一度に何冊もの本を同時進行的に・・・まっ、要するに、四時間本を読むとして、一時間おきに違う本を読むと言う事なんですが。
いや、理屈で考えたら面倒臭そうでごちゃ混ぜになりそうですけど、意外とそうでも無いんですけどね・・・しかし、それはジャンルの違う本とか、著者が違う本の場合であって、同じ著者の似たような系統の本を同時進行で読むと大変な事になります。
ナニっ? ナニを分けワカメな事を宣っているのだ、と、おっしゃいますか?
いやね、アマゾンで中古の本を探していたら鈴木大拙の禅とか真宗関係の本を多めに買っちまって、それを数ベージずつ読んではまた違うのに移ってってやってたら頭混乱してきたもんで、つい言ってみたかったわけです。
そんなわけで、禅の話しは止めて、経済の話しでもしますか? お題はTPP?
おっさんは OPP? OPPって、TPPより大変だって皆して言ってるよ。
歌舞伎役者で舞台で踊りながらウンコ漏らす人が居るんですって?
漏らすのはこの人です!!!
そっかぁ~・・・才能ある者は漏らすんだなぁ~舞台でかぁ~やるなぁ~。
で、TPPに行く前に、今考えている事・・・ウンコが漏れそうな時って我慢するよね?
しない? 漏れそうにならない? 平気だってかぃ?
まっ、漏れそうなのはドーでも良いんですけど、我慢って、良い事ですかね?
我慢の「我」をgoo先生に意味を尋ねてみたら・・・↓
1 われ。自分。自我。「―の意識」
2 自分の意志や考えを言い張って、人の言葉に従わないこと。わがまま。
「あくまでも―を張り通す」
3 《(梵)ātmanの訳》仏語。人間の個体そのもの。また、その個体の中心生命。
と、言う事で、どーも自分の事なんだな、と思うわけです。
で、我を使った言葉を探してみると・・・我を張る・我を通す・我が強い・・・など等、で、どーも我と言う奴は主張するものであるな、と、思うわけです。
で、ンじゃぁ、と言うので「慢」をgoo先生に尋ねると・・・↓
1 心がゆるんで締まりがない。「怠慢」
2 速度や進行がだらだらと遅い。「慢性/緩慢」
3 他をみくびっておごる。「慢心/我慢・驕慢(きょうまん)・高慢・傲慢(ごうまん)・自慢・侮慢・暴慢・増上慢」
と、出まして、こっちも殆ど良い意味が無さそうに見えちまうんですけれども。
そんなわけで、我は張っては良く無いし、通しても良く無くて、それに慢は、心がゆるんで締りがない、との意味があるとなると「我慢」は、しては行けないんじゃないか?
と、おっさんのなかでは、そう言う結論になっちまったわけですが・・・コレ、如何に?
我慢は良く無い事は字面から引いてきた意味から間違いないとなれば、我慢はしては行けない・・・ウンコ漏れそうな時でも我慢しては行けない・・・それは「法」に背くわけであります。
いやぁ~中村勘九郎・・・悟ってますなぁ~、流石に古典の人であります。
で、おっさんが言いたいのはそんな事ではなく「法」の事であります。
我慢って、した方が良くて、我慢できないのは悪い事だとされていませんか?
いや、屁理屈で娑婆の利と理に適った言葉で我慢を正当化するのは簡単であります。
それが娑婆の理屈ですから。
しかし、法というのは言い換えれば自然とでも言いましょうか?
