輪島の産廃問題に関わりだして半年が経過した。
珠洲市議会の同僚議員からは「あんたも忙しいなぁ また輪島行ってたやろ」とからかわれ、
久しぶりに会ったかつての県議会の同僚議員からは珠洲ではなく「輪島の方はどうや?」と聞かれる始末。
もちろん毎日毎日、産廃問題だけに関わっているわけではないが、それなりの比重を占めてきたことは間違いない。
輪島市門前町大釜で計画されている産廃処分場は決して輪島だけの問題ではなく、能登全体の問題だという思いがあるからだが、もう一つこだわる理由をあげるなら、話は19年前にさかのぼる。
昨日紹介した1998年の輪島市長選挙である。
市内大半の団体の推薦を取り付け盤石の体制を固めた現職五嶋市長に対して、現職市議の椅子を投げ打って市長選挙に挑んだ梶文秋氏。
10人中10人が勝ち目なしと見ていた中、梶氏は見事な大逆転で初陣を飾った。
この選挙、私も梶氏が出馬を模索する段階から関り、7日間の選挙期間中は6日間輪島に張り付き、政策宣伝カーでマイクを握り続けた。
金曜日・・・並んだな。
土曜日・・・抜いたぞ!
そんな感触がそのまま表れた選挙結果だった。
この奇跡的な梶氏勝利は「輪島ショック」として県政界を揺るがした。
開票翌日、私は能登総合開発促進協議会の陳情で東京だった。
羽田から霞が関に向かうバスの中、たまたま隣あわせになったのが、当時の輪島商工会議所会頭のS氏。
現職五嶋市長陣営の選対の役職を覚えてはいないが、後援会長を務めていてもおかしくない立場の方だ。
このとき、S氏が私に向かって語った一言がいまでも忘れられない。
「これで輪島の発展は10年遅れる」
本当は隣の珠洲市から連日輪島に駆けつけた私に対して「輪島をめちゃくちゃにしやがって」とはらわた煮えくり返る思いだっただろうが、温厚な(と私は思っているが断言するほどの付き合いはない)S氏は、努めて冷静に私に語った。
私は「そんなこと言わず協力してやってください」というのが精いっぱいだった。
そのS氏はじめ、当時五嶋氏を応援した皆さんの多くは二期目の選挙から梶市長の応援に回った。
いまS氏は、「やっぱり10年遅れたじゃないか」と思っているのか機会があったら聞いてみたい気もするが、実は私はS氏の回答を聞くまでもなく、S氏の指摘が当たりだったと思っている。
産廃問題や5年前の震災がれき受入問題を見る限り、少なくとも輪島は民主主義に関しては10年遅れたと認めざるをえない。
それを挽回するのが今回の住民投票だと思っている。
挽回する責任の一端が私にもあると思っている。
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