じじい日記

日々の雑感と戯言を綴っております

古谷のもり 異聞

2013-07-31 12:10:38 | 盗作童話
昔ぁ~し、あったどな。

爺様と婆様と、山の古い家に二人で住んでいたったと。
山の家の事だもんで、屋敷内に馬だの猫だの犬だの、そんなのも一緒に寝てるんだっけ。

ある日の事、雨が降り続く晩げの事であったど。

爺様や、漏りが酷くて困ったもんですなぁ~ これは怖くて怖くて、狼なんかより余程怖いもんでやすなぁ~、と、言ったっけ。

ンだな、漏りが酷くなってぼたぼたと来たらば囲炉裏の火でさえ消えてしまうもんだでなぁ~そりゃぁ怖いもんだ、と、爺様は答えた、と。

そん時、納屋の中には狼が隠れていだったんだね・・・爺様と婆様を喰おうと思って忍び込んだんだね。

そんでも、狼は聞き慣れない名前を耳にして、もりってなんだべや?
狼よりもおっかねぇって、そんなものはここの山では出合った事も無いもんだが・・・もりが居るんだが、ここに? と、今まさに爺様か婆様かどっちか喰おうとしていたのに、躊躇っちまったんだと。

あぁ~婆様、あそこ、梁のところ、漏りが酷いんで、雨がやんだら一仕事してやっつけておくかね? と、天上を眺めて爺様が語ったと。

なぁ~にぃ~爺様は狼よりもおっかねぇもりをやっつけるってか?
いやぁ~、これは、迂闊に爺様に飛びかかったら危なかったな。
んじゃぁ婆様こと喰ってやんべかなぁ、と、思ったんだげっとも、もりが気になるなぁ~もりは天上にいるんだかや? と、狼はまた躊躇したと。

そん時、納屋の天井には馬泥棒が隠れていたったんだね。
爺様んちの馬は評判の馬だで、盗んで売り飛ばしてくれようって、潜んでいたんだね。

昔の家の事だし、古屋なもんで明かりもろくに無くて囲炉裏端はなんぼか明るいんだが、辺りは殆ど真っ暗さ。

泥棒はさっさと馬の見当をつけて飛び乗って逃げるべとしていた時に、下の方でごそごそと動くものがあったんだね。

それは狼だったんだげっとも、泥棒は暗くて見えないもんで、馬の背だと思って飛び乗ったんだと。

びっくりしたのは狼だね・・・うわぁ~もりが天上から落ちて来たぁ~と、驚いて納屋から飛び出したと。

狼は背中に取り付いたもりを振り払わなくちゃと焦って、ざんざんと暴れて山中を走り回ったんだげんとも、泥棒も落ちたら狼に喰われちまうと思って、こっちも必死でしがみついて放さねぇし。

狼は狂ったように走り回利、泥棒も振り払われてはならじと必死で、どうにもなんなかったと。

そん時、狼がでかい穴を見つけてどーんと飛んだと。

それは大きな落とし穴で、さすがの泥棒も力尽きて深い落とし穴に落ち込んだと。


狼は山に戻ると狸だの狐だの猿だの兎だの集めて、古屋のもりがどんだけ恐ろしいものか、とくとくと話したと。

すると、山の皆は、いっぺん古屋のもりと言うものば見て見たいもんだ、皆して行けば怖くもねぇべ、と言い出して、狼の案内で見に行く事になった。

落とし穴はとても深くて誰が覗いても何も見えねぇで、もりはよぉ~おっ死んじまったんじゃねぇかぁ? と、言い合ったと。

そん時、お調子ものの狸が、俺の金玉袋は伸び縮みすっから下さ垂らしてみっぺぇ~よ。
そんでもりがしがみついたら引っ張り上げちまうべぇよ、と言って金弾袋を垂らしたと。

