オヤジの弁当箱

日々の手作り弁当だけが生甲斐のしょぼくれオヤジ。弁当メニューと併せて日々の雑感を付記。

獺祭&「まき貝のうた」

2017-10-27 | Weblog

10/27(金) 昨日の午後、予定どおりにTUGAWA&HANAOKAさんのお宅を訪ねた。鮎とともに「南」の冷おろしを一本携えて・・・・。

借家の小さな庭に、隣の屋根越しに柔らかな日差しが届く小春日和の穏やかな午後となった。今年一房、昨年も一房実ったと聞いている、数年前に持っていた実生葡萄の木が枝を伸ばし、未だ青い葉を残していた。HANAOKAさんが試作を経て準備したという手料理でもてなしてくれた。

年にい一度か二度、この家を訪れてご馳走になり、過ぎ去りし日々の思い出など語り合う。昨日は、行ってきたばかりの会津のことなど話した。そして、ユーチューブから白虎隊の歌など流してもらい去りし日のことを偲んだ。HANAOKA女史は会津に行ったことがないという。是非行ってきたらと薦め、春に三人で行けたらいいね、と言った。

三人での旅、湯ヶ島から河津へと抜けた旅。そして、伊豆半島の突端にある入り江の小さな町・子浦、真夏の白浜海岸。一番最初は、満開の吉野の桜を観に行った時であったあろう。昨晩もその時の桜の見事だったことや、宿の部屋を譲ってくれたINOUEさんのことなどが話題になった。

テーブルの上が獺祭の如くになり、宴も潮時を迎えた頃。女史がHIROさんの亡くなった姉、郁美さんが書いた本のことを言った。本は、一家が一時住んだ、神戸・長田であろう地での暮らしを郁美さんの視点で描いたものだと云う。

                        

HIROさんが学齢に達していない年令で、その中で、HIROさんはジロウという名で出てくるとか・・・。時代的には、昭和二十年代の半ばから後半の頃か。HIROさんは照れたのか「誰かに貸したんじゃない」と言うが・・・・・。

二階から一階と、女史が探してくれ「あったわよ」と、古い単行本を手にしてきた。それが「まき貝のうた」で、著者は坪井郁美とあった(1985年初版、発行所は福音館書店)。お借りして読ませてもらうことにした。

                           

辞去しての帰り、車中で少し読み。帰宅してから、半分ほどまで読み進めたが、未だ読了していない。戦後から間もない、昭和のレトロ感いっぱいの空気と風景。病気の母親と健気に生きる兄弟姉妹、三女で小学低学年ながら、意志・生命力旺盛な少女(郁美さんであろう)から見える、時代と家族と暮らし、心情が活写されている。

懐かしく思えるのは、さほど年代が違わない時代を生きてきたからであろうか・・・・。

辞去し、玄関先から見上げた夜空に三日月が、くっきりと浮かんでいた。「上弦の月ネ!」と、女史の声がかぶさってくる。HIROさんに見送られ、武蔵小金井の駅へと向かった。

吉祥寺で井の頭線に乗り、渋谷へ。井の頭線渋谷席の周辺の店も、随分と変わっている。そんな町並みを目にし「奈加野」の看板の長さが偉く思えてきた。あのオヤジが、奈加野の看板を掲げてから四十年余となるのだから・・・・。

木曜日の奈加野は、暇そうであった。オヤジに『これだけ長く看板を掲げているとは、たいしたもんだね~』と言うと、「家賃が安いからやってられるんだよ」と応えた。店が入っているビルは、奥さんのお父さんが建てたビルなのだ。オヤジが「オレは養子だよ」と言う気分も分らんでもないか・・・・。          

                          

腹が減ったと云うオヤジに付き合って、河岸を変えて酎ハイを飲み、博多ラーメンを喰ってからの帰宅となった。

 

さて今朝の弁当だが、昨晩お土産に頂いた女史手作りの「中華ちまき」をご飯代わりに使った。加えて、残りご飯で「鮭炒飯」を作る。

                         

ズッキーニとオクラ・蒲鉾の煮物、ジャーマンポテト、胡瓜・茗荷・若布の酢物、オムレツ風卵焼き、以上で、二人分の弁当を作ってお仕舞である。

              

 

今夕はサラリーマン時代の後輩が二人、人形町まで来るとか。酔っ払った俺は、余計な講釈を垂れなきゃいいのだが・・・・。若い人が遊びに来てくれるのは、嬉しいもんだ。

 

 

 

 

 

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