「もしもし」と言うのが心理的に憚れちまっていたわけです。

いや、おっさんのように昭和の人間は、ガキと大人は一線を画していたわけで、ガキが大人のような振る舞いをするのは許されなかったのであります。

なので、順番にエボナイトの黒電話の受話器を持って「モシモシ、おっさんです、おっさんのお宅ですか?」と言うようなのを見本に、自宅への電話をかける真似をさせられた時、顔から火が出るんじゃないか?と言う程に舞い上がっちまって「もすもす・おっおっおっおっおっおっ・・・」と、オットセイのような声になっちまって前に進まず、クラスの皆様に大笑いされたわけです。

それが終世の電話に対するトラウマとなっちまって、今日に至るわけです・・・まっ、大人になって電話は避けて通れなくなったんですが、やっぱし、今でも自分から掛けるのはとても苦手でありまして、滅多な事では自分から電話、と言うのはしません。

なんで電話がかけられ無いのかと言いますと・・・電話は相手が見えないからであります。

相手が見えないと言う事は、何をしているのかわからない所へ突然自分が割り込むわけでして、そこにとても恐縮の念と言いますか、申し訳無いな、と言う思いが働き、今時分だと昼飯食ってんじゃないか? とか、忙しい最中だったらどうしようか? 迷惑じゃないだろうか? と、考えると、もう掛けられなくなっちまうわけです。

未だに電話をかけるのは嫌いで、代替えの効く物は女房に変わって掛けてもらっています。

いや、掛かってきた電話を受けるのは全然平気なんです・・・それどころか、暇な時に店に掛かってきた色んな営業の電話とか、長々と話しをさせては暇つぶしの相手になってもらうとかしてますから。

いや、皆様は電話をかける時に、今先方はどんな体制かな? とか、このタイミングは先様にとってドーなんだろうか? とか、考えませんか? 普通は考えないのかなぁ~?

なので、メールが好きです・・・要件のみ、のメールが一番好きです。

ところで、携帯なんてすけど・・・カバンに入れてあると思ったらとっくに落としていて、拾われていたわけです。
しかし、無くした事に気が付いていないんで、拾った方も迂闊に人様の物を調べて、拾いましたけど、とはやり難いらしく・・・個人情報の宝庫ですからね・・・愛人宅の電話とか、密会のメールとか・・・そう言うのは無いですけど。

で、女房が電話をしてみておっさんの電話は誰かに拾われている、と言うのが発覚したわけです。
まっ、スポーツクラブのロッカーに転がっていたんだそうですけど。

いや、それだけの話しなんですがね、つまんなかったですか? 

    ああ、ソーですか。

いや、本日のワンコインベントー・・・いや、犬が入っているわけじゃないんですけどね・・・配達のババアが、カツカレーですって言うから選んだのに、カレーじゃないじゃん!!! デミソースじゃん!!! それなら鯖の味噌煮にしたのにぃ~・・・と、ベントー食いながら怒っていました。

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禅を・・・?

2013-07-24 11:18:58 | 日記的雑談
禅に関する本を読んでいるんだけれども、難しい・・・しかし、これほど明快な話しも無い。
いや、ンじゃぁ、禅は難しいのか? 簡単なのか? と、問うと・・・難しくもありそうでも無くもあり・・・結局、ドーだっていいじゃネェかそんな事は、と言うのが禅である、と、今掴みつつあるわけです・・・ほとんど満たされている感じなんですが、あと一歩、どこかにまだ生臭味が残っていると言いますか、俗に片足を残したまま・・・そんな感じですかねぇ。

で、表題の「禅を・・・?」と言うのは、禅は学ぶ物でもないし、教わる物でもないし・・・なんと申しましょうか、感じる物である、と言う感じじゃ無いかと言う事で、禅を、のあとの文字が継げなかった・・・わかるかなぁ~ わかんねぇだろうなぁ~・・・。

この手の話しを書いた時と言うのはブログの反応は鈍いんだけれども、しかし、まっ、好きなんだから止められません。

禅と言うと、やっぱし、おっさんも勘違いと言うか、思い違いをしていたわけですが、どうしても仏教の筋で、日本では、禅宗なんて言っちまったもんですから、その他の仏教の宗派と混同されがちですけれども、おっさんの個人的な感覚では禅と禅宗は似て非なるモノであるな、と、近頃思うわけであります。

ンじゃぁ禅と禅宗はナニが違うのかと言うと、禅は葬式には関わりません・・・そこですか?