泥棒は真っ暗な穴ん中でどーしたら出られっかなぁ、と、思案していた所になんかが降りて来たもんで、これ幸いと掴んで引っ張ったと。

すると、狸ぴっくりして、もりが食いついたぁ~皆して引っ張ってくれろぉ~と叫んだもんで、皆して引っ張ってみたと。

すると、狸の金弾袋はびろーんと伸びて引っ張られちまってずんずん伸びたと。

そん時、狸と仲良しだった猿が、狸どん、今助けてやっからな、と、穴の中に長い尻尾ば垂らしたと。

そん時、泥棒は掴みどころの無い狸の金弾に往生していたもんで縄のような猿の尻尾を見て飛びついたと。

狸は突然金弾袋を放されてどでんしてひっくり返り、猿は尻尾を引っ掴まれて大慌てで、皆して引っ張ってくれろぉ~と、叫んだと。

すると、泥棒がびょ~んと飛び出したと思ったら、猿の尻尾はぶっつりと千切れたんだと。

そして、息んだ猿の顔は真っ赤になっちまって、長くて自慢の尻尾は千切れて短くなっちまったと。

そんで、猿は自慢の尻尾が無くなっておしょすくて、ケツば赤くしてしまったんだと。

ああ、お調子者の狸は、あれ以来、金玉袋が百畳敷きに伸びっちまって難儀してるんだとさ。

とんぴんからりん ど~んとはぁ~れ。


いや、落ちがおもしろく無い・・・異聞になってないなぁ。

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「無情」と「業」

2013-07-31 10:00:47 | 思想信条仏教宗教
諸行無常とはよく言ったもんです・・・人の世を表してコレに勝る言葉は無いと思います。

で、無情とはどんな事かと言いますと、それは、おっさんが思いますには、人それぞれの無情なんで、言葉でコレと言ったものは無いのであります。

しかも、無情と言うのは自分の内から出て来るものでありまして、そもそも、自分の正体さえ一定ではなく定まらないと言うと、現れる無情も定まらないのは当たり前。

と、言う事で、諸行無常なんて言葉をアレコレと解ったように解説しているのはインチキでありましょう。

具体的に言いますと、例えば、おっさん家の婆様が末期ガンなんですけど、しかも、末期ガンの末期なんで、ほとんど完全にな末期なんで大変なわけです。

で、身内のものとしては婆様の衰えて行く姿には心底無情を感じるわけですが、さて、この文字を読んでいる人には、言葉以上の現実の無情が身の内から湧くかどうか?

と、言う事で、貴方の無情は私の無情とは違うので普遍的な無情と言うのは無いわけです。

いや、無情と共感をごっちゃにしてはダメでありましょう。

例えば、3.11の地震と津波で多くの人が亡くなり、巷には無情が溢れ、それを共感し合っていた時もあったわけですが、しかし、その実、それでも無情はそれぞれの内から出たものですから同じモノでは無いわけです。

ああ、解ってもらえてると思いますが、付け加えますと、婆様が間もなく逝ってしまうのが無情なのでは無いのです。
婆様が朽ちて果てるのは無情ではありません・・・生を得たものの必定でありまして、特別にナニと言う事でもないのであります。

ですから、無情は、我が身の内出るものなんであります。

そんな事から、序でに、ナンで無情など身の内から沸き、感じるのだろう、なんて事も考えてみるわけです。

無情を考える時におさんは「業」と言うのを考えざるを得なくなっちまうんですけれども、業と言うのは、色んな書物が言うようにとても面倒臭いものであるなと思っていましたが、近頃ではとても簡単に考えるようになりました。

逃れられない業に絡めとられ、娑婆で蠢く衆生と言うのが色んな宗教の図式でありまして、そこからアレコレナニカニしてすくわれるわけであります。

まっ、解り易い所では、南無阿弥陀仏と唱えれば弥陀の本願に救いとられてお浄土へ行くとか。

で、どんな仏教の・・・まっ、おっさんがもっぱら読むのが仏教関係の書物なんでそれしか語れないんですけれども・・・どんな仏教の本を読んでも衆生は悟らないといけない・・・行けないは文字通り行けないんでありまして、極楽浄土に行けないんであります。

と、言う事は、仏教を齧ったら極楽に行かなくちゃダメなんであります。
仏教徒でありますと言っといて、大乗でアレ上座部でアレ、お釈迦様のいる所を目指さない事には話しにならないんで、娑婆はいる所ではないわけです。

甚だしい時には、娑婆にいたまま気持ちはお浄土へ、なんてのが書かれているものも読みました。

さて、話しは飛びますが「業」であります。
人が娑婆に生を受けた以上は背負っているとされる「業」でありますが、おっさんは、コレを悪いものとは思えなくなって来たと言いますか、それ以上に、ひょっとして、これこそが人が人として行きている証しなんじゃないのか?と、思うようになったわけです。

要するに「業」とは、生身の人間が生きる事その事であると、思うのであります。

生きる事が業である・・・死んでしまえば全部亡くなるのでたぶん当たりだと思うんですけれども、如何でありましょうか?