法では、我慢は無駄な事だと言うわけであります・・・不自然であると。
で、意味不明になる前に適当な所で落としたいわけですが・・・要するに、漏れるウンコを恥ずかしがらなくてはならない世の中の方が不自然なんですけどね、と、言いたいわけです。
そして、それは、ウンコ漏らしに限らず、娑婆の考えは、現世利益・・・要するに不自然な利と理によって歪められているんです、と言う事を宣いたいんですけど・・・わかるかなぁ~ わかんねぇだろうなぁ~。
いや、理屈で考えたら面倒臭そうでごちゃ混ぜになりそうですけど、意外とそうでも無いんですけどね・・・しかし、それはジャンルの違う本とか、著者が違う本の場合であって、同じ著者の似たような系統の本を同時進行で読むと大変な事になります。
ナニっ? ナニを分けワカメな事を宣っているのだ、と、おっしゃいますか?
いやね、アマゾンで中古の本を探していたら鈴木大拙の禅とか真宗関係の本を多めに買っちまって、それを数ベージずつ読んではまた違うのに移ってってやってたら頭混乱してきたもんで、つい言ってみたかったわけです。
そんなわけで、禅の話しは止めて、経済の話しでもしますか? お題はTPP?
おっさんは OPP? OPPって、TPPより大変だって皆して言ってるよ。
歌舞伎役者で舞台で踊りながらウンコ漏らす人が居るんですって?
漏らすのはこの人です!!!
そっかぁ~・・・才能ある者は漏らすんだなぁ~舞台でかぁ~やるなぁ~。
で、TPPに行く前に、今考えている事・・・ウンコが漏れそうな時って我慢するよね?
しない? 漏れそうにならない? 平気だってかぃ?
まっ、漏れそうなのはドーでも良いんですけど、我慢って、良い事ですかね?
我慢の「我」をgoo先生に意味を尋ねてみたら・・・↓
1 われ。自分。自我。「―の意識」
2 自分の意志や考えを言い張って、人の言葉に従わないこと。わがまま。
「あくまでも―を張り通す」
3 《(梵)ātmanの訳》仏語。人間の個体そのもの。また、その個体の中心生命。
と、言う事で、どーも自分の事なんだな、と思うわけです。
で、我を使った言葉を探してみると・・・我を張る・我を通す・我が強い・・・など等、で、どーも我と言う奴は主張するものであるな、と、思うわけです。
で、ンじゃぁ、と言うので「慢」をgoo先生に尋ねると・・・↓
1 心がゆるんで締まりがない。「怠慢」
2 速度や進行がだらだらと遅い。「慢性/緩慢」
3 他をみくびっておごる。「慢心/我慢・驕慢(きょうまん)・高慢・傲慢(ごうまん)・自慢・侮慢・暴慢・増上慢」
と、出まして、こっちも殆ど良い意味が無さそうに見えちまうんですけれども。
そんなわけで、我は張っては良く無いし、通しても良く無くて、それに慢は、心がゆるんで締りがない、との意味があるとなると「我慢」は、しては行けないんじゃないか?
と、おっさんのなかでは、そう言う結論になっちまったわけですが・・・コレ、如何に?
我慢は良く無い事は字面から引いてきた意味から間違いないとなれば、我慢はしては行けない・・・ウンコ漏れそうな時でも我慢しては行けない・・・それは「法」に背くわけであります。
いやぁ~中村勘九郎・・・悟ってますなぁ~、流石に古典の人であります。
で、おっさんが言いたいのはそんな事ではなく「法」の事であります。
我慢って、した方が良くて、我慢できないのは悪い事だとされていませんか?
いや、屁理屈で娑婆の利と理に適った言葉で我慢を正当化するのは簡単であります。
それが娑婆の理屈ですから。
しかし、法というのは言い換えれば自然とでも言いましょうか?
法では、我慢は無駄な事だと言うわけであります・・・不自然であると。
で、意味不明になる前に適当な所で落としたいわけですが・・・要するに、漏れるウンコを恥ずかしがらなくてはならない世の中の方が不自然なんですけどね、と、言いたいわけです。
そして、それは、ウンコ漏らしに限らず、娑婆の考えは、現世利益・・・要するに不自然な利と理によって歪められているんです、と言う事を宣いたいんですけど・・・わかるかなぁ~ わかんねぇだろうなぁ~。