オヤジの弁当箱

日々の手作り弁当だけが生甲斐のしょぼくれオヤジ。弁当メニューと併せて日々の雑感を付記。

金沢&富山

2013-04-25 | Weblog

4/25(木) 昨夕、金沢から富山への取材を終えて帰社。飯と酒でちょっと疲れ気味、終業後は真っ直ぐに帰るつもりだったが篠付く雨に足を奪われ、一杯だけのつもりで「ローカーボ」のドアを押した。

一杯のつもりが客は誰も居らず、二杯・三杯となる。店主の「ズブロッカは冷凍庫にいれましたよ」の一言で、仕上げにズブロッカを飲った。

先週、ズブロッカをオーダしたが冷やしてなかった。『こいつは冷凍庫で冷さないと』と、注文を付けたのだ。こいつを始めて飲んだ時、美味くて何杯も重ねたが、そんな元気は今やなし。

この日、富山でも朝から雨であった。おまけに風が強い、と云うよりは強風が吹き荒れていた。取材は室内での撮影、日本舞踊のお稽古のだったので助かった。

前日に金沢でインタビューと金沢城公園で外の姿を撮ったが、日程が入れ替わっておれば大騒ぎなところ。日頃の行いの良さか?

帰りはカメラマンの杉田君に飛行場まで送ってもらった「この風じゃ、飛びませんよ」と言う。『俺の場合は、これまでそんなことは一度もない。いや一度だけ八丈島行が止まったか。それだけなんだ、大大丈夫に決まってら~』と強弁した。案の上、飛行機は何の支障もなく飛んだ。

今回の取材は、福井と富山で日本舞踊のOGサークールを率いる代表者の対談。と、富山のサークル「ゆうゆう会」のお稽古の様子を撮ることであった。サークルの代表に、北陸の中心で双方から真ん中となる金沢まで来て頂いた。

インタビュー会場との調整、撮影のロケハンのために前日の夕刻に金沢に入った次第。

その夜は懐かしきメンバー、資材局時代の先輩や後輩たちと一献酌み交わした。二十年以上も顔を合わせていなかったKITADE君や十数年ぶりとなるHIRONO先輩、IIDA君、つい先日東京で飲んだMURAI君である。

昔話に花が咲き、話題は尽きない。愉しいひと時を過ごした後、MURAI君の案内でカラオケスナックへ。先日の「ローカーボ」での仇討とばかりに、濃~いハイボールを飲まされてしまった。が、お蔭でぐっすりと眠った。

6時過ぎから、ホテルの脇となる金沢城公園を散歩を兼ねたロケハンをする。金沢には何度も来ているが、お城は初めてであった。広~い、広かった。建物は再現された門や再現中の城郭等があるだけだが、広い。9万坪あるとか。ここから橋一つ、石川門から兼六公園へと繋がる。

             

8時にMURAI君が迎えに来てくれ、「野田山墓地」へと向かった。資材局時代にお世話になった課長、大澤さんの墓に詣った。大澤さんは金沢電話局長として地元に戻り、間もなく逝去された。金沢を訪れると野田山墓地に詣でるが、常にMURAI氏が案内を下さる。

11時過ぎからライターやカメラマン、クライアントのN氏、対談を頂く梅津さん、渡辺さんが会場の白鳥路ホテルに参集。ランチを摂りながらのインタビュー、金沢城公園での撮影と順調に進んだ。

                           

日本舞踊の御師匠さんらしく、板についた着物姿が見事でした。堀端での撮影では、観光の外人さんが珍し気に見ていた。

                          

予定どおり午後3時頃には取材が終了。兼六園を知らないと云うクライアントとライターを同伴して公園の見物へ。ボランティア・ガイドさんのお世話になった。兼六園の坪数は3万坪、完成には四代藩主から十二代の藩主まで関わったとのこと。それほど長期に亘ったとは・・・・。

                          

染井吉野は葉桜であったが、珍しい八重や牡丹の桜が残っていた。

                    

 

金沢市内を車で半周した後、駅に向かう。黄昏が迫る頃に富山に入った。高層ホテルの窓からは残照が射す立山連邦(多分)が望め、足下には富山城址と、駅から距離のあるホテルながら景観と部屋はよかった。

                      

夜の食事は、駅前の「漁火」という和食の居酒屋さん。弊社のU老お奨めの店で、老が予約をしてくれた。ここで富山の旬魚、白エビ・ホタルイカetc、ズワイガニと盛り沢山に出た。が、何時もながら私は殆ど箸を付けない。専らビールとハイボールを傾けながら話の聞き役であった。

                          

この夜もよく眠った。明日の天気が心配ではあったが・・・。

 

 

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