で、業と言うのは人としてや生き物としての本能に根ざしている所が大きいと思うわけです。

強欲ですとか、姦淫ですとか、暴力ですとか、嘘ですとか、様々あるわけですが、それは、感情的な部分以外はどの動物も持つものであります。

で、大事なのは、感情の支配する「業」じゃ無いかと思うわけです。
例えば嘘なんかは、恐らく犬や猫は嘘は言わないし騙すと言う事も無いのだろうと思うわけです。

何故人間には感情と言うのが起きて本能的意外のものが出て来るのかと言うと、これもたぶん、動物の中で人間だけが持った本能なのだろうと思うわけです。

でありますから、良い嘘とか悪い嘘などと言う社会が定義するものとは別にして、嘘を言わない世界なんてのは無いわけです。

仏教には方便と言うのがあるようですが、おっさんに言わせれば話しの辻褄が合わなくなっちまった時に使う嘘、誤摩化しでありまして、やっぱし、人間はそれが無いと社会が成り立たないんじゃないかと思うわけです。

仏典から方便と言う解釈を抜けるのか? 無理だと思うんですけれども、もしも抜いたら、矛盾だらけになっちまいます。

と、言う事で、人間社会そのもの、人が生きる事を「業」と言うと思うので、業を否定してしまうと社会そのものを否定してしまう事になって、ンじゃぁ人間はどうやって行きて行くのよ?

死ぬのが一番と言う事になりはしませんか? 死んでお浄土で安寧を得ると言うのが手っ取り早くはありませんか?

それなのに、お浄土が素晴らしくて、南無阿弥陀仏ですくわれるんだからと言った口で、ナンでアレコレ理屈をつけて娑婆の苦労は続けなくちゃ成ら無いんですか? と、思っちまうわけです。

しかし、こんな単純な問いかけには難万遍もの答えはあって、それは一つ一つを読むと、成る程なぁ~、と、納得させられるのであります。

しかし、また、敢えてしかしであります。
それらの答えは、どうしても方便が入って来るわけです。

極端な話しをしますが・・・偉い棒様が請われて説教をしに出掛けるとします。
飛行機で行くか、新幹線で行くか、と、言う事で、例えば奈良の坊様が東京の公演に歩いて行ったと言う事は無いと思うわけです。

いや、歩いて行くと言われても、それでも娑婆の「業」からは逃れられないのであります。

歩く為の道路は、「業」を背負って解脱も出来ていない衆生が作った道であります。
仮に托鉢して糊口を凌いだとしても、布施された供物が「業」の固まりから生まれたものであります。

で、たぶん坊様ならそんなものには囚われないと、内面的と言いますか、仏教者の得意な「霊性的解釈」なんてのを持ち出して解釈すると思うんですが、現実の娑婆は未だすくわれていない衆生、言わば餓鬼が作っているわけです。

この現実の「業」・・・要するに社会生活ですね・・・これを無視して宗教的な立場で人のアレコレを語っても、おっさんのような凡夫は、最後には、ンじゃぁ飯はどーやって喰って行けば良いんだ? と、なり、もっと言えば、仏様は、戦争を止めさせろよな、キリスト様は、あんた、偉そうなことを言うんなら、日本に原爆なんか落とさせないように、そっちの人達をナントカしてくれれば良かったのに、なんて事まで話しは飛躍するわけです。

さて、諸行無常は世の常であります。

この世は無情なのであります、が、この無常観は自分の内なる声であると言いたいわけです。
さて、それでは、何故人は無常観を持つのかと言うと、「業」と言うのはこの世の人の数だけあって、それはたぶん、個で、個々に存在するんだけれども、社会と言う器の中では個が共鳴と言うか呼応し合うと言うか、集まって大きな集団になったり、巨大な力を持ったりするわけです。

そして、人は元から自然の一部でもあって、「業」によって変化する社会とは別に、自然の社会も記憶にあるんだろうと思うわけです。

と、言う事で、個の、自然の感覚に帰る事の出来る存在は、個では如何ともし難くなった「業」に無情と言う感覚を覚えるんじゃないかと思うわけです。

で、例えば、我が家の婆様の衰弱などに感じる無情は、個の中の無情なんですけれども、それも「業」に対するものと元は同じで、ナンともし難い現実にたいして・・・もっと生きていて欲しいんだがなぁ~、と、言う、なし得ない願望を否定されるところに無常を抱くのでありましょう。

これは、個が集団で形成されて動く社会の「業」に希望や願望を抱き、しかし、それは意識がであれ、適わぬものなのであるな、と思う時に感じる無情と、元は同じ・・・侭ならぬ事に感じる無情と言う事なんじゃないかと思うわけです。

さて・・・本日の駄法螺は、ただ今読んでいる仏教書から大分パクっているので、そこそこで来ていると思うんですけど・・・ダメですか?



コメント (2)
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