で、序でに蘊蓄をひけらかしますと、禅と言うとお寺で座禅なんかを想像しちまいますが、座ってする禅と言う事で座禅なんですけれども、あれは、禅の一形態の中でも特殊じゃないかとおっさんは思うわけで、ましてや、棒で叩かれて礼をするなどは、だいぶ違うような気がするわけです・・・いや、そう言う事を始めた禅の坊主が居た訳で、それで広まったんだと書かれてましたが・・・唐だか宋だか、その時代にいた坊主の禅の修行の形がそれだったとか・・・手元に本が無いので忘れちまいました・・・あっ、思い出した「馬祖道一」だ。

馬祖道一は「喝」と言うのもやったそうで、何か言うと大声で「喝」とやられるんだそうです・・・それが答えなんですが、「喝」と怒鳴られて悟るのが禅であります。
そこには言葉は無い・・・そう言う事なんです・・・禅には言葉は無いのだそうであります。
なので、禅は問答はしても説明はしないので問答集等を読んでもホントは誰にも解らないのであります。

おっさんらのような漢文もまともに読めない下賎の凡夫は誰か、物好きなおっ節介が書いた説明を読んで解った気になるのが関の山な訳ですが、禅には言葉の介在する余地は無いので、そんなモノを読んでも解った気にはなれても、禅とは未だ縁遠い所に居ると、おっさんは思うわけです。

で、ンじゃぁ、そんな凡夫がそろそろ禅が解りかけたと恐ろしい事を宣うのは何故か?

禅は、難しいものではなく、言ってしまえば、生まれて生きて死んで行く事が禅なのである、と、思えると言うか、それを感じられるようになったからであります。

で、仏教にのめり込んでいろんな書を読み漁ってぶつかった壁に、あきらめ、と言う言葉があったんですけれども、あきらめ、は、あきらか、と言う事であり、あきらかになるということは、あきらめることである、と、言うのに悩まされ続けたわけです。

いや、今となってはなんて事無い感覚でして、とても簡単な事であったわけです・・・わからないことがわかった・・・と、単純な事なんですね・・・まっ、おっさん流の言葉にしちまうと、わかろうとすることがわからなくする、とでも言いましょうか? わかる必要がないと言いましょうか?

と、言う事で、禅と言うのは、わからない物なんであるな、と言うのがわかってきて、ようやく禅がわかってきた、と、感じつつあるわけです。

で、もう一つ飛躍した話しをしちまいますと・・・親鸞が言いたかった事もやっぱし禅でありましょう。

他力、というのは禅だ、と、言い切っちまいたいと思うわけです。
親鸞が言う言葉は、本当は言葉で伝える事は出来無い禅を仏様の言葉と姿を借りる事で、凡夫に伝えたのでありましょう。
なので、親鸞は、お迎えが来たら行き先はお浄土であるから、日々はそれぞれの生活を送るようにと。
そして、歎異抄読みの学者も必ずこの部分の解釈でアレコレ言うわけですが・・・念仏申さんと心のおこるとき・・・これで、念仏を唱える事さえ無く弥陀の本願に由って救われる、と言われているわけですが、親鸞は、本当は念仏なんてどうでも良かったのでありましょう。

親鸞は、天変地異やら飢饉やらで飢餓に苦しむ衆従の心に禅を届けたかった・・・あきらめ、の思いと言いますか、まっ、ここが禅の難しい所でありまして、文字にしてしまうと形を作ってしまって禅でなくなっちまうと言う。

要するに、日々嘆き暮らす凡夫に、心の安らぎは己の中にあることを伝えたかったのでありましょう。

しかし、それを修業僧のような心持ちに簡単になれるはずも無いのを承知している親鸞は、仏様の言葉を借りて方便したんじゃないか? なんて事まで思ってみたわけであります。

ああ、親鸞まで引っ張り出しちまったんで収まりが悪くなっちまいましたが、禅は森羅万象のことであり、人間の生き様などと言う小さな事を示している物でもなく、また、宗教でも哲学でもない・・・禅なのであります・・・わかるかなぁ~? わかんねぇだろうなぁ~?

と、言いつつ・・・言葉にすれば、やっぱし「どうだっていいじゃねぇか、そんなことは」になるんじゃないかと思うんですが。

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