12/6(金) 昨日は、午後から横須賀に向かった。京急線・快速特急の車窓からの景色を楽し間もなく、車中で週刊誌をめくっているうちに汐入駅を通過、横須賀中央駅に停車、14時半頃には次の停車駅、堀ノ内に着いた。私たちが住んだ寮は、この駅から10分程戻った国道沿いに在った。と云うのは、数年前に廃寮になっているから。
この駅に降り立ったのは彼是十年以上も前になろうが、見事なぐらいに変わっていない。十余年も前に、乗り降りしていた頃と同じである。昔馴染んだ小道を、寮の在った方角に向かう。ここら辺りだだった思う場所には、チェーンのラーメン店とコンビニが建っていた。駅前の通りは変化がないが、国道沿いは様変わりをしていた。
この日、その寮に住んでいたメンバー6人と、寮の隣に在る食事処「埼玉家、現在は『天まる』と云う店名」の店主夫妻との飲み会である。仕事のために一人欠けて東京からは五人となったが、午後三時前には皆が揃った。
今年の夏、嫁が家から去ったとのことで、前店主夫妻も年中無休となった店を手伝っているとのこと。店の切り盛りは料理人になった息子が継いでいるが、この日は「貸切」の札が下がっていた。店内はリニューアルされて、変わっていた。
今日のメイン料理は、直ぐ近くにある魚市場から朝仕入れてきたと云う『河豚』であった。店を継いだ息子は、天麩羅屋や河豚の名店で修行してきた。赤坂のフグ料理店仕込みの料理を披露してくれた。飲み物は何時もどうりに生ビールからハイボールにした。日本酒のぬる燗といきたいところだが、遅くまで続く時間の長さを考えて自重した次第。
刺身、河豚唐揚げ・鍋、生米から炊き込んだ雑炊などを堪能。話も尽きないが、お定まりのカラオケ・スナックへ移動となる。堀ノ内駅前の鄙びたスナックへと案内して貰う。田舎町の取りたてて特徴もない、スナックであった。地元のオジサンやおばさんが一杯やり、焼きソバなどを喰ったりして、上手くもないが唄いなれたマイクの握りする。何処の田舎町にも1~2軒はありそうな、そのような店である。
未だ時間が早いのか、先客はカウンターに一人だけ、我等7人がマイクを独占して唄いまくりである。とは云いながら、私はお付き合いに一曲だけ、申し訳程度にマイクを握った。この店で「南 らんぼう」の曲が有った。そこで『ウイスキーの小瓶』をさらりと唄った次第。
店主夫妻は仲良くチークなんかを踊る、大学教授のO氏も、紳士で鳴らしているN氏とU氏は息の合ったディエット、カラオケ大好きぶりをそれぞれが発揮した。
漸くお客さんが入り始めた、21時となるを汐に引き上げることとなった。上りの快速電車が折よくやって来た、一駅だけ乗り、一人横須賀中央駅で降りた。酔いも醒め始めていた、どうしても「かすみ」の婆さんの姿を見て行こうと思ったのだ。
居酒屋「かすみ」
横須賀中央駅の正面改札口を出ると、広い歩道橋が駅前の通りを覆うように広がっている。歩道橋のすぐ右手が、若松マーケットという奥行のない通りである。入ってすぐ右手が諏訪神社、その先の路地を-路地という言葉は、この路地のためにあるような-左に入り突き当りの手前に「かすみ」が在る。あった。この辺り一帯を若松町と云う。
薄暗い路地を入って行った。灯りがない、残念なことに婆さんの店「かすみ」は、シャッターが下り貸店舗の札が掛かっていた。店は閉まっていた。シャッターの降りた狭い店先に暫く佇んだが、なにも湧いてこなかった。一枚、写真を残すことにした。
店は閉じても元気でいてくれればいいのだが・・・・。そんなことは無理だろうな・・・、せめて養老院なり病院なりでも、それなりの元気で暮らしていればいいのだが。
胃癌で早くに亡くなった横塚さんに連れて行ってもらったしがない飲み屋であったが、私には妙に肌合いが合う店だった。歩けば体中の骨が関節が、ギシギシと音を立てそう婆さんだった。若いころから苦労を重ねてきたような、そんな重みが、顔にしわがれた手先につもり、店の重く垂れ込めた空気となっていた。が、それらを吹き払うような声と笑顔を時折見せてくれた。
不出来な息子の話、庭先で採れたという胡瓜、孫のこと、通っている病院の先生のこと、横塚さんのこと、後輩のKの面白話・・・、安酒を口に運びながら聴いたそんな話を、もう二度と聴けないな・・・。そんな思いを抱いて、上りの電車に乗った。